<<第七回」>> 更生施設に入った!!       1999/02/09 掲載 
 いよいよ退院する時がやって来ました。半田病院、中部労災病院、 名古屋福祉健康センター病院と順番に病院を転院してきましたが、とうとう退院する時が来ました。しかし、 退院するといっても家に帰るのとは違います。
 名古屋福祉健康センターには、総合リハビリセンターがあり、その中に重度身体障害者の 「更生施設」がありまました。私も厚生施設に入る事になりました。 普通に人は、1年間過ごす事になりますが、私の場合は、6ヶ月と言う事になっていました。 この厚生施設に入る事は、なかなか難しい事ですが、色々の人たちの努力の末、入る事が出来ました。
 厚生施設に入ると、2週間のオリエンテーリングがありました。その上で指導員の先生がプログラムを 決めて、そのプログラムに沿って、1週間の流れが決まって来ました。
 そのプログラムに、誰でもやるプログラムがありました。それは、風呂に入る事 、自分の物は自分で洗濯をする事です。
風呂は、指導員が認めると、自分で自主的に入る事が出来るのです。私の場合は、約3週間で自分で風呂に 入る事を認めてもらったのです。厚生施設で、自分で風呂に入る事が出来てからは、自分の家の風呂も、 自分一人で入っています。で

 厚生施設に入る時に一番心配した事が、洗濯の問題でした。病院の時は 車椅子があったのですが、厚生施設に入る時は、車椅子はありませんでした。病院の時は、車椅子を使って 洗濯をしていました。車椅子なしで洗濯する事が出来るかが心配でした。

 ちょっと寄り道をして、私が洗濯をしようと思った事を書いておきます。私は、名古屋福祉健康 センター病院に転院して、すぐに洗濯を始めました。本当は、中部労災病院にいた時の後半のから洗濯 をしたいと思っていました。その前は、名古屋に住んでいる子どもが洗濯をやってくれていました。 その子どもの勤めの都合で洗濯をやってもらえ無くなったのです。仕方が無いので、家内が日曜日に 来てくれて、汚れた洗濯物を持ち帰り、その代わりに、きれいな物を置いてくれる事をして くれていました。だから、私は、自分で洗濯をしたいと思ったのです。しかし、中部労災病院の時は、 私の病棟には全自動洗濯機はありましたが、乾燥機はありませんでした。その代わり、 乾燥室がありました。乾燥室には、取り出し易い場所には、いつも誰かが干してありました。 たとえ空いている時でも、車椅子を使って、左手一本では乾燥が出来ませんでした。
 所が、名古屋福祉健康センター病院に転院した時、有料の全自動洗濯機と電気乾燥機がそろっている事を、 看護婦さんに説明して頂きました。
 1週間くらいした時、男の患者さん(名前は、始めは分からなかったの ですが、前に書いた「林さん」でした。)が洗濯をしている姿を見て、私も地下1階の売店で洗剤を買って 来て、洗濯を始めました。その時から、洗濯は、私の入院生活の一部となり ました。

 厚生施設に入った時から、車椅子は全く使用しない事になりました。 だから、洗濯物を入れるポリバケツを持って行く事が出来るか、その事が心配でした。幸いな事に、 私の部屋は、洗濯場とは近かったので、思い切って、杖無しで、洗濯物の 入ったポリバケツを持って洗濯場へ向かいました。そして、ポリバケツを持って行く事に成功しました。 こうして、杖無しで、洗濯場をする事が可能になりました。この洗濯という事を通して、室内では、 短い所へは、杖無しで、歩けると言う事を知りました。それはり、 厚生施設に入った初めの週の事でした。


