<<第十四回」>>     更生施設を退所!!         1999/8/9 掲載 
 私が更生施設を退所したのは、去年の3月末のことでした(「闘病記」の年月で、実際の年月は、 平成5年の3月)。だから、この原稿を書き上げると、約1年になります。この1ヵ年にもいろいろな事が ありました。
 更生施設を退所した時から、私は武豊町に帰っています。そして、更生施設にいる間は、月曜日から 金曜日まで、言語訓練がありましたが、今では(平成6年)、月2回、名古屋市総合リハビリセンターの 吉田先生の所へ通っています。更生施設の外出訓練のお陰で、名鉄などの公共交通機関を使って、名古屋市 総合リハビリセンターまで、自分一人で通っています(現在は、不可能です)。
 私が通う駅は、名鉄河和線の「富貴駅」です。そして、「金山」で地下鉄に乗り換えて「新瑞橋」まで 行きます。そこからは、「センターのバス」を利用しています。富貴駅を10時22分の特急で行くと、 ほんの少し待つと「センターのバス」に間に合います。言語訓練は、午後1時から始まるので、「センター」 につくと、昼食をセンターに併設している喫茶店「サン」で食べます。
 帰りは、市バスで「新瑞橋」 まで行き、地下鉄と名鉄で帰ります。他に寄る所が無くても、家に帰るのは4時くらいになります。だから、 一日仕事になってしまいます。しかし、自分一人の力で、名古屋市総合リハビリセンターに行けることは、 非常に助かっています。(今では、公共交通機関を利用するのは、困難です。電車は、なんとかなっても、 バスは不可能です。)

 武豊町に来てからの手足のリハビリは、半田病院で行っています。家内の勤め先が半田病院に近いので、 車で送ってもらいます。帰りは、知多バスに乗り、知多半田駅から富気駅まで電車を使って帰ります。
 したし、雨や風が心配です。最近は、少しくらいの雨だったら、傘を持っての歩行が出来るように訓練 しています。しかし、傘をさしての歩行は、風があると危険が伴うので出来ません。
 半田病院の脳神経外科の診察が、4週間に一度ありますが、その時は「予約制」なので、雨が降っても 行けなくてはなりません。そこで、タクシーを使って行かなければなりません。(現在は、杉石病院を利用し ています。)

 天候が良いときは、1時間程度の歩行訓練をしています(現在は、不可能)。時によっては、武豊の 「ユニー」へ行くこともあります。「ユニー」に行くと、片道40分くらいかかります。だから、休憩を 取ると往復1時間半くらいかかります。少しの買い物をすることもあります。しかし、片手では、杖を 持つことが必要ですから、私が持っているカバンに入る物しか買えません。


    <<第十五回」>>    退所後の言語訓練!!      1999/9/10 掲載 
 言語訓練は、退所しても、担当の先生は、吉田先生と変わりがなかったが、言語のプログラムは、 更生施設の時と比べて変わりました。
 それは、私が病気になる前にやっていた「MSXパソコンのプログラムの作り方」を、吉田先生にお話を する事で、言語訓練をすることなどです。
 吉田先生から、「MSXパソコン」の話があった後、さっそく、そのための準備を始めました。昔、 半田市で「MSXパソコンのプログラムの作り方」の講師をしていたときに使ったいたテキストを基にして、 名古屋市総合リハビリテーションセンターの言語の部屋に置いてある機種に合うように、テキストを書き なおしをしました。私が講師をしていた時は、まで、フロッピーディスクは使えないで、カセットテープを ていました。そこで、フロッピーディスクを使うようにして、サンプルプログラムやデータを書き直し をしました。
 基にしたテキストは、古いワープロで作った物でした。そのワープロは、5インチフロッピーディスクを 使っていましたが、そのワープロは、もう使えなくなっていました。だから、全部、打ち直しが必要でした。 こうして出来たテキストは、病気の後、始めて作った物でした。そして、このテキストは、吉田先生だけの 物でした。(勿論、私の言語訓練には、役立ちました。このことが、後になって、半田市特殊学級用の プログラムの取扱い説明書を作ることにつながったと思います)

 言語訓練としては、吉田先生と色々なことを話して終わることもありました。このことを、吉田先生は、 「フリートーキング」と読んでいました。私でも「フリートーキング」が出来る事は、素晴らしい事です。 しかし、実態は、話がうまく出来ない事が多かったのです。そんな時でも、吉田先生は、話が出来るまで 待っていてくれました。
 昨年の9月に(平成5年?)、半田病院の帰りに、種を売る店で、パンジーの種を買って来ました。 その種を家内に手伝ってもらって、種まきをしました。そうして、自分の力だけで、ポリポットに植えて、 吉田先生に持って来た事もありました。その事に関しても「フリートーキング」の話題になりました。

