シリーズ 学校100年・ふるさと100年

B<古場校、苅屋校の合併と分離>

 明治6年に古場校は安養寺、苅屋校は安楽寺を仮校舎として開校した両校はそ

の後合併の方向に話が進んでいきました。明治19年1月8日、両校は合併し、

「中橋学校」という名前の学校になりました。苅屋村に住む人の家を新校舎にし、

3学級で始まりました。今まで、古場校、苅屋校にそれぞれ所属していた古場、

熊野、檜原、苅屋の四ヶ村の子ども達が通いました。
 
 学校管理者として、大河内釟三郎氏を始め、福富謙三氏、西山泰雲氏が中橋学

校校長となりました。西山氏は熱田白鳥山の僧でした。愛知郡(今の日進市)で

始め就職し、その後中橋学校にやってきました。中橋学校としてスタートしまし

ましたが、明治20年に名称を古場学校と改めました。校舎はそのまま苅屋の民

家から移動しませんでした。校長も西山氏が引き続き務めました。

 せっかく合併した学校でしたが、明治23年に、町村自治制が布かれたため、

明治24年5月に再び分離することになってしまいました。古場校においては従

来通り古場、熊野、檜原の3村を学区として安養寺に戻りました。苅屋校は中橋

学校の教室をそのまま使用しました。


      

「中橋学校」の校名が書かれた明治13年発行の教科書



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