常滑の陶彫

常滑でとても市民に慕われている陶彫があります。
上村白鴎(1754〜1832)文政5年(1822)作の『蝦蟇仙人像』(高さ20p、常滑市立陶芸研究所蔵)です。
奔放で雄渾、そしてどこか愛嬌のある像だと思います。
この時期、元功斎(1721〜1783)青州和尚(1734〜1807)等が、巧みな細工物を作っています。
しかしながら、常滑の陶彫が花開き盛んに作られるようになるまでには、明治時代まで待たねばなりません。

明治16年に常滑金島山工場内に設けられた常滑美術研究所に、内藤陽三(1860〜1889)、寺内信一(1863〜1945、在任明治18年〜)が招かれました。
彼等は工部省美術学校(現:東京芸術大学)でヴィンツェンツォ・ラグーザに彫刻を学び、図画、幾何画法、解剖学、遠近法、粘土塑像法、石膏型の製法などといった、西洋式美術教育を教授しました。
彼等の指導は、内藤陽三明治18年、寺内信一は明治21年に美術研究所が廃止になるまでの僅かな間でしたが、その教えは常滑陶芸界、陶業界に多大なる影響を与えました。

この時期に、美術研究所で学んだ平野霞裳(1873〜1938)は、明治29年、後の常滑陶器学校(現在の愛知県立常滑高等学校)の前身となる常滑工業補習学校の模型実習担当教師として赴任し、昭和7年になるまでの間、教鞭をとりました。
その間、多くの子弟を陶芸界に送り、常滑焼に与えた功績は非常に大きいものといえます。

平野霞裳が制作した『鯉江方寿翁像』、『技芸天女』は圧倒されるまでの迫力のある作品です。
柴山清風(1901〜1969)は平野霞裳につき、精巧な造形で陶像を作り上げました。

明治〜昭和期にかけて活躍した人物で、忘れてはならない陶彫家がいます。

富本梅月(1861〜1939)です。

梅月は浦川一斎(1856〜1909)の門下ではありますが、彫刻は独学だったそうです。
寺内信一と浦川一斎の交流を通じて、浦川一斎とともに美術研究所(明治20年〜)での制作にもあたっていました。
梅月の陶彫は江戸期の細工小物を思わせる作行きで、凄く繊細にして、とても優美だと思います。

昭和7年、常滑陶器学校に平野霞裳の後任として坂田芳信(1907〜1961)が就任し、模型実習、解剖学を指導しました。
坂田芳信は東京美術学校彫塑科在学時より帝国美術院展覧会に出品、入選しています。

昭和26年には、杉江翁軒(1881〜1963)等が今後の陶彫の必要性を説き、坂田芳信を代表としたグループ『陶彫会』が発足。
常滑近代陶彫の基盤となりました。

その後、伊奈重孝(1894〜1959)、片岡武正(1901〜1964)、桑山隆光(1909〜1979)、前川指月、水上水玉(1884〜1957)といった作り手が、昭和の陶彫を担って行ったのです。




昭和初期、陶器学校にて

右の彫刻は坂田芳信作『裸婦』(昭和8年頃作。陶器学校の文藝大会時の写真でしょうか?)

中央に坂田芳信(中央右4)、常滑陶器学校校長押谷鉄三郎(中央右3)
前川指月(後方左2)
静観は後方左3



 上村白鴎碑

 常滑天神山にある陶祖碑。
 左横には鯉江方寿翁碑があります。
 
 また、正住院には『白鴎伝の石碑』(市指定文化財)があり、
 1833年に松本久右ヱ門重張、村田藤助、
 浜島傳右ヱ門らによって建立されたと伝えられています。
 
平野霞裳作 

鯉江方寿翁像 

大正4年制作 

2m60cm 

天神山(常滑市) 

鯉江方寿は常滑陶業中興祖として崇められています。
美術研究所のあった金島窯も、方寿の工場でした。
常滑陶器同業組合(組合長伊奈初之丞)の
依頼によって作られました。

 富本梅月作

 柿本人麻呂像


 明治22年頃

 100cm

 天沢院(常滑市)

柴山清風作 

聖観音像 

昭和33年制作 

190cm 

相持院(常滑市) 

相持院建て直しに尽力した辻寄代一が 
戦死した息子の霊を慰める為に寄進しました。 
萬国英霊観音像  
 片岡武正作

 伊奈長三郎氏像

 昭和39年制作

 110cm

 常滑市立陶芸研究所

 武正はヨリコ作りも行っていましたが、
 これは、型おこし技法で作られています。

参考文献
柿田富造 『胸像の変遷ー常滑焼を中心としてー』
二代山田陶山 『常滑陶芸史の研究』
吉田弘 『常滑焼の開拓者 鯉江方寿の生涯』
常滑郷土文化会つちのこ 『街の中で見られる陶彫』
常滑町青年会『常滑陶器誌』



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