<<第二十一回」>> 脳出血再発!!      2000/3/1 掲載 

 一応、2年間のことをまとめ、編集後記に取りかかろうとしたとき、またまた、脳出血で入院する ことになったのです。(平成6年4月)
 実は、4月3日に熱があり、4日には、38.9度という熱が出ていたのです。まさか、脳出血とは思いの かけず、風かなと思い、家内の勤務が終わったら、武豊の個人医院にかかる予定でした。
 4月4日のことです。朝9時ころだったと思いますが、いつもの脳外科の薬を飲んだのに、 飲み込めなくなってしまったのです。そして、左足が少しもつれて、左足で立っておられなく なってのです。同じ時刻から、「ろれつ」が回らなくなってのです。
 たまたま、学校が春休みである末娘が、家内の勤務場所に電話しました。家内が、「半田病院」 に電話で連絡とたところ、「すぐに救急車を頼んで、つれて来なさい」ということで、救急車で、 「半田病院」に運んでもらったのです。
 救急車から運ばれた私は、すぐに、「半田病院」の「集中治療室」に入れてもらいました。「集中 治療室」には、2日ばかりいましたが、すぐ一般病棟に移りました。勿論、脳外科の病棟です。
 2年前は、左脳の出血で、手術をしたのです。今回は、「右脳の出血です」と言われました。一般的に 右脳の出血があると「左半身麻痺」が起きると言われていきす。もう私は、「右半身麻痺」があるから、 その上、「左半身麻痺」が起きたら、「寝たきり」になってしまいます。幸いなことに、今回の意識が 無くなるということは、無く、軽かったと思います。手術の必要は、ありませんでとた。左手は、使えま した。
 しかし、喉・口等の機能が損傷を受けており、もともと悪かった「言葉」をうまく発することが 出来なくなったのです。そして、汚い話ですが、「発声訓練」をやると、「よだれ」が出てきます。 (現在は、すこし良くなっています。)
 そして、感覚が一層鈍くなりました。「集中治療室」では、食事を始めて取ったときは、おかしな味が ありました。お茶を飲むと、味はまったく無く、ただ「くさい」という感じでした。一般病棟に移って からは、だんだん「くさい」という感覚は無くなって来ました。しかし、味の感覚は、だいぶ鈍くなって います。(味の感覚は、やはり、鈍いままです。)
 もう一つ重大な変化がありました。それは、2年前の脳出血のときには、左半身の温度感覚は有った のですが、今回の脳出血で、左半身の温度感覚が非常に鈍くなったことです。左手で熱いお茶が入った 湯のみを持っても、すぐに「熱い」という感覚は無く、しばらく持っていると鈍く痛いという感じが するだけです。(この温度感覚の鈍さは、今も変わりがありません。)
 とうぶんは、また、車椅子の生活に逆戻りになりました。また、リハビリの生活が始まりました。


   <<第二十二回」>> リハビリ開始!!      2000/4/1 掲載 

 リハビリが始まったのは、4月13日からです。リハビリでは、やはり、歩くことが出来ないから、 また、歩行の準備の運動から始めました。
 幸い、今回の脳出血は、軽かったので、すぐに、歩けるようになりました。しかし、歩行距離・歩行速度は、 一段と悪くなっていました。だから、少しでも歩行が回復するように、リハビリに頑張りました。
 リハビリは、2時から始まりました。リハビリが終わって自分の病室へ戻ると3時になっていました。 しかし、困ったことが起きるようになりました。それは、尿の感覚が非常に鈍くなっていることでした。 それに、尿が出る時間がまちまちになっていることでした。入院の前は、尿は、朝食の後にトイレに行けば、 昼食の前まで尿を我慢ができました。しかし、短いときは、1時間くらいで我慢出来ないこともあるように なりました。それに、放の感覚が鈍くなっていますから、リハビリが終わってから病室に帰ってくるとき、 「おもらし」をすることがあると言う問題でした。しかも、温度感覚が鈍ってしまいますので、「おもらし」 の感じは、「あれ! おもらしかな?」という感じでした。
 現在は、尿の間隔は、2時間から4時間になっています。しかし、電動三輪車で外出するときは、気温の 状態によっては、1時間くらいに短くなることもあります。だから、買い物で「ユニ」に行くときは、まず、 トイレに行くようにいています。
尿の感覚は、鈍くなったままの状態です。尿間隔が短くなっていることもあって、夜寝るときは、「尿瓶」 を使っています。尿の感覚が鈍っていることは、困ったことです。尿の感覚がなく、パジャマを脱ぎ普通の 衣服を着ます。その時間は、20分くらいかかります。衣服の着替えの前に「尿瓶」を使わないで、トイレ に行くと、トイレの便器の前で、すこし、「おもらし」をすることが、今も、ある状態です。

