Ferrariのすすめ

まずは、自己紹介を含めFerrariとの出会いまでをお話しましょう。中学1年生の時、時代の流れ「スーパーカー・ブーム」に揉まれる。なぜか、池沢さとし氏の「サーキットの狼」でロータス・ヨーロッパの虜になり、すでにその車に乗りたいと密かに願うのであった。まだ、Ferrari には興味を示さなかった記憶がある。その点ではまともな神経をもった中流家庭の少年であった。親に心配をかけない良い子でもあった。買えるとは到底考えていなかったし、見てはいけない夢もある。スーパーカーなのだ。あくまでもこの時点ではだが。

あっと言う間に社会人となった。車歴もそれなりにこなしていた。今でも良い思い出はロータリーである。だが、ここ一番、年貢を納める時が到来、そう「結婚」だった。車から足を洗い真面目を装ったが、社会人になったあたりから、Ferrari に乗りたいと、とんでも無い事を思う様に何故かなっていた。一応F1も好きでFerrariを応援している。この頃になると、如何にとんでも無い事を一般の月給取りが思っているのかをよく理解していたので、人前では軽はずみに"Ferrariが欲しい" 何てことは言えなくなっていた。当然の事かもしれないが、今でも人前で口にするのは自粛している。途端に回りの空気が変わる様な感じがする。

めでたく、結婚式も終了し、ハネムーンに出発、しかし、ホテルでの夕食時、最上階から見える素晴らしい夜景に、負けないくらいの大喧嘩となり一人帰路につく寸前だった。が、大人になったものだ、なんとかきり抜けた24歳の春の出来事であった。自分でも成長したと思った。 かれこれもう10年は前の事だ。

幸運にも、その年の初夏に初のF40がコーンズの手により上陸する事となる。が、同年 エンツォ氏が永遠の眠りに、、、。心よりご冥福をお祈りいたします。なんと、その年のモンツァではベルガー、アルボレートがワンツーで表彰台に立った。また一つ伝説を創ってくれた。嬉しかった。その年より、ほぼ毎日の様に Ferrari の単語を妻の耳に囁く事となる。今思うとマインドコントロールしていたのかもしれない。「Ferrari貯金」を始めたのもこの頃である。妻は住宅用貯金と言っていたが、僕はそんなつもりではなかった。長男で跡取りだ。住む家は一応有る。うるさい親はいるがどうにかなる。そう甘く考えているのが長男の特徴らしい。しかし後になって悲惨な結果になろうとは、この時はまだ気づかなかった。そして国内では、87年秋より始まったバブル景気のおかげで Ferrari 各車は恐ろしい値段に高騰していった。まともに買える値段ではなくなっていた。そう、もう諦めるしかなかった。家の値段である。非常に残念だった。 それから一時は冷静になるのであった。

高嶺の花になってしまった Ferrari の次は、もう心は決まっていた。我ながら変わり身が良いのには感心する。あのF40の加速だけでもついて行けるのは、「スーパーセブン」しか無い。実に単純である。JPEモデルは過激すぎるし、オーバーホール期間も短かそうだ。そこでゼーテックRで軽量モデルを仕立てようと考えた。200馬力あたり出して車重を500Kg以下にする。今思うと恐怖である。殺人マシンかもしれない。はっきり言って公道でそんな車が走って良いのだろうか。しかし、本人は至って真面目だったから余計に怖く思う。だが、セブンは何時かは乗りたい車だ。 いや、乗るつもりだ。ごく普通のモデルに。

そうこうしてセブンの契約書にハンコする寸前で、"止めときなさい。貴方の好きなFerrariが遠のいてしまいますよ。ほらほら、手に届くところにあるじゃないですか、貴方の好きな丸テールが"今思うと本当に感謝している。セブン購入資金で購入出来そうな車がちらほら有ると情報をもらったのだ。嘘だろ?本当かよ!突然、目の前に現れた巨大なFerrari氷山だ。どうする避けられるだろうか。その晩から、寝不足が始まる事となる。"そんなにころころ気持ちが変わっていいのか"自問自答だ。やはり昔からの強い思いが黙っていなかった。 Ferrariが欲しい。何時かは乗りたい。今乗らないと、、、。乗るしかない。。。

ある朝"やっぱりFerrariにする" と妻に明るく告白した。勿論様子を見ながらである。しかし、妻は解っていた様だ。それも当然かもしれない。机の上はFerrariの資料だらけ、それ系の本だらけ、しかし、男らしく言わなければ。"嫁にください"と告白する新郎を待つ新婦の親の様な感じかもしれない。精一杯明るく"Ferrariにする"と言った僕とは対照的に妻の顔はなぜか一瞬悲しげだった。"私の洋服もたまには買ってね"と顔に書いてあった。心配するな、これから素晴らしいFerrari生活が待っているのだ。わははは。。。当然、Ferrari大捜索に全力疾走するのであった。

あった、あった。89年式のほとんどラストナンバーの 328GTS 日本仕様、奇麗な車だった。予定の金額を少々オーバーする。メンテとモディファイに少し取っておくつもりだったのだが、ぎりぎりになってしまう。まあ良いとしよう。男らしく、細かい事を気にするのは止めよう。なんてったってFerrariだ。しかし、悲しそうな妻の顔が何故か浮かんだ。"子供達の洋服だけは買ってあげてね" そう聞こえた様な気がした。まあ僕と一緒になった事を諦めてもらうとしよう。それも人生なり。隣には、あの猛牛ランボルギーニ・カウンタックも遊びにきていた。Ferrariも凄いと思うがランボはその域をもう少し突き抜けていると思う。実に男らしい車である。もっともスーパーカーを思わせる車だ。

少年の頃の憧れだった、丸テールとシフト・ゲート、あのF1メーカーの工場で産声を上げた。。。それだけでも決まりだ。一応一通り車の状態をチェックする。内装もバリ物でエンジンもスムーズ、もし悪い所が出てきても自分で直せば良い。オーナー氏も同年齢くらいで、国産はHONDAを愛用している所も一緒だった。余談だが、投資で痛い思いをした経験も同じだった。更に余談だが、その話題で盛り上がり過ぎて激論になる所だった。まずい、嫌われるといけないので、程々に今日のところは僕が引き下がっておこう。そして、その場の口約束だったが、僕が引き取る事なりその場を去った。何故かそのオーナー氏は手放すのがなごりおしいそうな感じだった。大切にするという約束も当然した。"まってろよ、328直ぐ迎えにくるからな"舞い上がっての帰宅途中、親しい友人にその日の事を携帯から喋りまくっていたらしい。そして、1997年のクリスマスの晩、めでたく納車となるのである。

「ローマは一日してならず」の言葉の様に、Ferrariもそう簡単に手に入れられる物ではないかもしれません。やはり僕の思いも相当長い物がありました。軽はずみにどうぞと言える車ではないし、ここでは苦労めいた事は省略して書きませんでしたが、それなりに困難もありました。他のオーナーも同じだと思います。しかし、それ以上に喜び多い車です。どうしてもと思うなら、さあ、暴挙に出ましょう。後は、貴方次第です。

Ferrariのすすめ  完

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