南陵中の歴史 
 
南陵中学校の誕生
 現在の学校制度が発足した昭和22年当時の中学校は、小学校の校舎を間借りしたり、木造校舎を急造したりした小規模な学校が多かった。小鈴谷中学校も西浦中学校も小さかったが、特に西浦中学校は軍隊の兵舎を移築したもので、中廊下の変わった老朽校舎でもあった。運動場も狭く、野球の一塁とソフトボールの三塁、それにテニスコートのポールが5mぐらいしか離れていなかった。部活動の時は、雨戸をしめてガラスの破損を防いだ。
 そのうち市内の北部では昭和33年に三和中学校と大野中学校が合併して青海中学校になり、続いて南部では昭和38年に小鈴谷中学校と西浦中学校が合併して南陵中学校になったのである。
 
 
校名と校舎建設場所
 どこで、どういう話し合いで決定したのか、詳しいことは覚えていないが、「南=常滑市の南部に位置する」「陵=大きな丘(丘陵)」、この二つの漢字の組み合わせで校名が決定した。
 建設場所は西浦中学校と小鈴谷中学校の校区が接している、苅屋と小鈴谷の中間辺りとなったようだ。山を削って谷間を埋めていく感じで造成されていった。
 
 
校章と校門のデザイン
 校門の形を気をつけて見たことがあるだろうか。気がついた人もあるかと思うが、校章と同じデザインである。その校章は美術の部員と顧問で話し合って作成された。
 元になっているのは次のような発想であった。先ず地図の山頂の記号は▲だから、上部を削った台形を南陵の陵(おか)と考えよう。それを二つの学校が合併したのだから、二つくっつけた形を基本にする。鼓(つづみ)のように2校が一つになって張りつめたとき、きっとよい音色を出すだろう。「中」と組み合わせると全体に角張っているので、「南陵」という文字に丸味をつけて温かみを出す、ということにまとまった。
 
 
南陵の歴史を眺めるクヌギの木
 ブルドーザーが動き回り、校地の造成が進むに従って、山が削られ田畑やため池が消えていくのは、緑を赤土に色に塗り替えていく絵のように、かなりの早さで進んでいった。
 その殺風景な赤土が2段に広がった時、上の段に大きな木が自然の姿のままで1本だけ残された。やや異様に感じられる堂々とした姿だった。卒業生全員がその気のまわりに集まって記念撮影をした。6クラス303人だった。
 現在のクヌギの木は、海の色を塗り替えつつある空港建設を、どんな気持ちで眺めているのだろうか。
 
 
カイズカイブキのイメージチェンジ
 カイズカイブキが丸くきれいに刈り込まれたことに、少し驚いた。
 この木は、赤土の丘であった南陵中学校のスタートに、卒業記念作業として植えられたものである。3年生男子が数人ずつ分かれて、自分たちが出られなくなる限界までの深さの穴を掘り、教師はトラックを借りて稲わらを運び、元肥えとして入れた上に植えられた、約30本のイメージチェンジであった。昭和40年度のアルバムを開いて見ると、なんと北館とクヌギとカイズカイブキしか写っていないのに、また驚く。
 
 
始まった南陵中学校としての生活
 昭和38年4月、南陵中学校が創立されたが、校舎はまだ完成せず、名前だけのスタートとなった。旧校舎(小鈴谷中学校・西浦中学校の両校)を小鈴谷教場・西浦教場と呼んでいた。校長・教頭先生等は毎日のように両教場を連絡に走って仕事をしてみえた。車も少ない時代に、「長い廊下だなあ」とこぼしてみえたことを思い出す。
 南陵中学校として、実際に現在の地で授業が行われたのは、昭和39年の2学期からだった。両教場の生徒や先生が初めて顔を合わせたのは、1年半過ぎた9月だった。一挙に大きな学校になったので、2学期(9月)に学級編成して3月に卒業する3年生だけで303人6学級になった。
 1学級50人から51人のすしづめである。
 北校舎だけで、特別教室もない状態だった。現在のみなさんには考えられない学校生活が始まったのである。
 
 
開校したけれど……部活動の様子
 北校舎しか建っていない開校で大変だったのは部活動であった。特にコートのないテニス部は、現在の南校舎の辺りに自分たちで適当にラインを引いて始めた。それが、校舎建設で追われて、現在の体育倉庫の辺りに変更になり、毎日石拾いや整地に明け暮れた。それも2面やっとで、2校舎が合併して大世帯になった部員をとてもまかないきれなかった。
 それでも旧西浦中学校は男女でコートが1面しかなかったので、男女別に練習できることで、かなり張り切って活動していた。
 現在の恵まれた南陵中学校とは、とても比較できない状態だった。
 
