<<第一回>> 半田病院に入院      1998/10/10 掲載


 私が病気になったのは、1992年1月16日 の事でした。その日は、校長先生にパソコンのワープロ(「一太郎」) について聞かれたので教えていました。
 二時間目が少したってから、この年は校務主任をやりながら、図工の専科でもあったので、 採点をしようと思い、図工室に行ったのでした。授業の終わりのチャイムが鳴ったので、 この日は給料日なので、切りが着いたら職員室にいこうと思って、採点を早く区切りにしたいと 思っていました。
 その時、何の前触れも無く、突然、右手が動かなくなり、 ペンを持つのが不可能になってしまいました。 ついでに足も動かなくなってしまいました。どうする事も出来ないので、 次の時間になったら授業がある事は分かったいたので、その時まで待つより 方法がありませんでした。なぜならば、図工室は、他の教室とは離れた所にあったからです。
 授業が始まって少したったら、5年1組の生徒が、先生の引率で来た事は覚えていますが、 何分くらい待っていたかは分からないのですが、10分から20分くらいの時間があったと思います。 生徒が来た事は覚えていますが、足音、話し声は、全く無しという具合でした。 生徒と先生を見たら、その場所にひっくり返り、意識を失ってしまいました。

 その後の事は、家内に聞かせてもらって始めて知った事ですが、始めは渡内(わたうち) 小学校に近い総合病院である「中央病院」に救急車で運ばれましたが、中央病院には、 私の病気(これも後で知った事なんですが、脳出血)に対処する脳外科が無いため、 「(半田市立)半田病院」に移されたという事です。
 半田病院での手術も機械の定期検査があったから、3日か4日延ばされてしまいましたと いうことです。とにかく、手術も終わりました。しかし、意識が無い日が何日か続きました。 家内の話ですと、校長先生が見舞いに来てくれてのですが、私は、校長先生に意識があるような 事をして、帰りには見送ったとの事です。しかし、意識が戻ったのはもう少し後の事です。
 意識が戻って、「おかしいなあ」と感じたのが、 言葉か不自由になっている事でした。 人の話は聞けるのに、すぐに忘れてしまいます。特に、人の名前は忘れる事が多く、今でも、 忘れる事が度々あります。挨拶の中で言われた名前は、直ぐに忘れる事が多いのです。

 半田病院では、正式の言語訓練士がありませんでしたから、主治医の先生と看護婦の主任さんが 心配してくださり、早く「言語訓練士」の完備した病院に転院するように勧めてくださったようです。
 しかし、遠い病院では、家内も教員をしており、私一人では何も出来ないので困っていました。 すると、名古屋の中部労災病院が言語訓練士を置いて いるという事を家内が知り、早速転院の手続きをしました。それで、中部労災病院に 転院する事になりました。 私が発病してから約2ヶ月くらいになっていました。


 <<第二回>> 中部労災病院に転院      1998/11/01 掲載
 いよいよ中部労災病院に転院する日がやって来ました。半田病院から、兄の車で、中部労災病院に 行きました。病棟は、一番南の病棟でした。

 私は、中部労災病院に転院をした時から、4・5歳くらいの幼児を対象にした 「ひらがなのおけいこ」「算数パズル」など、 自分が特殊学級の担任した折りに知った「くもん出版」の物を買って来てもらい、やり始めました。
 こんな事は、中部労災病院の言語訓練士は知らないはずです。ただ、看護婦さんの一部の人は、 私が「ひらがなのおけいこ」、後には、「漢字の練習」(小学校の一年生・二年生の担任をしていた時、 自分で作ったドリル)などをしている事を知っていたんだろうと思います。
 だから、中部労災病院の展示会があったときに、「ひらがなのおけいこ」の読みをしている所を 看護婦さんと一緒になって写真を撮った事があるのです。中部労災病院に入ってから、 3ヶ月くらいの時の事です。

 この頃は、短い単語ならやっと話せるようになって来ていました。しかし、 かんごふさんという言葉は、「ーごふー」が 言えなかったと言う事から、話す事は出来なかった のです。勿論、少し長い単語、例えば、「おはようございます」などと言う単語は話せなかったのです。
 特に、固有名詞は、なかなか覚える事が出来なかったのです。だから、人の名前は、 中部労災病院の時には、ほとんど覚えていません。担当の看護婦さんの名前も同じ事です。 また、「中部労災病院」という言葉は、看板を見れば分かるけれど、すぐに忘れてしまい、 話は出来ませんでした。

