人というのは簡単に自分にとって物事を習慣づける。人として生きる事を捨てた筈の自分にもまだ、その習性は捨てきれていなかった、と言う事か。


 ユーリ・ローウェルは困惑していた。
 世界中を旅し、様々な人を、物を、現象を、その身をもって体験してきた手前、余程の事でもうろたえたりしない…そんな自身があった。しかし今は、その自負さえも音もなく崩れ去る。
「ユーリ・ローウェル」
 そう、おかしいのはあの日からだ。朝方雨が降り、彼の住む森を濡らした日。ラピードの汚したベッドの代わりに、男二人で一つのベッドに潜り込む羽目になった夜。
「ユーリ・ローウェル?」
 確かに彼の言う通り、複数の人数で雑魚寝するなどユーリには慣れた事だ。知り合いならば尚更、意識するより先に眠気がくる。
 けれども違うのだ。彼だけは、十年前の戦役の歴史から消された英雄であり、まだ記憶に新しくもまたもや歴史から真実と共にその存在を消された大罪人、デュークというその人には。

「ユーリ・ローウェル」

「!?」
 呼び声に気付いて、ユーリははた、と我に返る。顔を上げると、そこには随分と間近で、あまり近くで見ると本当に心臓に悪いくらいに綺麗な顔がこちらの顔を覗き込んでいた。
「うぁ、あ、…デュ、デューク?」
「何度も呼んでいる」
 そう言えば、ずっと遠くで誰か呼んでいたような気がする。誰、と言ってもこの辺りには自分とラピードと、このデュークくらいしかいないだろう。しかもラピードは犬なので最初から論外だ。
「わ、悪い。何だった?」
「………」
 無言でデュークの視線がユーリから、ユーリの手元に動く。それからユーリの手にする棒状の物を辿り、その先へ―――…糸が途中から、ない。
「あー!やられたー!!」
「―――だから呼んでいたと言うのに」
 手にしていたのは釣竿だ。慌てて引き上げてみるものの、糸は途中から切れ、その先の糸には針も餌もない。
「今日の晩飯ー!」
 川の中を覗いてもそれらしき魚影はない。落胆してどかりと腰を下ろすと、その隣にデュークも腰を下ろしてきた。
「私は何度か呼んだんだがな」
「う…悪ぃ、ぼーっと考え事してた…」
「考え事?」
「………」
 尋ねられて、答えられない。どう答えたものかと黙ってしまえば、デュークも同じく黙る。
 黙って、やがてユーリの髪の束を一つ、その長い指で掬い上げるように掴む。そのままくるくると手持ち無沙汰に弄りだし、それも飽き出すと何を思ったのか、弄っていた髪の先端に唇を持っていって―――…。
「ちょ、おい!何やってんだアンタ!」
「?」
 その様子をじっと見ていたユーリは慌ててそれを引ったくり、デュークから身を引く。次の動作を警戒して僅かに顎を引いて見遣れば、彼は不機嫌そうに眉をひそめていた。
「何をする、のは、こちらの台詞だ」
「いやいやいやいや、違うだろ!何かされたのはオレだし!」
「お前がなかなか言い出さないから、待っていただけだ。それとも、言う気になったのか?」
「うぐ…っ、そ、それは…」
 それと髪にキスするのは違う。関係ない。しかし、実は黙ってしまったのにはそれが関係しているなんて、本人に対して言えやしなかった。
(なんで急に触ったりとか、キスしたりとかデュークのオレに対するスキンシップが激しくなったんだ…!?)
 もう意味がわからない。
 先日眠らせるという理由でかなりディープなキスをされた。その翌日から、デュークのユーリに対する態度が変わった。いや、無表情で反応が薄くて、何を考えているのかわからないのは相変わらずだ。そこに彼のイメージとはおおよそ掛け離れた他人に対するコミュニケーション方法が付随する。
(て言うか、男同士でするスキンシップじゃ、ねえ…)
 思い出すだけで顔が熱くなる。けれどもそれを悪いとか嫌だとか、別にそうとも思えないのがユーリを更に困惑させる。
「お前はすぐそうやって黙り、勝手に考え込むな」
「…アンタは思った事を隠さなすぎだ…」
「ふむ、そうでもないがな」
「っ?」
 するり、と頬を撫でられた。思わず身を固くして目を閉じるが、それだけだ。そうっと目を開けると、既に目の前にデュークはいない。
 立ち上がり、すたすたと家のある方に歩いて行ってしまう背中だけがユーリには見えた。
「…………はあー……」
「わふ?」
 ユーリは盛大にため息を吐き出し、傍らに座るラピードの背中に抱き着いた。
「ラピードぉ…オレ、アイツの考える事わかんねぇよ…」
「くぅん…」
 触れてくるのに、つれない。何もその事に関して口にしないのはデュークだって同じだ。
 世界を想い、友との約束の果てに己の成そうとした事をユーリ達によって遮られ、デュークは世界から己を消した。しかしそんな彼を探し出し、無理矢理構ってきたのは自分からだ。あのま、までは正に世捨て人だったデュークの事。迷惑がって突き放される事は目に見えていた筈なのに、彼は意外にも訪れるユーリを邪険にしたり追い返したりするような事をしなかった。
 それどころか物好き呼ばわりしておきながら、ユーリを訪ねて帝都に来る事すらあって……。
(オレの方はきっと、そういう意味でデュークの事、好きなんだけどさあ…)
 最初はエステルの『ほうっておけない病』がうつったからだったと思っていたのに。
(せっかく人も世界も消えずにすんだってのに、アンタだけ消えちまうのが許せなかった)
 誰よりも、あれだけ世界を愛していたのに。
 ―――それがよもや、こんな状況になるなんて。
「何だよ、これって喜んでいいのかわかんねーよ…」
「くぅん」
 デュークは思った事は何でも口にする。けれども何故ああする事を、その真意を口にしないのか。
 デュークは何を思っているのだろう。何故、あんな事を自分にするのだろう。
 期待とか、してしまってもいいのだろうか。
「なあラピード、ほんっとアイツが何考えてるんだかわかんねー…」
「わふぅん」
 
