武豊町に来てからの手足のリハビリは、半田病院で行っています。家内の勤め先が半田病院に近いので、
車で送ってもらいます。帰りは、知多バスに乗り、知多半田駅から富気駅まで電車を使って帰ります。
したし、雨や風が心配です。最近は、少しくらいの雨だったら、傘を持っての歩行が出来るように訓練
しています。しかし、傘をさしての歩行は、風があると危険が伴うので出来ません。
半田病院の脳神経外科の診察が、4週間に一度ありますが、その時は「予約制」なので、雨が降っても
行けなくてはなりません。そこで、タクシーを使って行かなければなりません。(現在は、杉石病院を利用し
ています。)
天候が良いときは、1時間程度の歩行訓練をしています(現在は、不可能)。時によっては、武豊の 「ユニー」へ行くこともあります。「ユニー」に行くと、片道40分くらいかかります。だから、休憩を 取ると往復1時間半くらいかかります。少しの買い物をすることもあります。しかし、片手では、杖を 持つことが必要ですから、私が持っているカバンに入る物しか買えません。
言語訓練としては、吉田先生と色々なことを話して終わることもありました。このことを、吉田先生は、
「フリートーキング」と読んでいました。私でも「フリートーキング」が出来る事は、素晴らしい事です。
しかし、実態は、話がうまく出来ない事が多かったのです。そんな時でも、吉田先生は、話が出来るまで
待っていてくれました。
昨年の9月に(平成5年?)、半田病院の帰りに、種を売る店で、パンジーの種を買って来ました。
その種を家内に手伝ってもらって、種まきをしました。そうして、自分の力だけで、ポリポットに植えて、
吉田先生に持って来た事もありました。その事に関しても「フリートーキング」の話題になりました。
今年の2月(平成6年?)になって、吉田先生から電話をかけてくださった子とがりました。その時、 たまたま、私が電話にでました。吉田先生は少しびっくりしていました。そして、先生は、「電話にも 出なさいね」と励ましてくださいました。この頃は、おばあさんが電話に出ない時は、私が出ています。 (脳出血を再発してからは、言語活動は、特に「話す」事が低下しているのてすが、時々は、電話に 出ていますが、相手の人に迷惑をかけています。)
それから、MSXのプログラムの事ですが、更生施設から退所してから、病気になる前、長年かかって
作ったプログラムの見直しをしました。更生施設にいた時、吉川先生に、いくつかのプログラムを見て
頂きました。いずれも、私が特殊学級の担任をしてとた時に作ったプログラムです。吉川先生の言葉は、
「一つの所が合格しないと、次に進めない事をやめて、自由にやりたい所を選択する方が良い」と言う
事でした。その言葉に従って、プログラムを改良したのです。
そのプログラムは、「物語の読み方(複数のソフト)」「たし算」「ひき算」「九九の練習」「時こく
の読み方」「時計の合わせ方」「時間の計算」などがありました。これらのプログラムは、半田市特殊学級
に配布されています。
それぞれ、改良したプログラムを作りました。当然、まだ(平成6年?)改良していないプログラムも
ありますが、改良が済んだプログラムは、吉田先生にも渡してあります。半田市の特殊学級にも、改良した
プログラムを、希望の学校には送ってあります。
(プログラムの改良し、取説を作った事は、私の言語活動に、大変役立っています。前回の「つぶやき」
のページに書いた「とけいの よみかた」ソフトも、この事が、基礎になっていると思います。)
昨年(平成5年)の七月になって、カラーの切り絵も作り始めました。もっとも原画は、更生施設で
もらって来た物です。始めに作った物は、「龍」です。このきっかけは、たまたま散歩で武豊のユニーに
行ったとき、様々な「色紙(しきし)」を売っており、その中に、一枚の中に濃淡がある物、金属光沢の
ある物など、「龍」をカラー化にするために役立つ物があったからです。このカラーの「龍」は、言語の
吉田先生にも差し上げました。
昨年(平成5年)の更生施設の展示会に、私も「退所者の部」で、カラーの切り絵を展示してもらいました。その時の
作品は「龍」「アジサイ」「ききょう」の三点でした。色紙額に入れると、同じ切り絵でも引き立って見え
ました。「龍」は、色紙(いろがみ)を貼った物、「アジサイ」と「ききょう」は、自分で障子紙に絵の具で
色をつけて、その色紙の色のむらを使った物でした。
その後、カラーの切り絵は「達磨大師」の4種だけですが、技術は上達しました。だから、私が東海市の
渡内小学校の現役であった頃の特殊学級の生徒が、今度、義務教育の卒業にあたるので(もうその子どもは、
成人式もすませています)、男に子には「龍」を、女の子には「アジサイ」のカラーの切り絵を送ってあり