 5月20日になると、リハビリの先生のご好意で、病院の建物を一周ことが出来ました。しかし、 入院する前の歩く速度とは、半分以下の速度しかありません。これでは、私の家から「富貴駅」まで、 50分以上かかってしまいます。病院の一周は、約500メートルくらいしかありません。リハビリが 終わると、車椅子に乗り病棟に帰りました。私の家から、「富貴駅」までは、1000メートル以上 ありますから、このまま、退院すると、今までの通り、半田病院まで、リハビリに通うことは、不可能に なってしまいます。
 しかし、病状が固定したら、退院してもうと言われました。前回の入院では、 3ヶ月になったら、退院してもらうという病院側の言い分でした。今回は、それが、2ヶ月から2ヶ月半に 縮められたということでした。半田病院は、地方の中核病院で、入院患者が多いという理由でした。しかし、 保険制度にも問題があります。3ヶ月を過ぎると、保険で病院側に支払うお金が少なくなるという問題です。
 私は、家庭の都合で、なるべく長く入院生活が必要でした。それは、家内が勤めているから、昼間は、 一人で生活をしなければならないからです。家内が勤めを止めてしまったら、生活費も出せない状態でした。 そこで、地元の病院へ転院することを、家内が考えていました。
 


  <<第二十三回」>> 車椅子取り上げられる!!      2000/5/1 掲載 

 病状は、外見的には、ぼつぼつ固定しかかっていました。そのときに、婦長さんから、「車椅子が たりないから、ほかの患者さんにまわすから・・・」という理由で、車椅子を取り上げられて しまいました。
 毎日のリハビリより、室内なら、介護者なしで、かろうじて歩くことができるようになっていました。 しかし、室外での歩く訓練には、リハビリの先生についてもらうことが必要でした。 それでも、もうすぐ、退院の勧告を受けると覚悟していました。
 そんなとき、半田病院に、義母が検査入院してきました。しかし、検査入院が本当の入院になったのです。 義母は、内臓の異常で検査入院していましたが、病室で、脳疾患で倒れたのです。 最初は、毎日、私の病室に着てくれる家内が、来ないので変だなあと思っていました。後から、その理由が 分かったのです。義母の状態は、寝たきりの状態でした。勿論、口を聞く状態ではありませんでした。 表情もなくなっていました。
 家内は、私と義母の入院生活のために、自分の病気が悪化していました。たしか、半田病院に短期間入院 したと思います。最悪の状態でした。

 そんなわけで、私の退院をできるだけ伸ばしておくことを、家内は、病院側に頼んでいました。多少考慮 してくれてと思いますが、いつもでも伸ばすわけにもいかず、転院することになりました。入院後2ヶ月半 ごろのことでした。義母の入院はまだ続いていますし、私は、歩く機能訓練必要な状態でした。だから、 退院しても家に帰ることは考えられないことでした。それで、今度は、武豊町にある杉石病院に転院する ことにしました。
 半田病院でのリハビリは、失語症のリハビリはありませんでした。当時の半田病院には、言語のリハビリ をする部署がなかったからです。


  <<第二十四回」>> 地元の病院へ転院!!      2000/6/1 掲載 

 半田病院から、地元の「杉石病院」に転院することになりました。半田病院から、家内の車で、 杉石病院に直接、移動しました。前回書いたように、義母も入院していたから、家に帰っても仕方 がなかったのです。
 病室は、新館の5階の病室でした。病室は、半田病院と同様でした。しかし、杉石病院は、規模が小さく、 病室は、あまり数がありませんでした。
 私の病状は、あんまり変わったことは無く、安定していました。しかし、歩行の機能は、大分悪いので、 リハビリを運動療法が必要でした。また、杉石病院には、言語療法士がいたから、その先生の治療も 受けることになりました。
 いよいよリハビリが始まったのですが、半田病院の時より、施設的にも貧弱だということで、がっかり しました。半田病院では、曲がりなりにも、戸外の歩行訓練施設があったのに、それも無かったのです。 もちろん、訓練用の階段もありませんでした。ただ、当時の杉石病院のリハビリ室の空気は、大変 明るい雰囲気でした。リハビリの先生の数は少なく、同じ部屋でリハビリを、冗談を交えてやっている ことが、半田病院のリハビリとの違いでした。この違いが、「すくい」でした。
 しばらくたっと、私がリハビリ受けた先生は、本物の階段を使ってのリハビリをやってくれました。 これは、失語症の私が、名古屋市リハビリセンターでは、「階段の使ってのリハビリもやっていた」という 話をしたことが始まりと思います。ただ、リハビリ室の近くにあった階段は、少し急でしたから、 苦労しました。勿論、リハビリの先生が後ろについて、転びそうになったら助けてくれる体制で訓練して もらっていました。時間的には、わずか30分弱のリハビリですが、少しずつ歩行の訓練の 成果があらわれたと思います。