 リハビリは、半田病院の時は、足と手の区別が無く、時間もせいぜい30分くらいであったのが、 中部労災病院では、足(運動療法)と手(作業療法)の両方で2時間かけて訓練してくれる事に感謝しました。
 作業療法では、右手の方はまるでだめでしたが、それでも右手を器具に縛って、 重りを引き下げる事などの訓練を始めました。勿論、右手のマッサージは、毎日の訓練の日課でした。
 障害を受けていない左手を使う訓練も始まりました。ビー玉を箸で挟んで出来るだけ早く箱から移す事、 左手で字を書く事などをしました。
 言語訓練も中部労災病院では、作業療法の中に入っていました。それで、ばらばらにした 「五十音のカード」を、正しい順番に並べる事もしました。始めは、なかなか出来なかった事を 覚えています。

 現在は、「五十音」の始めの音(おん)、 「あかさたなはまやらわん」だけは、出てくるようになっています。そして、 その行の五音は出てきますが、「五十音」を続けて言うことは出来ません。
 私は、ワープロを使って文を書いていますが、間違える事が多々あります。特に、「拗音」、 「だ」と「で」、「ぬ」と「む」、「ざ」と「ぜ」などです。
 文章をワープロに向かって言葉を打つ時は、言葉を小さい声で話しながら 打っています。それでも、間違いがありますから、注意して打っています。
 不思議なことに、中部労災病院に移って時から、話は出来ないけれど、書いた言葉の意味は、だいたい分かるのです。 それで、今は、時間がかかるけれど、ホームページも作れるのです。
 「失語症」は、厄介な病気です。


 <<第三回>>杖をつき、装具をつけて、歩けた!!      1998/11/20 掲載
 中部労災病院の時は、まだ、私は車椅子に乗っていました。中部労災病院に 転院してから、3ヶ月くらい経った時、杖と装具を作ってもらいました。それまでは、足を動かす運動と、 平行棒での歩くための準備の運動をしてしました。
 発病してから約6ヶ月くらい経った時、装具をつけ、杖を頼りにして、 訓練士の先生に腰を持ってもらいながら、始めて自分の足で歩きました
 自分の力で歩く距離は、中部労災病院から転院する時でも、せいぜい60m〜100mくらいでした。 それでも、訓練士の先生に腰を持ってもらいながら、訓練室の階段昇降も少しずつ行っていました。 自分の足で歩くのは、もう少し後のことです。普段は、病室でも車椅子の 生活でした。
 中部労災病院にいた同じ病室の人の名前も、やはり、忘れてしまっていますが、私より約1ヶ月前に、 名古屋福士健康センター病院に転院した人がありました。(後に、私も転院する名古屋福士健康 センター病院の言語治療士の藤田先生が「日記を書きなさい」言われてが、その日記によると、 その人の名前は「井上」という人でした。)
 その人の奥さんと家内が知り合いになって、家内は、名古屋福士健康センター病院の事を 知ったのでした。名古屋福士健康センター病院のパンフレットを持って来てくれたのも、たしか、 井上さんの奥さんだと思います。
 家内は、中部労災病院に転院する時に、主治医の先生から「3ヶ月で退院してもらいます」と 言われています。だから、言語の治療が出来る病院は、 知りませんでしたから、井上さんの奥さんからの情報は願っても無いことでした。 そのため、名古屋福士健康センター病院を、次の転院先に決めました。発病してから、5ヶ月くらい 経った時でした。
 そして、とにかく、名古屋福士健康センター病院の診察を受けることが許されました。しかし、 多くの人が、名古屋福士健康センター病院に転院する希望があると医者に言われました。とにかく、 私も転院の時期を待ちました。
 

