セピア色のキス
「も・・・申し訳ありませんでしたっ!」
「ひろみ・・・この私のパートナーになるからには、こんなミスをすることは許されなくってよ。」
そう言って、憧れのお蝶夫人・・・竜崎麗香は、美しい金髪をなびかせ、カーディガンを羽織ると、コートを後にした。
岡ひろみは今、全日本から選抜されたテニス界屈指の選手達とともに、来るべき海外遠征に備えて、軽井沢で合宿をしている。そこで、テニス部入部以来ずっと憧れ続けてきた「お蝶夫人」麗香とダブルスを組むことになったのだが、ここのところひろみは平凡なミスばかりをして、麗香の足を引っ張っていた。ひろみはミスをすることそのものよりも、麗香に対して申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
「はあ・・・どうしたんだろうな。あたし。」
自分でも、調子の悪さの原因はわからない。体調が悪いわけでもない。いつもなら親友の牧に問いかけて見るところだが、合宿中は叶わぬことだった。
ひろみは汗をふくと、麗香に続いてコートを出ようとした。
「岡さん・・・どうしたの。調子が悪いのね。」
そんなひろみに声を掛けたのは、先程の対戦相手であった緑川蘭子だった。
「緑川・・・さん・・・。」
ひろみのコーチである宗方仁の異母妹である蘭子。麗香に勝るとも劣らぬ「竜巻サーブ」で、今日の試合はこの蘭子に翻弄されっぱなしだった。
「いえ・・・これが、あたしの実力ですよ。お蝶夫人の足を引っ張ってばかり。」
「あなたのそんな言葉・・・仁が聞いたら何て言うかしら。」
「コーチが・・・。」
「兄は・・・仁は、あなたに全てを賭けているのよ。仁の夢を・・・あなたが、叶えてあげてほしい。」
「緑川さん・・・。」
わかっている。宗方が自分にどれだけの期待をかけて、ここまで育てあげてくれたか。自分もその期待に応えたい。そして、麗香の足手まといになりたくない。
・・・けれど、ひろみも一人の、高校生の女の子だった。
泣きたくなることもある。
それらのプレッシャーに、押しつぶされそうになることもある。
「明日も・・・練習か。当たり前だよね。その為に来てるんだから。」
ちらちらと見える観光客らしき自分と同い年くらいの女の子達を見やりながら、ひろみは溜息をついた。
「岡くん!」
「藤堂・・・さん・・・。」
ふと振り向くと、自転車に乗った藤堂・・・藤堂貴之の姿が見えた。
「練習、お疲れ様。」
「ええ、藤堂さんも・・・どちらに、行かれるんですか?」
「ちょっとこの下にある郵便局にね。岡くんも・・・一緒にどうだい?綺麗な絵葉書が売っているよ。」
「あ・・・あたしも、友達に手紙を出しに行こうと思ってたんです。」
「そうか、じゃ、早く行こう。夕飯の時間に遅刻しないようにね。」
藤堂はひろみのラケットと鞄を持ち、自転車を引いて歩いた。
本当は、ひろみを後ろに乗せて・・・しかし、この合宿では、あくまでもプレイの向上が目標であり、男女の付き合いに関しては厳しく注意がなされていた。そんな姿を見られては、ひろみが・・・。
「藤堂さん?どうしたんですか?ボーっとして・・・。」
「あ、あっいや・・・何でもないよ。」
藤堂は揺れる気持ちを隠し、優しく微笑んだ。
「大丈夫かい?」
「えっ?」
「いや、どうも元気が無さそうだからね。今日のダブルスの試合、見させてもらったけど・・・。」
「・・・皆、調子が悪いっていうんですけどね。でも、これが私の実力なのかなって思うんですけど・・・だって、どこも身体は悪くないし、御飯もちゃんと食べてるし。」
「健康状態は関係ないよ・・・誰にでも、スランプはあるさ。俺にも。」
「そっかあ・・・。」
「岡くん・・・君、好きな人はいるかい?」
唐突な質問に、ひろみは石につまずいて転びそうになってしまった。
「キャっ?!」
「大丈夫かい?」
藤堂は、ひろみの上半身を抱きとめる。
「あ・・・す、すみません・・・。」
「岡くん、さっきの質問・・・。」
その姿勢のまま、再度藤堂は聞いた。
「あう・・・そっ、そんな・・・考えたことも・・・。」
「そう、なんだ・・・。」
答えても、藤堂はひろみの身体を解放しようとしない。
「藤堂・・・さん?」
「君には多くの期待が掛かっている。でもそれは・・・君の運命かもしれない。君の持って生まれた、テニスという星の運命。」
「運命・・・。」
「けれど、こんな小さな肩に・・・俺は時々、いたたまれなくなる。」
「えっ・・・。」
背中に感じる藤堂の声が、熱を帯びたように感じた。
「そんな運命ではなく・・・この俺が、こうして君を包んであげたいって・・・。」
「藤堂さん!」
「・・・ひろみ。」
向かい合って名前を呼ばれ、ひろみは恥ずかしさにうつむいてしまった。
そんな姿がたまらなく可愛らしくて、藤堂はひろみの唇を奪ってしまいたいという衝動に駆られたが、まだ恋の意味も知らないようなこの少女を怯えさせるのが不安で、ただその手を握るだけだった。
「でも、プレイをしている君が・・・とても好きだ。とっても、美しいって・・・思う。」
「あ・・・。」
「だから・・・君をこのまま見守っていたい。宗方コーチのようにでなく・・・一人の、可愛い女の子である、岡ひろみを。」
夕陽が傾き始め、二人の姿をセピア色に染め始めた。
ひろみの中に、今までにない想いが生まれはじめていた。
まだ、ほんの小さな蕾だけれど。
二人の影だけが、口づけをかわしている。
それに気づいた藤堂は、ふっと微笑むと、自転車に乗った。
「岡くん。後ろに乗るんだ。」
「えっ、でも・・・。」
「大丈夫。遅刻しないようにするためさ。」
藤堂の広い背中に、ひろみは全てを預けてしまいたくなった。
(「このまま、どこかに行ってしまおうか。」)
声にならない言葉を、藤堂は向かい風に乗せた。
END