厚生施設に入る時に一番心配した事が、洗濯の問題でした。病院の時は 車椅子があったのですが、厚生施設に入る時は、車椅子はありませんでした。病院の時は、車椅子を使って 洗濯をしていました。車椅子なしで洗濯する事が出来るかが心配でした。
ちょっと寄り道をして、私が洗濯をしようと思った事を書いておきます。私は、名古屋福祉健康
センター病院に転院して、すぐに洗濯を始めました。本当は、中部労災病院にいた時の後半のから洗濯
をしたいと思っていました。その前は、名古屋に住んでいる子どもが洗濯をやってくれていました。
その子どもの勤めの都合で洗濯をやってもらえ無くなったのです。仕方が無いので、家内が日曜日に
来てくれて、汚れた洗濯物を持ち帰り、その代わりに、きれいな物を置いてくれる事をして
くれていました。だから、私は、自分で洗濯をしたいと思ったのです。しかし、中部労災病院の時は、
私の病棟には全自動洗濯機はありましたが、乾燥機はありませんでした。その代わり、
乾燥室がありました。乾燥室には、取り出し易い場所には、いつも誰かが干してありました。
たとえ空いている時でも、車椅子を使って、左手一本では乾燥が出来ませんでした。
所が、名古屋福祉健康センター病院に転院した時、有料の全自動洗濯機と電気乾燥機がそろっている事を、
看護婦さんに説明して頂きました。
1週間くらいした時、男の患者さん(名前は、始めは分からなかったの
ですが、前に書いた「林さん」でした。)が洗濯をしている姿を見て、私も地下1階の売店で洗剤を買って
来て、洗濯を始めました。その時から、洗濯は、私の入院生活の一部となり
ました。
厚生施設に入った時から、車椅子は全く使用しない事になりました。 だから、洗濯物を入れるポリバケツを持って行く事が出来るか、その事が心配でした。幸いな事に、 私の部屋は、洗濯場とは近かったので、思い切って、杖無しで、洗濯物の 入ったポリバケツを持って洗濯場へ向かいました。そして、ポリバケツを持って行く事に成功しました。 こうして、杖無しで、洗濯場をする事が可能になりました。この洗濯という事を通して、室内では、 短い所へは、杖無しで、歩けると言う事を知りました。それはり、 厚生施設に入った初めの週の事でした。
今でも、起筆が見えない事は同じです。だから、ポールペンでの書写でも、出来るだけペンを左に傾けて 書いています。しかし、日本語は左から右に書くようになっていますから、ペンを左に傾けて書くの書きず らいです。話し言葉の様子は、再度脳出血があってからは、「発語障害」がひどくなってので、 「話し言葉」の障害は、少し低くなっています。
11月になると、一応、400字打つのに40分くらいかかっていました。そして、自分の打った文章 の校正に10分くらいかかっていました。それが、退所する前日にやると、28分と3分になっていまし た。私は、始めの2回くらいは別ですが、ワープロでも「打ち終わった時間、校正に使った時間」を記録 していたのです。だから、記録を見る事で自分の力が分かったのです。今では、35字×25行の自分で 考えた文章が、50分から1時間程度で出来ています。(「闘病記」を書いた当時)
クラブの時間には、言語の藤田先生の課題を打ち込む事をしていました。まだ、早く打てなかったので、
外泊の時に、家でやる部分の方が多かったのです。もう一人の吉田先生に出す物は、全部、外泊の時にや
っていました。言語の先生の課題は、次回に掲載する予定です。
吉田先生には、家にあった本で、「かざぐるま」などの「おもちゃの作り方」をワープロで打つ事もして
いました。(「水掻きボート」「変形風輪(かぜわ)の作り方」「ゴムで走るカメ」8/30 「日本の伝承かぜぐるま」
「たわらころがし」9/12 「卵のおきあがりこぼし」9/19 期日の記載の無い物もありますが、だいたい
この順番です。) 同時に、鉛筆で作る物の図をかくこともしていました。そした、作り方を先生に説明
するという事をしていました。けれど、必死になればなるほど、純粋な話し言葉
では伝える事は出来ませんでした。だから、説明の代わりに、自分で打った文章を読み上げるとい
う事をしていました。それも、片言くらいの程度でした。
勿論、小学校程度の漢字の読み書きもありました。漢字の書き取りは、吉田先生の場合でも、言語の宿題
でした。8月6日の記録によると、小学校2年生用の漢字の書き取りが終わっています。そうすると、
名古屋福祉健康センター病院で、吉田先生に見てもらってから、約1ヶ月で、小学校2年生用の漢字の書き
取りが終わった事になります。
本当は、中部労災病院にいた時に、5分の1くらい、全くの自習でやっていました。この事は、多分、 中部労災病院の看護婦や言語訓練士は知らない事です。なぜならば、夕食後の1時間くらいを漢字の練習に 当てていたからです。そんな時間には、看護婦は見には来てくれなかったからです。中部労災病院では、 私の病棟は、6時くらいになると2人しか看護婦がいなかったので、世話のかかる患者だけで 精一杯でした。今思い出してみると、私の病棟は、リハビリを主としている病棟でったようです。
小学校用の漢字は、名古屋福祉健康センターの「更生施設」を退所する時には、一応、全部やりました。 しかし、あまり書かない字は、すぐに忘れてしまします。その点で、ワープロ作る文章は、忘れている文字 も書き表してくれるから重宝しています。どういう訳か知らないのですが、ワープロで「 漢字変換」の時、どの字を選べばよいかは、失語症の後も、変わりがない ようです。