    「名古屋福士健康センター」は、今は、名称が変わっている。


 <<第四回>>笑顔が すてきだった言語の先生     1998/12/05 掲載
 中部労災病院に入院してから、約4ヶ月が過ぎていました。しかし、手足の改善が 少し認められるという事で、まだ、入院が可能でした。しかし、「退院してください」という話があるかも 知れないので、家内は、びくびくしていました。そうなると、一旦、家に帰り、名古屋福祉健康 センター病院に入ることを待たねばなりません。そんな、7月早々の日に、名古屋福士健康センター 病院から、入院の許可が出ました。
 私の病室は、平田さん、浅井さん、それにもう一人の四人部屋でした。平田さんは、私と同じような 病気と糖尿病でした。浅井さんは、原因が分からない病気で、足が全く不自由でした。もう一人の人は、 すぐに、同じ病院の特別室に変わっていきましたから、どんな病気なのか分かりません。
 すぐに、開いたベットに、今井さんが入院して来ました。この人は、若い看護士さんだった人ですが、 交通事故の後遺症があった人です。この人も、すぐに同じ建物の中にある「更生施設」に移って 行きました。「更生施設」では、職業訓練もやっています。今井さんの後には、鵜飼さんが来ました。
 平田さんと浅井さんは、私と比べると約1ヶ月早く退院しました。前に書いた井上さんは、別の 病室ですが、同じく約1ヶ月早く退院しました。病院は、患者が3ヶ月を超えると、補助をもらえない と言うことです。名古屋福祉健康センター病院では、入院を希望する患者が多いこともあって、3ヶ月を 厳守していました。
 私は、まだ、話し言葉は、主部は言える事が多くなって来たが、 述部が言えないから、全体として、「言葉を話す」事は出来なかった のです。
 書き言葉も、やはり、述部が自分では付ける事が 非常に困難でした。7月24日は、藤田先生に言われて 日記を付けて日ですが、僅か50文字の字を書くらにも30分 くらいかかっています。(日記には、日付と書くのに要した時間が書いてあった。)
 私の言語訓練の先生は、藤田先生(主任)と吉田先生です。中部労災病院の訓練士の先生とは違い、 二人共、私と笑顔で接して下さるのが印象的でした。中部労災病院の時は、 歳を取った男の先生でした。いくら歳を取った男の先生でも、私たち患者に接する時は、笑顔になって 欲しいと思います。特に失語症などの患者には、例え話が出来なくても、 笑顔で接する事が大切な事だと思います。
 しかし、中部労災病院での訓練が、単音の読みや単語の読み等を教えて下さった事には、訓練士の先生の お陰と感謝しています。その訓練があって名古屋福祉健康センター病院での訓練があったと考えています。


 <<第五回>>記念すべき日      1999/01/01 掲載
 名古屋福祉健康センター病院での闘病生活は続いていました。そうして、記念すべき日が 来ました。それは、私が病気になってから約7ヶ月の時の事です。名古屋福祉健康センター病院では、 家に帰った時の事を考えて、なるべく外泊を勧めていたのです。私も家内の車を利用して、土・日は外泊を していました。
 1992年8月9日のことです。今までは、見向きもしなかったワープロをやって見たのです。 時間は30分くらいかかりましたが、約30字の文章ができました。これは、失語症にかかって 始めてワープロをやった記念するべき日になったのです。
その文面を載せておきます。

「 今日は、ワープロをさわってみました。ひさしぶりで触る気持ちがうれしくなりました。」

 中部労災病院の時に、半田市で懇意にしていた電気器具の店の人に「五十音別のワープロ」を 探してもらい、少しでも早く言語の勉強をしようとしてワープロに向かいました。しかし、 失語症と言う病気がどんな病気か、だれも教えてくれなかったので、とにかく、「五十音別」の ワープロなら何とか打てると思っていました。それは、わたしが、病気になる前は、まだ、ワープロが 行き渡る前からワープロをやっていたからです。しかし、五十音別ワープロでも打てませんでした。
 重要な事は、平仮名を判別するということが出来なかったことです。話し言葉で言ったことを、 ワープロのキーボードで、目で探す事が出来なかったのです。話した音書いた文字が一致しなくなっていたのです。

 病気になってから、ようやく7ヶ月ぶりに自分のワープロを触ったのです。そして、 時間はかかったのですが、とにかく、ワープロで文を打てたのです。うれしかったの です。

 その事を日記にして言語の先生に見せました。それを見て藤田先生は、さっそく、 教科書にある「みつばちのダンス」の要約をワープロでするように言われました。私は、驚きました。 とにかくやることにしました。病院にいるうちに、教科書に読んで線を引いて(下書き)、 外泊の時にワープロを使って書きました。下書きと合わせて4時間半かかりました。これが、 病気に後からワープロで、本格的な文章を打つ事になりました。その文章は縦書きの物ですが、 横書きで、ここに載せます。