ます。
女の子の手紙によると、お母さんが、その子の部屋に飾ってくれているということです。
切り絵は、その後、私のオリジナルの物として、「しおり」として使えるような物を作っています。この
「しおり」の切り絵は、「花」をテーマで約20種類を作っています。このシリーズの切り絵は、昨年
(平成10年)結婚した娘の披露宴に参加した娘の友達にお礼として渡しました。
「年賀状入れ」の小箱を作った事がきっかけになり、今度は、「鉛筆立て」を作りました。鉛筆立ても、
始めの時は、失敗の連続でした。
この「鉛筆立て」の主になる材料は、やはり、お菓子などの入ったいた箱ですが、「年賀状入れ」とは
違って、薄手の段ポールを使いました。まず、段ボールを決められた長さに切り、折り曲げる所に
カッターナイフで印づけをしました。そうして、中側になる方に画用紙を貼り、乾いたら、筒状に仕上げ
ました。そのため、画用紙をはみ出しを作っておきました。筒状になった物が乾いたら、今度は、表面に
黒い画用紙を貼りました。底を作るように黒画用紙は、長めにしておきました。筒状になった物が乾いたら
底を貼り合わせました。仕上げに、千代紙などを貼りました。千代紙のかわりに「カレンダー」の
「野草の写真」を使ったこともありました。(このカレンダーは、教員の先輩が作った物でした。私が
ホームページに「武豊の野草」のページを作ったのも、この事が関係しています。)
最近では、いろいろな箱に薄手の段ボールを使っている物があります。そうした空き箱は、捨ててしまう
のではなく利用したのです。「鉛筆立て」は、もう、20個ぐらい作りました。(闘病記を書いた当時)
この「鉛筆立て」も言語の先生や作業療法の先生に差し上げました。
「年賀状入れ」も「鉛筆立て」も、左手1本で作る事は、時間がかかります。しかし、
補助具を工夫
したり、作業の仕方を工夫したりして、実用になる物を作る事は、
やり甲斐のある事です。
「リハビリで作った物」のページに、1年前に掲載した「年賀状入れの作り方」をもう一度、掲載します。
この文章は、2回目の脳出血になる前に書いた物ですから、現状とは、かなり違っています。現在は、 電動三輪車を買い、ある程度の買い物や花の写真を撮りに行っています。体の状態は、悪くなっています。
幸いなことに病気になる前に作った特殊学級用のフソトの見直しだけなら、少しは出来るようになって
来ました。その時、言語訓練の一環として、言語の先生、吉川先生が私が作った特殊学級用のソフトろを
見て、アドバイスを与えてくれました。そのアドバイスを実践出来るようになってきました。そこで、昨年
(平成5年?)11月に「時間の三部作」のバージョンアップをしました。それまでは、一つの問題が正答
でなかったら、いつもでもその問題をすることを強制しているソフトでした。それを、吉川先生の
アドバイスで、自由進度に変更しました。また、「物語」ソフトも自由進度にした、漢字が易しい物から
難しい物まで、三段階に分けて物を作りつつあります。
だから、私が、19年間いた半田市の特殊学級のソフトを作ることも、あながち夢ではないと思っています。
ただ、失語症になってから、MSXベーシックの文法を思い出すことが困難になっています。だから、「夢」に
終わってしまうことも考えます。
最後に(第一部を終わりにあたって)、藤田先生の事を書いて終わりにしたいと思います。前にも書いた
ように、今は、吉田先生が言語の担当の先生です。だから、今は、藤田先生の言語訓練は、直接にはあり
ません。しかし、更生施設を退所するおりに宿題を出されました。それは、「私の町」と言う題で文章を
作り、出来あがったらカセットレコーダーに録音して提出する事です。題は、必ずしも「私の町」という事
では無く、自分の考えを書く事も認められています。私が渡滑小学校の時に特殊学級の担任を2年間やった
経験から、特殊学級の事を書いた事もありました。第20回から第25回までは、私が病気になってから
約2年になっていたので、「私の病気」と言う題でかきました。
この「私の病気」が、「私の病気と闘病生活」と言う手作りの本の基になっています。したがって、
「私の病気と闘病生活」が出来あがったのは、藤田先生が与えたくれた課題が原点になっています。
「私の病気」と言う文章の前に、藤田先生が私の担当であった時、「大学生時代のサークル活動」や
「私の新任時代」と言う文章も書きました。これは、まだ更生施設にいた時に書いたものでしたが、
私に取って、まとまった文章を書く事が極めて難しいときでした。それでも、まとまった文章が書けたのは、
適切な藤田先生の課題を与えてくれたお陰だと思います。だから、藤田先生に感謝の言葉を送り文を閉
じます。
藤田先生、ありがとうございました。
この次は、第2部に移ります。