 言語の方は、週1回の個人的な指導と、同じく週1回の集団的指導を受けました。集団的指導は、 始めての経験でした。杉石病院に入院している患者が数名集まって、簡単なゲームなどをしました。これは、 患者が集まることに意義があると思いました。患者が集まることは、まず無いことですから、貴重な経験で した。しかも、言語に障害がある人たちが集まりでした。個人的な訓練は、リハビリ先生との会話が主でし た。病院に入院したいると、朝の検温のとき看護婦さんとの、極めて短い時間の会話しかありませんから、 週1回の言語療法士さんとの「会話」は、貴重でした。

 私は、大規模な中部労災病院と名古屋市総合リハビリセンターでの「リハビリ」の経験がありました。 中部労災病院では、午前中の2時間、運動療法と作業療法をやっていました。また、リハビリセンターの 「更生施設」の時は、1時間のリハビリ(運動療法が3日、作業療法が1日)をしてきました。それで、 半田病院や杉石病院のリハビリは、物足りなく思っていました。ただ、中部労災病院やリハビリセンターの リハビリは、先生がついている時間は、半分くらいで、あとの半分は先生の指示による自習という形でし た。半田病院も杉石病院でもリハビリ室が狭いため、自習のためのスペースが取れなくなっていました。 本当は、ある程度回復した人には、自己訓練が、有効なことだと思います。それが、出来ないことは、 残念でした。

 始めは、新館5階の病室でしたが、しばらく経って4階の病室に変わりました。この階は、病状が安定 している患者が入る病室でした。杉石病院では、始めての入院でしたから、5階にして、私の様子を見て、 4階に移ったのです。この4階は、長期療法の人専用の病棟でした。相当長期の入院患者もいました。 現在は、仕組みが変わっているかもしれないが、長期の入院が必要な患者もっている家族は、一度、杉石 病院に聞くとよいと思います。


  <<第二十五回」>> 退院する!!      2000/7/1 掲載 

 杉石病院でもリハビリ生活とおさらばする時がやって来ました。杉石病院に転院してから 約3ヶ月経ちました。リハビリは、病院の外での歩行訓練は、一回も行えなかったけれど、病院の 中なら、歩行可能になっていました。(現在は、ときどき、病院の外での歩行訓練をいている人を見かけ ます)
 ところで、退院してからの生活には、様々な問題がありました。第一には、リハビリの問題や定期的の 受診の問題がありました。この問題は、杉石病院には、在宅患者のための良い制度がありました。それに、 リハビリは、「在宅リハビリ制度」がありました。(現在は、介護保険がからみ、制度が変わっている ことが考えられます) 私は、この制度を利用させてもらいました。病院では、毎日リハビリを受けていま したが、「在宅リハビリ」は、週2回だけになりました。それでも、在宅リハビリは、ありがたいと思いま した。後は、天候が良い日には、自分で、歩行訓練をすることにしました。
先生の受診も、在宅診察の制度がありましたから、その制度も利用させてもらいました。薬は、診察の後で、 薬局の人が自宅まで届けてくれました。

 第2問題は、日中は、私一人になる問題でした。前回も書いたように、義母が病気になり、介護が必要な 状態になったのです。義母が元気なときは、食事や洗濯は、義母がやっていました。しかし、義母は、特別 介護老人ホームに入れてもらって、家には、私一人になってしまいます。この問題が一番の問題でした。
 家内は、勤めを続けなければ、収入が無くなってしまいます。それで、家内は、役場の民生課の人に頼 んで、武豊町のヘルパーさんに家に来てもらうことにしました。週3回だったとおもいますが、昼食と簡単 な掃除をしてもらいました。後は、家内の作り置きの弁当を食べました。
 洗濯は、自分でやることにしました。私は、名古屋市総合リハビリセンター病院のときから、洗濯機と 乾燥機を使って、自分の物は、自分で洗濯をしていました。私の家でも、義母が入院してから、乾燥機を 買って利用していましたから、洗濯をすることには、抵抗はありませんでした。

 歩行速度の状態は、再発する前の3分2くらいに回復していました。歩行距離は、再発する前とほとんど 変わり無いくらい回復していました。だから、富貴駅の付近の床屋さんまで歩いて、散髪をしてもらうことが 可能でした。ときには、もう少し遠いユニーまで行くことも可能になりなりました。左手の機能は、ほとんど 再発する前と変わりませんでした。だから、切り絵の制作も始めました。MSXでの特殊学級用ソフトの製作も 始めました。こうして、退院後の生活が始まりました。