 今年の2月(平成6年?)になって、吉田先生から電話をかけてくださった子とがりました。その時、 たまたま、私が電話にでました。吉田先生は少しびっくりしていました。そして、先生は、「電話にも 出なさいね」と励ましてくださいました。この頃は、おばあさんが電話に出ない時は、私が出ています。 (脳出血を再発してからは、言語活動は、特に「話す」事が低下しているのてすが、時々は、電話に 出ていますが、相手の人に迷惑をかけています。)

 それから、MSXのプログラムの事ですが、更生施設から退所してから、病気になる前、長年かかって 作ったプログラムの見直しをしました。更生施設にいた時、吉川先生に、いくつかのプログラムを見て 頂きました。いずれも、私が特殊学級の担任をしてとた時に作ったプログラムです。吉川先生の言葉は、 「一つの所が合格しないと、次に進めない事をやめて、自由にやりたい所を選択する方が良い」と言う 事でした。その言葉に従って、プログラムを改良したのです。
 そのプログラムは、「物語の読み方(複数のソフト)」「たし算」「ひき算」「九九の練習」「時こく の読み方」「時計の合わせ方」「時間の計算」などがありました。これらのプログラムは、半田市特殊学級 に配布されています。
 それぞれ、改良したプログラムを作りました。当然、まだ(平成6年?)改良していないプログラムも ありますが、改良が済んだプログラムは、吉田先生にも渡してあります。半田市の特殊学級にも、改良した プログラムを、希望の学校には送ってあります。

 (プログラムの改良し、取説を作った事は、私の言語活動に、大変役立っています。前回の「つぶやき」 のページに書いた「とけいの よみかた」ソフトも、この事が、基礎になっていると思います。)


 <<第十六回」>> 「切り絵」は、継続!!      1999/10/10 掲載 
 退所後も「切り絵」は、継続してやっています。センターからもらった原画を使っていました。 始めのうちは、切った物を台紙に貼る事は、家内に頼んでいました。切った切り絵は、余分のところを 切り取る事が必要です。「更生施設」にいる時は、そのことは、先生がやってくれました。退所後は、 それを家内にやってもらったのです。
 この事も自分でやろうと考えました。しかし、私は、左手一本でやるしかないのです。それで、 病気になる前に買っていた「カッターマット」が使えないかと考えました。「カッターマット」には、 定規を固定するために、一方だけに「ネジ止め」がありました。だから、上手くいくと左手一本でも 切ることが出来るのではないかと考えました。しかし、肝心の「カッターマット」の固定が出来ません。 そこで、「重り」で固定することを考えました。しかし、「文鎮」程度の重りではだめでした。家内に、 もっと重い「重り」はないかとたずねたら、望遠鏡の重りがあるということが分かり、それを使って 切ることで、なんとか出来ました。しかし、大分重い重りですが、それでも曲がってしまうこともあり ました。そこで、大きなクリップを手前に挟んで使うことで何とかなりました。時間はかかるけど、 自分の力で、直線が切れるようになりました。

 昨年(平成5年)の七月になって、カラーの切り絵も作り始めました。もっとも原画は、更生施設で もらって来た物です。始めに作った物は、「龍」です。このきっかけは、たまたま散歩で武豊のユニーに 行ったとき、様々な「色紙(しきし)」を売っており、その中に、一枚の中に濃淡がある物、金属光沢の ある物など、「龍」をカラー化にするために役立つ物があったからです。このカラーの「龍」は、言語の 吉田先生にも差し上げました。
 昨年(平成5年)の更生施設の展示会に、私も「退所者の部」で、カラーの切り絵を展示してもらいました。その時の 作品は「龍」「アジサイ」「ききょう」の三点でした。色紙額に入れると、同じ切り絵でも引き立って見え ました。「龍」は、色紙(いろがみ)を貼った物、「アジサイ」と「ききょう」は、自分で障子紙に絵の具で 色をつけて、その色紙の色のむらを使った物でした。
 その後、カラーの切り絵は「達磨大師」の4種だけですが、技術は上達しました。だから、私が東海市の 渡内小学校の現役であった頃の特殊学級の生徒が、今度、義務教育の卒業にあたるので(もうその子どもは、 成人式もすませています)、男に子には「龍」を、女の子には「アジサイ」のカラーの切り絵を送ってあり ます。
 女の子の手紙によると、お母さんが、その子の部屋に飾ってくれているということです。
 切り絵は、その後、私のオリジナルの物として、「しおり」として使えるような物を作っています。この 「しおり」の切り絵は、「花」をテーマで約20種類を作っています。このシリーズの切り絵は、昨年 (平成10年)結婚した娘の披露宴に参加した娘の友達にお礼として渡しました。