「おもちゃの作り方」の後、「高田みずえのおかみさん日記」という文章が私の家の新聞の日曜版に 載っていましたから、それを要約文にして、吉田先生に提出しました。これは、松ヶ根部屋の事を「高田 みずえ」さんが「おかみさん」の立場で書いた物でした。原文の約5分の1くらいに要約しました。 日曜版の事ですから、外泊で家にいる時に、要約文を作るのは根気のいる事 でした。しかし、なんとか毎週続ける事が出来ました。
始めに、私が作った「MSXパソコンのソフトを、吉川先生に、どう使うか見せる事にしました。
そうしたら、先生は、失語症の患者さんなら、どんな使い方が出来るかを話してくだいました。
私が前に作ったプログラムは、得点が80点〜85点になるまで、何回でも繰り返すプログラムになって
いました。先生は、失語症の患者には、進度は自由に使える方が良いと話してくれました。そこで、外泊で
家に帰った時、ソフト直しに頑張りました。始めは、プログラムリストを取ることもままなかったのです。
とりかく、リストをプリンターで取ることが最大の問題でした。パソコンの取り扱い説明書を見る事にし
ました。「list」のスぺルも忘れていたので、とりかく、取り扱い説明書の始めから繰って「list
」「llist」(リストの印刷)を探せました。そして、印刷したプログラムリストを見て、何とか
プログラムの修正した物を先生に見せました。そんな事を繰り返しながら、ようやく、算数の足し算の
プログラムを、進度自由のプログラムが何とか出来ました。
その後、「物語」のプログラム(絵本を題材として、その中の漢字の読み方を勉強するソフト)も、
成績に関係無く次へ進むようにプログラムを修正しました。言葉で言うと簡単そうな事ですが、実際は、
苦労の連続でした。私が修正を加えた「物語」のソフトは、吉川先生に、失語症の患者さんに使ってもら
いました。吉川先生は、「失語症の患者さんに、興味を持っています。」と話してくれました。
この時の吉川先生との出会いが無かったら、失語症になっても、MSXパソコンのソフトの修正したり、
改定を加えたりして、半田市特殊学級用ソフトして使ってもらう事も無かったと思います。
現在は、半田市特殊学級用ソフトとして、私が過去に作ったプログラムを元にして、「漢字の勉強」と言う
ソフトを作って利用してもらっています。残念なことに、過去に作ったプログラムを完全に理解はしていま
せん。一部の理解で頑張っています。これも、失語症の不思議な所です。
私は、左手一本で「切る・まぜる」などか、いかに大変だと言う事も知りました。例えば、「肉じゃが」
を作る場合でも、「にんじん」や「じゃがいも」の皮をむくのが大変でした。
「にんじん」の場合には、丸いままでは、皮をむく事は出来ないから、いったん切った物をまな板の上に
置いて、少しずつ多角形を作る要領で、仕上げました。「たるねぎ」の皮は、なんとかむきました。しかし、
端を切る事は、出来ないので、やはり、縦に半分に切ってから、端を切りました。
「じゃがいも」は、お手上げでした。そうした時、受講生の一人が、上手い方法でやっているのに気が
つきました。それは、まず、「じゃがいも」の皮をむく前に、半分に切って、それを、平らな方を下にして、
皮をむくと言う方法でした。早速、私も試みました。そうしたら、なんとかなりました。しかし、皮をむく
厚さが厚くなる事は、仕方が無いことでした。
「肉じゃが」の作り方は色々ありますが、更生施設で作った「肉じゃが」は、まず、肉とみじん切りに
した玉ねぎの一部を炒める事から始まりました。その時、鍋を持つ手も、ガスの調節も、炒める事も、
全部左手一本でする事がいかに大変か分かりました。出来あがった後、ガス台からおろす事は、更生施
設では、片手鍋が常備されているので、その片手鍋を使ったので楽におろせました。しかし、食器に盛る
事は、鍋を押さえる事が出来ないから、すべって大変でした。
献立によっては、「味噌汁」が付いている事もありました。「味噌汁」は、当番でつくりました。私も
「味噌汁」当番になった事がありました。肝心なところは、先生に任せていました。しかし、私も仕事を
しました。そんな時、普通の人なら易しい事ですが、私のように片手だけの人に取っては、「ねぎを切る」
事が、「ふにゃふにゃ」して大変だった事も覚えています。
現在は、昼は、家内が作り置きした物を食べています。たまに、自分で作る事もありますが、献立は、
限れらています。「肉じゃが」「カレーライス」「シチュー」「目玉焼き」くらいです。
更生施設で習った事を生かしています。食器洗いは、平日は、やっています。片手では、時間がかかりま
す。
私は、例え時間がかかっても、片手で出来る事は、自分でしようと思っています。それが、
病気に負けない事だと思っています。しかし、片手では、どうしても
出来ない事もあります。例えば、少し重い物は、持つ事が出来ません。軽い物でも、かさが大きすぎる物は
だめです。だから、自分の状態を確かめて、補助具を考えて(「リハビリで作った物」のページで、
木工の事を載せています)、可能な事柄を増やして行こうと思っています。