 <<第八回」>> 外出訓練!!            1999/3/1 掲載 
 「更生施設」に入って、「外出訓練」も始まりました。この訓練は、「センターのバス」で、 新瑞の駅の側にあるユニーへに行くことから始まりました。
 指導員の先生は、まず最初に、「バスの乗り降り」から教えて頂きました。これは、すぐ出来ました。 新瑞の「ユニー」に着いては、「エスカレーター」に乗り降りの練習が、最初にありました。始めに、 一緒に行った訓練生の様子を見ました。「乗り降りの注意」の指導員の話を聞き、実際に試して見ました。 指導員の先生がすぐ後に着いていました。始めの内は、右足が悪いのに右足で乗る事、降りる事が ありました。その度に、指導員の先生はヒヤヒヤしたと思います。外出訓練は週1回なので、 「エスカレーター」に正常に乗り降りが出来たのは、1ヶ月くらいかかりました。それからは、 指導員の先生が着いていなくても「エスカレーター」の乗り降りが出来るようになりました。 (注  足が痛くてたまらないので「歩く」事が出来なくなっての三度目の入院をしました。それからは、 電動三輪車を使っています。だから、「エスカレーター」の乗り降りが出来るか分かりません。)
 「エスカレーター」の乗り降りが出来ると、「市バス」や「地下鉄」に乗る訓練が始まりました。始めは、 市バスと地下鉄で、「金山」まで行く事でした。それが出来ると、もう少し遠くに行きました。例えば、 名古屋市水族館や愛知県美術館などです。
 それが済むと、一人で名古屋市博物館に行く事をしました。当然、指導員と待ち合わる事は義務でした。 場所を変えて、そんな事が2・3回ありました。
 その後、指導員の許可が下りたので、指導員無しで、市バスと地下鉄で「金山」まで行く事にしました。 「更生施設」を退所後に、言語訓練のために名古屋市リハビリセンターへ通う事を考えての事です。 病気の後、全部自分の力で公共交通機関を利用したのが、これが最初でず。当然、後から、報告書を 書くことが義務でした。
 指導員の外出訓練のお陰で、半田病院からの帰る時は、バスと電車に乗って帰る事が出来るように なりました。月2回の名古屋市リハビリセンターの言語訓練も公共交通機関で行く事も出来るように なりました。

 (注  前に書きましたが、「歩けない」症状で入院してから、「歩く」事の機能がすごく
    低下しているので、今は、公共交通機関を利用する事は、出来ません。      
     半田市や武豊町で、「エスカレーター」の乗り降りやバスや電車の乗り降りの訓練
    をしてくれる所があるとよいのだが!!
)                   



 <<第九回」>> 毛筆書写も!!     1999/4/1掲載 
 更生施設では、毛筆書写もやりました。入所した時が、丁度、「更生施設の展示会」が あるというので、始めは、書写も展示会用の物を作りました。書写の先生も、誰でも 同じ様に扱ってくれました。
 私は、「展示会用の言葉を、まず第一に考えなさい。」と言われました。更生施設に入ったばかりの時 ですから、言葉を考える力は少なかったので、「楽しい」と言う言葉を言うのが精一杯でした。その言葉を、 先生は、「楽」と言う言葉に変えて、書体も丸みを持った字を示してくれました。 
 だから、その字を展示会用の字と決めました。ただ、残念な事に展示会の時の習字は、もらっていません ので記念に残しておく事が出来ませんでした。
 展示会の後からは、普通の「楷書の書写」に移りました。毛筆書写では、文鎮を使用するのですが、 私は、右手が使えませんから、半紙を手で支えることは出来ません。そこで、先生 は、上と下に 文鎮を二つ使うことを教えてくれました
 毛筆書写の時間には、数枚書きました。一番良いと思う物は、先生に渡して、二番目の物を持って帰り ました。そんな事をやっているのは、私くらいの者でした。書写の時間には、必ず、二番目の物を持ちかえ っていましたから、今でも、自分の記念になっています。
 書写の時間に、先生が誉めてくださった事に、「左手で書いているのに、手本通りにかいている。」と いうことがありました。しかし、「起筆が左手では見えないから、見当をつけて書いているのです。」と 意味の言葉を先生に答えると、「なるほどね。」と言われました。それは、もう少しで更生施設を退所する 事になった、ある日の事です。話し言葉もこれくらいの事だったら、日によって差があるのですが、ゆっく り話す事で話が通用してくれました。(こころから、付け加え)

 今でも、起筆が見えない事は同じです。だから、ポールペンでの書写でも、出来るだけペンを左に傾けて 書いています。しかし、日本語は左から右に書くようになっていますから、ペンを左に傾けて書くの書きず らいです。話し言葉の様子は、再度脳出血があってからは、「発語障害」がひどくなってので、 「話し言葉」の障害は、少し低くなっています。