 


 <<第十七回」>> 「年賀状入れ」の小箱!!      1999/11/1 掲載 
 平成6年1月になって、切り絵の時に使った「カッターマット」を使う事で、「年賀状入れ」の小箱を 作りました。この箱は、お菓子などの空き箱を利用して作りました。お菓子の空き箱の直角を使って 作りました。しかし、空き箱のポール紙だと、薄いので、箱のへりは、ボール紙を2枚貼り合わせて あります。(現在は、始めから、空き箱のボール紙を2枚貼り合わせています。)
 その時、前に書いた作業療法の越石先生に、「1辺5pの立方体を作りなさい」と言われた事が、頭に 残っていました。だから、左手一本でも出来ると思ったのです。
 実際は、そう簡単には行きませんでした。直角に作ること、千代紙を貼ることなど失敗もありました。 当然、補助として「文鎮」「クリップ」などを使いました。
 「年賀状入れ」も、第5作・第6作になると失敗も少なくなって来ました。それで、吉田先生、藤田先生 に差し上げました。(このころは、名古屋リハビリセンターの言語訓練に通っていました。)

 「年賀状入れ」の小箱を作った事がきっかけになり、今度は、「鉛筆立て」を作りました。鉛筆立ても、 始めの時は、失敗の連続でした。
 この「鉛筆立て」の主になる材料は、やはり、お菓子などの入ったいた箱ですが、「年賀状入れ」とは 違って、薄手の段ポールを使いました。まず、段ボールを決められた長さに切り、折り曲げる所に カッターナイフで印づけをしました。そうして、中側になる方に画用紙を貼り、乾いたら、筒状に仕上げ ました。そのため、画用紙をはみ出しを作っておきました。筒状になった物が乾いたら、今度は、表面に 黒い画用紙を貼りました。底を作るように黒画用紙は、長めにしておきました。筒状になった物が乾いたら 底を貼り合わせました。仕上げに、千代紙などを貼りました。千代紙のかわりに「カレンダー」の 「野草の写真」を使ったこともありました。(このカレンダーは、教員の先輩が作った物でした。私が ホームページに「武豊の野草」のページを作ったのも、この事が関係しています。)

 最近では、いろいろな箱に薄手の段ボールを使っている物があります。そうした空き箱は、捨ててしまう のではなく利用したのです。「鉛筆立て」は、もう、20個ぐらい作りました。(闘病記を書いた当時) この「鉛筆立て」も言語の先生や作業療法の先生に差し上げました。
 「年賀状入れ」も「鉛筆立て」も、左手1本で作る事は、時間がかかります。しかし、 補助具を工夫 したり、作業の仕方を工夫したりして、実用になる物を作る事は、 やり甲斐のある事です

 「リハビリで作った物」のページに、1年前に掲載した「年賀状入れの作り方」をもう一度、掲載します。


 <<第十八回」>> 自家用車の運転!!      1999/11/1 掲載 
 今年は(平成5年?)、もう一つやって見たいと思うことがあります。それは、自家用車の運転です。 私は、25年くらい自家用車に乗っていました。その間、自分の責任がある事故はありませんでした。 しかし、左足と左手だけの運転になるため、ふんぎりがつかなかってのです。
 
 免許は、昨年の5月に更新があり、その時、家内に「平針」へ連れていってもらい、「身体障害者用」の 免許をもらっています。
 私の町のように名鉄電車だけが公共交通機関になる所では、行動半径を広げるには、車の運転が必要に なってきます。歩行では、1時間半が限度です。(当時では。今は、20分くらいなっています。)それ 以上の歩行をすると、足が上がらない状態になってしまいます。今(当時)、名古屋のリハビリセンターの 言語訓練に行っても乗り物が主ですから、歩行の時間としては、全部で1時間程度のものです。だけれど、 半田病院のリハビリにいって、帰りにバスがのダイヤがなかったりすると、1時間以上ななってしまう こともあります。続けてだったら足に負担がかかってしまいます。幸い、半田病院から半田駅までは、 50分くらいです。電車を待つ時間が休憩の時間になっています。
 それに、手押し車がある店だったら、一つ一つが重い物でなかったら、買い物に行けます。しかし、 杖をついての歩いて行き帰りは、荷物を持つことが出来ません。
 だから、「半田マツダ」に車を改造をしてもらい、左半身で出来る車の運転をしたいのです。慣れたら、 半田病院に行くことも可能と思います。もっと慣れたら、名古屋市総合リハビリセンターに行くことも 不可能なことでは無いと思います。

 この文章は、2回目の脳出血になる前に書いた物ですから、現状とは、かなり違っています。現在は、 電動三輪車を買い、ある程度の買い物や花の写真を撮りに行っています。体の状態は、悪くなっています。