 <<第二十六回」>> またまた、入院!!      2000/8/1 掲載 

 脳出血の再発して、約六ヶ月の入院生活をしました。始めは、半田病院。次は、地元の杉石病院。 長い闘病生活でした。ようやく、退院することができました。
 リハビリは、運動療法は、在宅で週2回、リハビリの先生がきました。しかし、1回の時間は、20分 くらいの物でした。歩く訓練は、無しという状態でした。だから。自分で歩行訓練をしました。幸い、 私の家は、田が多くあり、その農道を訓練場所にしました。約6ヶ月の自主トレで、再発する前とほとんど 同じになりました。しかし、尿意が鈍くなっていましたから、訓練を始める前には、トイレに行き、訓練が 終わるとトイレに行くことが多くなりました。歩行訓練は、長いときは、片道40分のときも(ユニーへ行く) ありました。ユニーに行く時間から計算すると、普通の人の半分くらいの歩行速度まで回復したことになりま した。
 一方、手の訓練は、病院でも、ほとんど無しでした。杉石病院のときは、自主的に、「紙人形のしおり」 を作っていました。このときの「紙人形のしおり」は、退院するとき、看護婦さんにも差し上げました。 病院で、こんなことをしていると、怒られると思いますが、杉石病院の療法病棟(4F)では、日中は、 パジャマを脱いで普通の服装することが指導されていました。それに、暇なときは、自分で何かしら トレーニングをすることが勧められていました。それで、「紙人形のしおり」を病室で作れたのです。
 退院すると、手のリハビリとした、新しくオリジナルの「切り絵のしおり」を作りました。それから、昔 作ったソフトを基にして、MXSペーシックでの新しい特殊学級用ソフトも作りました。

 そんな日々を過ごしていましたが、突然、右足が痛くなり、歩行が困難になりました。再度の脳出血から、 退院してから、約1年くらい経っていました。そこで、杉石病院に行って診てもらいました。即入院して、 リハビリを始めました。原因は、はっきりとは分からないということでした。多分、軽い脳梗塞だろうと いうことでした。
 今度の入院は、1週間くらい、点滴をしましたが、リハビリを中心の闘病生活でした。一月くらい車椅子 のみの生活が続きました。その後は、必要によって車椅子を利用する生活が続きました。今回は、立つとき のや歩行するとき右足の痛みは、続きました。それでも、やっと、歩行が可能になりました。痛みは、 入院時と比べて軽くなっていますが、現在も、歩行には、痛みが伴っています。

 約3ヶ月の入院で、装具をはめて、杖をついて、ゆっくりとした歩行が、家の中でなら出きるようになり ましたので退院しました。その後、自主トレーニングで、屋外の歩行が家の周りならできるようにしました。 しかし、買い物などは、不可能でした。
 そこで、ある自動車修理工場の人の勧めで、電動三輪車を購入しました。そして、自分の家に閉じこもる ことが無くなりました。
 そのころ、日本福祉大学の学生が中心になり「地域グループ」が2年間の約束で設立されました。 そのグループは、インターネットの活用が主でした。半田・武豊・阿久比の知多半島中部の市町を インターネットで結ぶ計画のようでした。どうした分けか分からないが、私も武豊の5人の個人の役割を 担うようになりました。週に一度、日本福祉大学の学生が家に来て、インターネットについて教えて くれました。(パソコンは、貸してくれました) 始めの一年は、「メールの学習」をしました。実習として、 「地域グループ」の会員へのメールを出すことや本部にメールを送ることが義務でした。
 2年目は、ホームページについてでした。その中で自分でホームページを作ることがありました。そこで、 電動三輪車で本屋にいき、「ホームページの作り方」に関する本を買ってきました。その本には、「HTML」で 書いたプログラムが載っていました。そのプログラムの真似をして、簡単な自分のホームページを 作りました。まだ、プロバイダーに接続しない物でしたから、自分のパソコンでしか見られないものでした。 しかし、自分の力だけでホームページを作ったことは、プログラムが自分の力で作成するということの自信 につながりました。そのことが、「特殊学級用のVBソフト」を作る基になっています。
 そして、自分専用のパソコンを買いました。「地域グループ」の研究期間は終わっていました。家内の 知り合いが「知多ネット」というプロバイダーを持っていましたので、私も「知多ネット」に入れてもらいました。 現在の私のホームページは、こうしたて生まれました。

 現在の病状は、私のホームページの「自己紹介」のページに書いています。ただ、「自己紹介」で書いていることと 比べて、歩行に関することは、少し悪くなっていると感じています。

 26回にわたり、「闘病記」を読んで頂きありがとうございました。私のホームページの主要な目的は、 終了しました。