<< 草野明夫の自己紹介 >>   2006・1・1現在

闘病記をご覧になりたい人は、ここを(闘病記)クリック

 


 私は、障害者です。昭和13年生まれの男性です。 今は、無職です。勤務していた時は、教員でした。右半身麻痺 失語症があります。 発病(1992年1月16日)から現在にいたる過程を闘病記として 掲載しています。(上の「闘病記」をクリック!!)

 右半身麻痺の程度は、右手は、肩が少し動くだけです から、機能は無いと同じことになります。左手の感覚も多少鈍くなっています。もともと、 利き腕は右手であったから、左手で何もかもしなくてはならなくなったので、苦労しました。 今でも、左手のリハビリとして色々なことをしています。作業リハビリとしての作品の一部を、 掲載しています。(「リハビリで作った物」のページ!!)

 右足の機能も、麻痺しています。室内では、装具を付けて、 しかも、杖を突いてなら、かろうじて歩行可能です。一時は、相当な距離まで歩けたけれど、 約2年後、再度の脳出血があり入院し、最近では、屋外での歩行は、すぐに足が 痛くなるので、苦労しています。それで、外出する時は、電動三輪車を使います。電動三輪車で 出かけるときに、少しの段差でも「疼痛」がするので困ります。
 さらに、2001年の9月に左足の大腿骨の骨頭を骨折 (骨折のことは、「闘病記」に追記したので、そちらの方をご覧下さい) したのです。約2ヶ月半のリハビリにより、家の生活には、なんとか、装具を使って、杖での歩行が 出きるようになるまで回復してきました。「疼痛」は、左足の痛みは、以前はほとんどありませんでしたが、 今は、痛みがあるので 困っています。今では、歩行の状態は、自分の部屋から食事をする部屋くらいです。 しかも、一々左足とか右足を動かすよう命令しないと歩けなくなっています最近は、老化が加わり歩行状態は、悪く成っています。しかし、室内では 「車椅子」は使っていません。
 外出の時のトイレが問題です。障害者トイレを設けられている店は、現在のところ、「ユニー」だけと 思います。しかも、電動三輪車でそのまま入ることは出来ません。それは、ドアノブが柱の傍にあり、 そのため、電動三輪車の前輪が邪魔になり、ドアノブに手が届かないのです。武豊役場の障害者トイレも 同様です。武豊役場の障害者トイレは、土日は休みかので使用できません。多分、普通の車椅子でも、 ドアノブに手が届かない人もあると思います。介護人がついての 外出のときなら、介護人があけてくれますが・・・・。それでは、自主的な外出には、なりませんね。
 あるテレビで放映されていた「ユニバーサルデザイン」の町作りの ことをやっていましたが、武豊町でもやってもらいたいと思いました。
 病院の外来に行くときは、家内やヘルパーさんの助けが必要です。 どうしても自分で外出が必要なときは、電動三輪車に乗っての外出が出来る ようになりました。しかし、電動三輪車で買い物が出来る所は、 「ユニー」など、数軒です。しかも、店によっては通路が狭くて行けないところもあります。

 もう一つ困る事があります。それは、感覚が鈍っておる事です。特に、温度感覚が鈍い事です。 そのため、お風呂に入る時は、温度計が必要です。外に出る時も、温度感覚が鈍いので困ります。だから、 衣服の調整に苦労しています。尿意も弱くなっています。時々トイレ行くことが遅れて「漏らす」 ことが多くなっています。

 失語症は、中度という診断を受けています。特に、 発語障害が主ということです。話し言葉は、簡単な事(単語に毛が生えたくらい?!)は、話が出来るまで に回復しています。ただし、発語障害がありますので、普通の人には、聞き取りにくいと思います。 だから、電話には支障があります。電話は、「Faxつきの留守番電話」に替えてあります。 そして、普段は、家にいるときでも、「留守番電話」にしています。話し言葉は、なるべくゆっくりと話す ように心がけています。もう、失語症になってから、10年くらいの年数がありますが、私の発語障害は、 一向に改善されません。この「失語症」は、回復する人と、回復しない人とがあるようです。だから、 「失語症」と言う言葉は無くしたいと思います。回復しない人は、その原因 を解明して、その原因を表記したいと思います。私の場合は、主の原因は、発語障害です。
 書き言葉では、時間がかかりますが、意志を伝える事が出来るまで回復しています。この書き言葉の 問題についても、人それぞれの差異があります。私は、幸いなことに、書き言葉の障害は少しでした。 だから、このホームページも、自分の力で書いています。誰にも手伝ってもらっていません。しかし、 適切な言葉の言い回しには苦労しています。このホームページも「不適切な言葉」があるかもしれないが お許しをお願いします。また、「てにをは」の間違いが多いと思いますが、気がついたら、メールを ください。メールは、時間はかかるけれど、外見上は、普通に出来ます。ぜひ、 メールでのお付き合いをお願いします。顔や声はわからないが、 メール友達が増えています。私は、始めてのメールには、必ず返信を出しています。

 日常生活は、できるだけ普通にしています。衣服の 脱着・食事・自分で風呂に入ることは、今のところできます。本年度になって浴槽に入ることは出来なくなってきました。 だから、シャワーを使うことも出来ません。浴槽の湯を汲んで身体にかけています。
以前やっていた洗濯は、家内が退職したので、 家内に任せています。トイレも自分で行きます。ただ、尿意が鈍いので寝ているときは、 尿瓶をすぐそばに置いて寝ます。この前の骨折による入院のとき以来、夜の回数が多くなりましたが、 今は、普通になっています。
 できるだけ、普通の生活がしたいと思っていますが、どうしても無理という場合もあります。(平成13年記)

   平成22月3月下旬のことでした。昼飯を食べている時、御飯のこぼしが大変多くなりました。 それでも、なんとか食事が終りました。午後からのリハビリが始まりました。その時のリハビリは、 言語指導でした。家内も先生も私の様子が何時も違うことに気づきリハビリは早く終わりにしました。 夕食は普通に終わり、風呂に入りました。風呂が終ったとき、大変がな事が起きました。家内が押す移動車がベットの前に来て、 私が立ったとき、足が動かない状態になり、ベットに上がれなくなったのです。家内が居たのでベットに上げてもらいました。
そして 家内に救急車を呼んでもらいました。
 救急車は、半田病院に着きました。そして、脳梗塞とのことで、そのまま入院となりました。そして、 半田病院の治療を受けていました。入院して二週間位し夜中に嘔吐(おうと)して、ボーとして、意識がはっきりしなくってしまいました。 そして、その後、入院中は、寝たっきり状態になりました。
 しかし、入院一ヵ月で、半田病院の退院が決まったので、家内の車は自宅へ帰ると思っていました。ところが、車は、 自分の家に行かず、田んぼの中にある大き建物の所に着きました。そこが「知多リハビリテーション病院」でした。

 転院したその日から、私の知多リハビリテーション病院での治療か始まりました。(「つぶやき」参照)