ここに掲載したむかしばなしは、武豊町広報に昭和49年9月から53年3月まで掲載された中の第14話を引用しています。
「むかしむかし、浦島は、助けた亀に連れられて、竜宮城へ来てみれば、絵にも描けない美しさ・・・」
今の子供たちの中には、この歌を知らん子もあろうが、わしら年寄りの者には、とても懐かしい歌じゃ。

昔は、テレビっていう、ええものもなかったし、今のように勉強勉強としごかれる事もなかったから、家の手伝いさえ済ましたら、子供たちは明るいうち、外で遊びほうけていたもんさ。
遅い夕食が済めば、寝るまでの間、じいさん、ばあさんにいろんな昔話をせがんだものさ。お伽ばなしもあったし、怖い話もあったし、もう何度も聞いたものでもあったが、子供たちは目を輝かせて、からだを乗り出して、それからどうなったのって問いかけたもんさ。
すすけた電球の下で、しわ深いじいさんばあさんが、ぽつりぽつりと話してくれる姿が、今でも目をつぶると浮かんでくる。あのころは、今のように「断絶」なんかという言葉はなかったよのう・・・。老人と孫との間に暖かい血が通っとったし、親たちもそういったものをとても大切にしていてくれたっけ。

わしは、この浦島太郎は、この東大高で生まれて、富貴に帰ったと今でも信じとるんだ。
そんなばかな、あの話は丹後の国や寝覚めの床の話しだと言わっしゃるが、ちょっと待っておくんなさい。
わしがそう信じとるのは、それなりの訳がありますのじゃ。まずわしが話しを聞いてもらいたいもんじゃ。

おまえさまは、富貴村の東大高の、知里付神社という神さんの東南に「負亀(オブカメ)」という土地がある事を知っとりなさるだろうか。この土地には、浦島屋敷と呼んでいる一画もありますのじゃ。
浦島太郎が助けた亀の背に負ぶさって、ここから出かけたから負亀というてるんで、りっぱな証拠ではござんせんか。
富貴(フキ)のことを、いろんなふうに言っとるようだが、この負亀を音で読みなさってごろうじろ。それ、フキと読めますじゃろうが。これが富貴という村の本当の意味と言えますまいか。
そればかりではござんせんよ。負亀の東には、浦島川だとか、浦ノ島という土地もありますのじゃ。この浦ノ島へは、海亀がたくさんやってきて産卵したもんだと、うちのじいさんに聞いたこともある。
この郷の氏神さんは知里付さんというて、近郷にも名高いお社じゃが、第11代垂仁天皇さまの26年菊月に建てられなさったという言い伝えじゃから、浦島太郎が故郷へ帰った天長2年よりも、ずうっと昔のお社じゃ。宮司さんに聞いた話じゃ、このお社には、浦島太郎の玉手箱が、ちゃんとしまってあるそうな。わしも覚えとるが、前のお社の棟瓦は亀の姿をしておったと思うがのう。

おまえさん、富貴の南の海岸に、四海波(シカイナミ)というとこがあるのを知っとりなさるか。
昔はこの辺は生みのきれいなとこで、富貴では終戦後も長い間、海水浴で大にぎわいしたもんだが、この四海波は、殊に景色がええところで、名古屋の金持ちの別荘が並んどったが、あすこの堤防で、じっと生みを眺めてごらんなされ。並みの形が変わっとるんで、昔の人は竜宮城の入り口だと言っとった。
わしがじいさんの話だと、あの浜辺は「うめきの浜」というて、浦島太郎が、玉手箱を開けたため、白髪になってしもうて、くやしくてうめいたところじゃということだった。
この浜から1丁くらい西には、翁塚という古い塚もあるし、浦島観音さんもまつられておる。

東大高の真楽寺というお寺さんには、ちゃんと亀のお墓が残されていますのじゃ。
昔、弘法大師さんがこちらへおいでんさったとき、ああ、ここは浦島太郎の出生地だと言われて、燕子花(カキツバタ)と松と竹を植えなさったのだが、燕子花は四季咲きになり、大正天皇さまが皇太子さんのとき、ご覧になりましたのさ。枯れてしもうたが、松は斑入り(フイリ)になり、竹は年中筍が出たそうな。
富貴の市場には「竜宮神社」という神さんがあって、富貴の浜が海水浴でにぎわったころ、ようお参りがあったものだったが・・・。

とにかく、これだけ証拠がそろとっても、浦島太郎の土地じゃないと言われますかの。


出典:「武豊のむかしばなし -武豊町合併25周年記念ー」 執筆者:近藤英道(昭和54年10月)
浦島伝説は、丹後の風土記に載っていると釈日本紀によって紹介され、後に本朝諸社一覧で物語風に書き改められ、室町時代にお伽草子に取り上げられて一般に知られるようになったものである。日本書紀・万葉集にも載せられているが、お伽草子以前は、浦島太郎が亀に連れられていったのは、竜宮ではなく、蓬莱山になっており、原型は中国にあり、京都府・横浜・岐阜県のほか、各地の海部族定住地に遺跡が残っている。現在、富貴海岸は汚濁も進み、高い堤防に隔てられている。
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