鈴鹿の思い出

あちこち引越しを繰り返す度に、大切にしていた書物やビデオなどの整理が出来なくなっていた。更におっくうになると気にも留めなくなってしまう。ある日突然、荷物の中から、"懐かしい〜!" 何てことがよくある。予期せぬ出来事だけに余計に嬉しく感じるものである。今回もそんな事で思い出にひたってしまった。

回想。。。

たしか、92年頃だった様な。僕の記憶もこの程度のアバウトだから、全然駄目である。「ラスト・ラン HONDA V12」 ある方のご厚意によりパドックに入れて頂いた。決勝ではなく木曜日の組み立ての日である。チケットもこの日の設定は無く基本的にはチームと関係者しかいない日であった。日本人の数が少なく、鈴鹿の雰囲気も何処かの外国にさえ思えた。そう言えば、あの古館氏の実況を聞けなくなって久しい。個人的には好きだったのだが。。。パドックに入って行く路上で、アイルトン・セナとすれ違った。いきなりだった。目の前の出来事が信じられず、ただ呆然としてしまった。本物の世界が鈴鹿に来ているのだ。あまりの感動に言葉を失っていた。

キュィ〜〜ン。クォ〜〜〜、フォン、フォン、フォン、フォン!!!Ferrariのピットにおじゃました。と言うより裏から何気なく入っていくと、、、そこはFerrariのピットだったのである。萎縮してはいけない。堂々と平然を装って、、、しかし、足が地についていなかった。。。目の前に組み上がったマシンがあった。ジャン・アレジの車である。と思ったら隣にアレジが立っていた。またもや呆然としてしまった。おそらく、僕の方が、ゴクミより早いタイミングで出会っていると思う。そんな事はどうでもいいのだが。。。身長も僕と同じくらいで、話し掛けると親切に答えてくれた。簡単な英語だったが心臓が破裂するほど嬉しかった。そしてとてつもなく男前であった。記念に写真など撮って頂いて終始顔が緩んでいる自分がいた。きっと、何処かのスポンサー関係に思われたのか手を差し伸ばしてくれ、握手までして頂けた。とてもフレンドリーな方であった。当時、HONDA教だった僕もその時ばかりは、彼の勝利を硬く約束してしまった。すでにこの時から「Ferrariへの道」 が始まっていたのかもしれない。

冷静になって辺りを見渡すと、いるいる。ブラウン管でしか見た事のないドライバー達。あの今宮さんもなにやらHONDAメカニックと話し込んでいた。ナイジェル・マンセルが各国のインタビュアーに囲まれていた。当然、僕も至近距離から皆に混じってハンディ・カムを回していた。が、バレタのか、ボディ・ガードの様な大男にピットの外に出る様言われてしまった。もう少しでオーナーのフランク・ウイリアムズ氏とも。。。くっそ〜。余談だが、ウイリアムズの「FW○○」と言うマシン名は、氏のイニシャルからきているらしい。

懲りずに、ベネトンのマシンを覗き込む様に見ていた。当時は黄色ベースのマシンである。おお〜これがシューマッハのマシンか〜。V8なのに凄いな〜。まだ、この頃はシューマッハも新人の部類だったが、その走りには凄まじい物を感じていた。事実、シューマッハ自身も本当に若く、やんちゃな少年の様に見えた。鈴鹿から支給されたゼッケン入りのスクーターでピット裏を走り回っていた。しかし、今ではシューマッハ様である。なんとしてもFerrariにコンストラクターズ・チャンピオンをもぎ取って欲しいものである。そして、ドライバーのタイトルも。実は、アーバイン・ファンでもあるので、是非とも二人で頑張って欲しい。

そして、またしても僕の肩を後ろから叩く輩がいる。"エクスキューズ・ミー" 振り向けば○○○○。なんとフラビオ・ブリアトーレ氏であった。マシンを移動するのでちょっとだけ退いて欲しいと言う。いきなりの登場で思わず吃驚して、またまた固まってしまった。その氏の対応が実に優しく紳士的だったのには、更に驚きであった。言葉は解らなかったが、あれで口説かれたらイチコロなのだろう。流石、ラテンな色男は素晴らしい。

やがて、夕暮れも訪れ引き上げる事に、僕にとって 夢の様な一日であった。そして鈴鹿GPも開幕した。HONDAの一時撤退と共に。ありがとう、「HONDA V12」。古い話を思い出してしまった。

時は流れ、、、ようやくHONDAがF1に復帰する話が決まった様だ。「BAR HONDA」最終的には、「TEAM HONDA」になってくれるのであろうか。早くその日が来る事を切に祈るのである。「Ferrari 対HONDA」を熱望するのは僕だけであろうか。。。

そして、F1界に多大な功績を残された、ハーベイ氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。きっと、空の上からご観覧になられていることでしょう。

鈴鹿の思い出 完


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