 <<第十九回」>> 教職の道は断念!!      2000/1/1 掲載 
 教員の道は、断念するしかありません。失語症になった私は、あと1年で回復するとは思えないからです。 かりに、失語症が回復しても、左手一本では、小学校の教員しは勤まらないからです。
 私は。「半田病院」に入院した時から、手足が治らなかったら、教員の道はあきらめたと思っていました。 病気では、3年が休職の期限になっていますから、教員の道は、断念しるしかありません。
 教員の道は、閉ざれましたが、教育に縁からは、閉ざされませんでした。それは、半田市の特殊学級に、 MSXパソコンが導入され、私が病気にまる前に作ったソフトも数本入れてもったのです。私が作ったソフトは、 特殊学級の担任している時の物です。特殊学級では、本当は、一人一人、その人に合ったソフトが 欲しいのです。市販のソフトだったら物凄く高い物になってしまいます。だから、手作りのソフトが必要に なり、私が作ったソフトも入れてもらったのです。

 幸いなことに病気になる前に作った特殊学級用のフソトの見直しだけなら、少しは出来るようになって 来ました。その時、言語訓練の一環として、言語の先生、吉川先生が私が作った特殊学級用のソフトろを 見て、アドバイスを与えてくれました。そのアドバイスを実践出来るようになってきました。そこで、昨年 (平成5年?)11月に「時間の三部作」のバージョンアップをしました。それまでは、一つの問題が正答 でなかったら、いつもでもその問題をすることを強制しているソフトでした。それを、吉川先生の アドバイスで、自由進度に変更しました。また、「物語」ソフトも自由進度にした、漢字が易しい物から 難しい物まで、三段階に分けて物を作りつつあります。
 だから、私が、19年間いた半田市の特殊学級のソフトを作ることも、あながち夢ではないと思っています。 ただ、失語症になってから、MSXベーシックの文法を思い出すことが困難になっています。だから、「夢」に 終わってしまうことも考えます。

   


 <<第二十回」>> 第一部の終わりに!!      2000/2/1 掲載 
 失語症になってから、不思議なことに、無意識におかしな事をしている事があります。例えば、外出から 家に帰って靴を脱ぎ、上履きと履き替える事をしていますが、そんな折、また、下靴を途中まで履いてしま った事があります。また、その時には、装具は取らないのですが、無意識に取ってしまう事もありました。
 また、日記を書いている場合、書きたい事を口に出して書くのですが、口に出す字は正しいのに、 無意識に間違った平仮名を書いてしまう事もあります。たいていは、すぐに気がついて書き直しをします。 この事は、ワープロで「た」と読んでいるのに、無意識に「て」と打ったしまう間違いと共通した事と思い ます。
 これらの事は、「ぼけ」に通じる問題だと思います。脳に障害を受けている人は、一見、普通に見えるが、 いろいろな問題があります。私は、脳障害があることを自覚できますが、自覚出来ない人の介護をする人は、 つらい事が多いと思います。脳の障害は、脳のどの部分に障害を受けたかによって、非常に違うと思います。 私の場合は、発語に関する障害が大きくても、内語の障害が軽いから、このホームページの自分一人で作っ ています。(この段落は、新しく書き加えた物です)

 最後に(第一部を終わりにあたって)、藤田先生の事を書いて終わりにしたいと思います。前にも書いた ように、今は、吉田先生が言語の担当の先生です。だから、今は、藤田先生の言語訓練は、直接にはあり ません。しかし、更生施設を退所するおりに宿題を出されました。それは、「私の町」と言う題で文章を 作り、出来あがったらカセットレコーダーに録音して提出する事です。題は、必ずしも「私の町」という事 では無く、自分の考えを書く事も認められています。私が渡滑小学校の時に特殊学級の担任を2年間やった 経験から、特殊学級の事を書いた事もありました。第20回から第25回までは、私が病気になってから 約2年になっていたので、「私の病気」と言う題でかきました。
 この「私の病気」が、「私の病気と闘病生活」と言う手作りの本の基になっています。したがって、 「私の病気と闘病生活」が出来あがったのは、藤田先生が与えたくれた課題が原点になっています。
 「私の病気」と言う文章の前に、藤田先生が私の担当であった時、「大学生時代のサークル活動」や 「私の新任時代」と言う文章も書きました。これは、まだ更生施設にいた時に書いたものでしたが、 私に取って、まとまった文章を書く事が極めて難しいときでした。それでも、まとまった文章が書けたのは、 適切な藤田先生の課題を与えてくれたお陰だと思います。だから、藤田先生に感謝の言葉を送り文を閉 じます。

      藤田先生、ありがとうございました

 この次は、第2部に移ります。