「―――…ユーリ・ローウェル」
 
「ひ!」
 ラピードを抱き締めて二人でごろごろ悶えていると、いつの間にか先程行ってしまった筈のデュークが傍に立っていた。びくりと驚いて変な声まで出た。
 恐る恐るラピードを抱えたまま見上げれば、真上から見下ろす呆れた顔。
「ラピードまで…お前たちは一体何をしているんだ」
「あ、はははははー…ちょっとラピードと親睦を深めようかと……」
「今更親睦を深める必要などないくらい、お前たちは通じ合っているだろう……ほら」
「?」
 差し出された物を受け取ると、それは糸と釣り針だ。
「あの小屋は元々猟師小屋だから、探せばそれくらいあるだろうと思った」
「あ、ああ、これを探しに戻ってたのか。ありがとな」
 起き上がればラピードが上から降り、ユーリは切れた糸の先にデュークの持ってきてくれた糸と針を結ぶ。餌は現地調達なので問題はない。それ以上に色々問題はあるが、ここはひとまず晩飯のおかずの心配の方が先である。
「―――よし、と。じゃあさっきのリベンジと行くか」
「ん。楽しみにしている」
「………」
 そう言ってちょこんと隣に座られると、間にラピードがいるとは言え、若干意識してしまうじゃないか。いつその手がまた悪戯に、こちらの気も知れないで伸びてくるかもわからないのに。
 水面に糸を垂らし、隣をちらりと盗み見する。しかしデュークは釣りという行為にはあまり興味はないのか、隣であくびをしているラピードの背や頭を撫でていた。その指先に、その動きにばかり意識が行く。本当は正直、釣りなんてしている余裕はまったくない。
(あー、くそ…ホント、誰か何とかしてくれー)
 他力本願を望もうにも、ここには自分たち以外の誰もいなく、誰も訪れなく。ユーリの心の叫びはユーリの心の中にのみ、空しく響くだけだった。

葛藤。 もうちょっともゆもゆします。 しかしかっこいいユーリを書きたいのに、デュークとセットだとどうしてもこんなツッコミ型に…。