「 みつばちは、どうして、花畑が分かるのでしょう。ある学者は、
 巣箱に帰って、仲間に教えたのではないかとかんがえました。 
まず、目印をつけた一ぴきのみつばちが、帰ってきました。そ
 のみつばちは、円をえがくようにダンスをするのです。それが合
 図になって、次々に飛び出して、砂糖水の所へ行きました。  
  次に、三百メートル離れた所に砂糖水の皿をおいて観察しまし
 た。しかし、前とは違って8の字を書くようにダンスをするので
 す。                           
  そこで、その学者は巣箱と砂糖水との距離を色々に変えてみま
 した。すると、みつばちは、だいたい百メートルより近い所に餌
 があるときは円のダンスで教え、百メートルより遠いときは8の
 字のダンスで教えるということが分かりました。       
          ワープロ 昨日約1時間  今日2時間 」

  名古屋市福祉健康センター病院の時は、濁音、拗音がなかなか出て 来ませんので苦労をした事を覚えています。普通の平仮名も時々出て こない事もありました。

 (「患者の状態を見て直ぐに課題を与える」という藤田先生の指導があって、 今日の私の姿があると思います。・・・付け加え99/1)


 <<第六回>> もう一つの記念すべき日!!      1999/01/19 掲載
 足の状態は、名古屋福祉健康センター病院に入院する時には、車椅子に 乗っていました。手は、肩の力で少し動かせる程度でした。
 名古屋福祉健康センター病院に入って、まず、野々目先生に(やはり名前は忘れていたので、 日記で調べて書きました。越石先生の名前も同じ) 装具を付けて立った状態から、 手をついて、足を投げ出して座る事を教えて頂きました。それに、装具を外した状態から、装具を付けて 立ち上がる事も教えて頂きました。(その後、再度の脳出血がありましたので、現状では難しいと 思います。)
 しばらくすると、野々目先生(理学療法の先生)に、病室からリハビリの部屋に車椅子で来る事は 禁じられてしまいました。同時に、病室から食堂まで歩いて来るようにと言われてしまいました。 その事は、野々目先生が私の状態を掴んでいたからだと思います。きっと、理学療法主任の先生に許可を してもらった事だと思います。
 その頃は、まだ、外に出かける事はありませんでした。2階の病室から、1階のリハビリをしてくれる 所まで約100m歩くのがやっとでした。しかし、理学療法の部屋では、出来るだけ早く歩く訓練も しました。病室に帰る時、手摺りを持って階段を上る訓練で、その日の訓練がおしまいになる事も ありました。
 そんな事をしている間にも日は経って行きました。そうして、もう一つの記念すべき時が来ました。 名古屋福祉健康センター病院に入院してから、2ヶ月半くらいになっていました。病院から退院をする 少し前の事でした。
 それは、外のコースを始めて歩いた事です。野々目先生の指導により、 途中で休みを取ったが、450m歩いたことです。その時の時間は 野々目先生が計ってくれましたが、20分であったということです。
 そして、野々目先生は、その次の日から、隣の病室の林さんという人と一緒に、外コースを歩きなさい と言う事を言われました。だから、林さんと、夕ごはんの前、自主的に外コースを歩きました。 病院から退院する時には、1周が14分くらいになっていました。(ここから、付け加え) 言語訓練の時も、患者の状態にあった指導してくれると書きましたが、理学療法でも患者の状態により、 すぐに対応が出来る事に感謝しています。(ここまで)

 作業療法は、越石先生の担当で、マッサージが主でした。しかし、少しでも手が動くように色々な 運動もしました。それから、左手のリハビリもしました、私が印象に残ったいる事に、 「1辺5cmの立方体」を作る事がありました。名古屋福祉健康センター病院に入院してから間もなくの 事でした。白画用紙で立方体の展開図を自分だけで書き、それをカッターナイフで切って 仕上げるのでした。苦労して作りました。 (ここから、文末まで付け加え)その時、補助とした重りを 使うことも知りました。
 名古屋福祉健康センター病院から退院直前には、プラモデルも作ってみようと先生から言われました。 外泊の折り、家内に名古屋城のプラモデルを買ってもらって、作り始めました。このとき、越石先生は、 プラモデルの切口をヤスリで磨くことに苦労している私を見て、ヤリスを固定し 部品を手で持ってヤスリがけをする事を教えてくれました。このプラモデルは、退院する時は、 完成してないが、家に帰ってから、塗装も自分でして完成しております。今でも、自分の寝室に 飾ってあります。
 越石先生の指導が、補助として色々工夫して「切絵」「鉛筆立て」等、 現在、私がやっていることに役立っています。