 <<第十回」>> ワープロの訓練!!      1999/4/22 掲載 
 私は、更生施設に入って色々なことを教えてもらいました。今までに書いた他にも、 「簡単なスポーツ」「ワープロ」「切り絵」「調理」等をしました。私はオリエンテーリングの時に しただけですが、「七宝細工」「皮工芸」もありました。
 そんな中に、自分で、名古屋福祉健康病院の時から、外泊の時に始めていた「ワープロ」があります。 更生施設のワープロの機種は、東芝の「Rupo」でした。私の機種は、当時20万円くらいのですが、 更生施設の物は、もう少し価格が安い物でした、しかし、フロッピーディスクのフォーマットは同じ物を 使えたから家で作った物でも、ワープロの時間に作った物でも共通に使えたから便利でした。
 ワープロは、正規の時間の物と「クラブ」の時間の物と2種類の物とがありました。正規の時間には、 始めは、「Rupo」に入っている「平仮名・片仮名」の練習をしました。私は、もう自分のワープロを 使っていましたから、「平仮名・片仮名」の練習は、時間がかかる事があっても出来ていました。
 しかし、平仮名1字が、言葉と目とが合わない事もありました。だから、話し言葉では、「こ」なら 「こ」と読んでも、書き言葉では、違う字を打ってしまうような間違いもありました。拗音は、読める けれど、書き言葉ではどう打てば良いか分からない事もありました。
 一応、「仮名漢字変換」が出来る事を、ワープロの鈴木先生が確かめると、400字くらいの手本の 文章を打つ事になりました。まだまだ、平仮名1字が、話し言葉と書き言葉が間違っている事がありま したので、早く打つ事は出来ないのが普通でした。拗音や拗促音は、書き言葉で表わす事に困難があり ました。「脳出(しゅっ)血」という言葉は、なかなか出て来なかった事を覚えています。今でも、拗音は必ず、 その他の文字も、ワープロで打つ前に「声」に出して言わないと間違えてしまいます。

 11月になると、一応、400字打つのに40分くらいかかっていました。そして、自分の打った文章 の校正に10分くらいかかっていました。それが、退所する前日にやると、28分と3分になっていまし た。私は、始めの2回くらいは別ですが、ワープロでも「打ち終わった時間、校正に使った時間」を記録 していたのです。だから、記録を見る事で自分の力が分かったのです。今では、35字×25行の自分で 考えた文章が、50分から1時間程度で出来ています。(「闘病記」を書いた当時)

 クラブの時間には、言語の藤田先生の課題を打ち込む事をしていました。まだ、早く打てなかったので、 外泊の時に、家でやる部分の方が多かったのです。もう一人の吉田先生に出す物は、全部、外泊の時にや っていました。言語の先生の課題は、次回に掲載する予定です。


 <<第十一回」>> 言語の訓練!!      1999/5/15 掲載 
 話は、少し前に戻りますが、名古屋福祉健康センター病院の後半くらいになると、言語 の時は、外泊の時にワープロで打った小学生用の国語の教科書での要約文を、藤田先生に持って行く事も していました。(前述の「みつばちのダンス」など。ほかにも「ありの行列」8/22、「チンパンジーと 道具」8/29、「人間は言葉を使う」9/5などがあります。) 藤田先生には、宿題の算数の文章題の解答も 見せていました。その中には、答えが同じになる「文章題を作る」を事もありました。しかし、この宿題は、 失語症にかかった私には難しい事でした。自分で作るのは、一題だけですが、小学校の2年生用の 文章題を作るのにも、ある時は、1時間くらいかかる事もありました。

 吉田先生には、家にあった本で、「かざぐるま」などの「おもちゃの作り方」をワープロで打つ事もして いました。(「水掻きボート」「変形風輪(かぜわ)の作り方」「ゴムで走るカメ」8/30 「日本の伝承かぜぐるま」 「たわらころがし」9/12 「卵のおきあがりこぼし」9/19  期日の記載の無い物もありますが、だいたい この順番です。) 同時に、鉛筆で作る物の図をかくこともしていました。そした、作り方を先生に説明 するという事をしていました。けれど、必死になればなるほど、純粋な話し言葉 では伝える事は出来ませんでした。だから、説明の代わりに、自分で打った文章を読み上げるとい う事をしていました。それも、片言くらいの程度でした。
 勿論、小学校程度の漢字の読み書きもありました。漢字の書き取りは、吉田先生の場合でも、言語の宿題 でした。8月6日の記録によると、小学校2年生用の漢字の書き取りが終わっています。そうすると、 名古屋福祉健康センター病院で、吉田先生に見てもらってから、約1ヶ月で、小学校2年生用の漢字の書き 取りが終わった事になります。

 本当は、中部労災病院にいた時に、5分の1くらい、全くの自習でやっていました。この事は、多分、 中部労災病院の看護婦や言語訓練士は知らない事です。なぜならば、夕食後の1時間くらいを漢字の練習に 当てていたからです。そんな時間には、看護婦は見には来てくれなかったからです。中部労災病院では、 私の病棟は、6時くらいになると2人しか看護婦がいなかったので、世話のかかる患者だけで 精一杯でした。今思い出してみると、私の病棟は、リハビリを主としている病棟でったようです。

 小学校用の漢字は、名古屋福祉健康センターの「更生施設」を退所する時には、一応、全部やりました。 しかし、あまり書かない字は、すぐに忘れてしまします。その点で、ワープロ作る文章は、忘れている文字 も書き表してくれるから重宝しています。どういう訳か知らないのですが、ワープロで「 漢字変換」の時、どの字を選べばよいかは、失語症の後も、変わりがない ようです。

 「おもちゃの作り方」の後、「高田みずえのおかみさん日記」という文章が私の家の新聞の日曜版に 載っていましたから、それを要約文にして、吉田先生に提出しました。これは、松ヶ根部屋の事を「高田 みずえ」さんが「おかみさん」の立場で書いた物でした。原文の約5分の1くらいに要約しました。 日曜版の事ですから、外泊で家にいる時に、要約文を作るのは根気のいる事 でした。しかし、なんとか毎週続ける事が出来ました。


 <<第十ニ回」>> 言語の訓練!!(その2)      1999/6/14 掲載 
 更生施設の後半からは、藤田先生と男の吉川先生(名前は忘れていたのですが、 吉田先生に教えてもらいました)に代わりました。その先生には、「むかし話」を題材にして、色々な 事を聞かれました。「したきりすずめ」「浦島太郎」などの話でした。話し言葉は満足に出来ませんで した。それでも、私の言いたい事を、先生に伝えたいと言う事に努力しました。しかし、現実は、吉川 先生の話を聞く事の方が多かったと思います。
 「浦島太郎」の伝説は、私たちの村(富貴村)にもありました、それで、「知多のむかし話」と言う 本を家から持ってきて、「知多のむかし話」に出てくる「浦島太郎」を話題した事もありました。
 吉川先生は、「むかし話」を区切りにすると、今度は、「MSXパソコンについて」と言う題材を 選びました。私が病気になる前MSXパソコンのプログラムを作っていて、病気の後、少し触り始めた 事を、先生が知り、吉川先生はMSXパソコンに詳しいため、そんな事になったと思います。こう言う 所にも、名古屋市総合リハビリセンターの言語の藤田先生を始めとして各先生方の患者の気持ちを大切 にしたいと言う事が現れていると思います。

 始めに、私が作った「MSXパソコンのソフトを、吉川先生に、どう使うか見せる事にしました。 そうしたら、先生は、失語症の患者さんなら、どんな使い方が出来るかを話してくだいました。
 私が前に作ったプログラムは、得点が80点〜85点になるまで、何回でも繰り返すプログラムになって いました。先生は、失語症の患者には、進度は自由に使える方が良いと話してくれました。そこで、外泊で 家に帰った時、ソフト直しに頑張りました。始めは、プログラムリストを取ることもままなかったのです。 とりかく、リストをプリンターで取ることが最大の問題でした。パソコンの取り扱い説明書を見る事にし ました。「list」のスぺルも忘れていたので、とりかく、取り扱い説明書の始めから繰って「list 」「llist」(リストの印刷)を探せました。そして、印刷したプログラムリストを見て、何とか プログラムの修正した物を先生に見せました。そんな事を繰り返しながら、ようやく、算数の足し算の プログラムを、進度自由のプログラムが何とか出来ました。

 その後、「物語」のプログラム(絵本を題材として、その中の漢字の読み方を勉強するソフト)も、 成績に関係無く次へ進むようにプログラムを修正しました。言葉で言うと簡単そうな事ですが、実際は、 苦労の連続でした。私が修正を加えた「物語」のソフトは、吉川先生に、失語症の患者さんに使ってもら いました。吉川先生は、「失語症の患者さんに、興味を持っています。」と話してくれました。
 この時の吉川先生との出会いが無かったら、失語症になっても、MSXパソコンのソフトの修正したり、 改定を加えたりして、半田市特殊学級用ソフトして使ってもらう事も無かったと思います。 現在は、半田市特殊学級用ソフトとして、私が過去に作ったプログラムを元にして、「漢字の勉強」と言う ソフトを作って利用してもらっています。残念なことに、過去に作ったプログラムを完全に理解はしていま せん。一部の理解で頑張っています。これも、失語症の不思議な所です。


 <<第十三回」>> 調理実習      1999/7/9 掲載 
 調理実習は、途中から始まりました。私が一番障害が重いため、調理の先生ノテーブルでやりました。 調理実習では、自分で調理して、それを昼食で食べるのです。
 一番困難なことは、やはり、言語の問題でした。献立のおよそしか読めないのです。献立に書いてある事 の大筋は分かるのですが、詳しい事は、すぐに忘れてしまうのです。特に、調味料の量は分からないのです。 献立では、四人分で書いてありました。だから、調味料などは、四分の一にしなくてはならないのです。 その量が分からないのです。例えば「醤油 50ml」という時、四分の一にしなければいけない事は分かって いるのですが、実際の量が計算出来なかったのです。材料は、先生が分けてくださったので、一人分の使用 量は分かるのに、調味料の量が分からなかったのです。だから、醤油、みりん、酒などは、大体の量でやり ました。
 私は、病気の後、味覚が弱くなっていました。だから、調理実習で作った料理の味があまり分かりません でした。そして、更生施設にいる時、医師に「減塩食にする」と言われていたのです。だから、味付けは、 薄い味にしたと思っています。現在でも、特に塩味は、できるだけ薄い味付けをしてもらっています。
 今でも、数量は、暗算では、出来ない方が多いのです。買い物で、料金が示してありますが、暗算で は、消費税を足すと、いくらくらいか分からないのです。だから、買い物の時は、多めにお金を準備して おきます。

 私は、左手一本で「切る・まぜる」などか、いかに大変だと言う事も知りました。例えば、「肉じゃが」 を作る場合でも、「にんじん」や「じゃがいも」の皮をむくのが大変でした。
 「にんじん」の場合には、丸いままでは、皮をむく事は出来ないから、いったん切った物をまな板の上に 置いて、少しずつ多角形を作る要領で、仕上げました。「たるねぎ」の皮は、なんとかむきました。しかし、 端を切る事は、出来ないので、やはり、縦に半分に切ってから、端を切りました。
 「じゃがいも」は、お手上げでした。そうした時、受講生の一人が、上手い方法でやっているのに気が つきました。それは、まず、「じゃがいも」の皮をむく前に、半分に切って、それを、平らな方を下にして、 皮をむくと言う方法でした。早速、私も試みました。そうしたら、なんとかなりました。しかし、皮をむく 厚さが厚くなる事は、仕方が無いことでした。
 「肉じゃが」の作り方は色々ありますが、更生施設で作った「肉じゃが」は、まず、肉とみじん切りに した玉ねぎの一部を炒める事から始まりました。その時、鍋を持つ手も、ガスの調節も、炒める事も、 全部左手一本でする事がいかに大変か分かりました。出来あがった後、ガス台からおろす事は、更生施 設では、片手鍋が常備されているので、その片手鍋を使ったので楽におろせました。しかし、食器に盛る 事は、鍋を押さえる事が出来ないから、すべって大変でした。
 献立によっては、「味噌汁」が付いている事もありました。「味噌汁」は、当番でつくりました。私も 「味噌汁」当番になった事がありました。肝心なところは、先生に任せていました。しかし、私も仕事を しました。そんな時、普通の人なら易しい事ですが、私のように片手だけの人に取っては、「ねぎを切る」 事が、「ふにゃふにゃ」して大変だった事も覚えています。

 現在は、昼は、家内が作り置きした物を食べています。たまに、自分で作る事もありますが、献立は、 限れらています。「肉じゃが」「カレーライス」「シチュー」「目玉焼き」くらいです。 更生施設で習った事を生かしています。食器洗いは、平日は、やっています。片手では、時間がかかりま す。
 私は、例え時間がかかっても、片手で出来る事は、自分でしようと思っています。それが、 病気に負けない事だと思っています。しかし、片手では、どうしても 出来ない事もあります。例えば、少し重い物は、持つ事が出来ません。軽い物でも、かさが大きすぎる物は だめです。だから、自分の状態を確かめて、補助具を考えて(「リハビリで作った物」のページで、 木工の事を載せています)、可能な事柄を増やして行こうと思っています