 
開校当時の部活動
 開校当時の部活動全体の様子を振り返ってみると、アルバムにはクラブ活動(文化4、運動8)と記録されている。
 体育館もなく、校舎は北校舎だけ。運動場は毎日のように石拾いという学校生活の中で、大変な苦労をしながら活動をしていた。それは、課外活動希望者の活動が主だったからやっていけたのだと思う。
 しかし、ほとんどの生徒が生き生き、のびのびとやっていた。「先輩」という呼び方もなく、名前を呼び合い、全学年が仲良くやっていた。驚くことは、文化・運動の両方に入っていた生徒も少しいたのである。私(顧問)もそうであったが……。
 
 
あわただしい開校
 南陵中学校の開校は昭和38年4月だが、新校舎(北館だけ)が完成して移転したのは、昭和39年9月13日だった。生徒・PTA・職員の大作業で、すぐ15日に開校式を行い、授業を始めた。
 そして、10月10日は東京オリンピックの開会式、日本中が沸き上がった。
 なんとか生徒にテレビをみせてやりたいと思った教師は、学校に1台しかなかったテレビを北校舎裏に運び、体育の授業として観戦していた。そして、あの有名な女子バレーの優勝の瞬間は、修学旅行の帰りのバスの中で、雑音が多いポータブルラジオで必死に聞いていた。
 
 
印象鮮やかな校歌誕生
 「丘の上の白い校舎、丘の上から……」
 このころ地域の仕事の都合で話す機会があった、30歳くらいの女性事務員が、「ユニークでいい校歌なので、3番まで歌えますよ。」と、南陵中学校の卒業生であることが偶然分かった。
 その校歌は、昭和41年3月に制定された。作詞はよく知られている地元出身の詩人谷川俊太郎氏、作曲は湯浅譲二氏である。湯浅氏は、優れているオーケストラ作品に授与される「尾高賞」を本年4回目の受賞をされた著名な方だ(1回目受賞は南陵中校歌作曲後6年目)。
 前衛作曲家が43歳の時の作品なので、日本中でも大変新しい校歌だと思われる。最初に歌った南陵中学校の生徒の様子は、初めは……であったが、すぐに親しみやすく歌うようになった。私も10以上の校歌に接したが、忘れられない校歌である。
 
 
開校当時の夏休み
 開校当時(昭和40年)の夏休みの最大の行事は、2年生のキャンプと、部活動の集大成の郡大会だった。当時は夏休みも土・日曜も制限なく活動していたので、十分準備したという感じもあったが、中には正月3日盆3日しか休まない部もあり、大変だった。時間的にも長く練習したので、全員真っ黒に日焼けしている部が多く、夏休みの後半に試合のあった部もあり、練習一辺倒の夏休みだった。
 それでもなかなか郡で優勝するのは大変なことで、昭和44年に卓球男子・バスケット女子、昭和46年にソフトテニス女子という記録があるようだ。
 キャンプは板取(岐阜県)のバンガロー村を利用していた。何でも自分たちでやろうという質素なものだった。若くてヒマな教師は毎年参加していたように思う。
 
 
若い元気な教師集団
 小鈴谷中学校と西浦中学校が合併して、両校の教職員が一緒になった時、お互いにどんな感じなのかな?と、少し気にしていた。
 開校当初数年は、教職員数19〜25名位だったが、女性教員は2名という年もあった。しかし、若い独身教職員が多く、毎年10名以上で、昭和43年は教職員の半分が独身(26名中13名)で、若く元気な教師集団であった。未熟なことはあったかもしれないが、活気ある部活動の原動力となり、ひまな時は他の部活動へ出かけて協力し、生徒との関係の大変なごやかであった。独身集団はチョンガー会と称し、食事会を楽しんだり日帰り旅行をしたりしたことがあった。
 年末には栂池でスキー合宿を1週間行い、上級者が初心者を指導していたのが懐かしい思い出である。
 
 
南陵中学校の記録写真
 開校のための整地を行っていた頃から、写真による記録を何となく任されていた。基礎工事が始まった時に撮影していると、現場監督から「事務所へ挨拶くらいしろ!」と叱られた苦い思い出や失敗も多い。
 土俵が校舎の東側に作られた時は、校内相撲大会が行われた。少し凝ったつもりで3階屋上の端から腹這いになってこわごわ撮影したが、フィルムの巻き戻し(当時は手動)に失敗し、全部がパーになったこともあった。
 年間4000枚くらいというかなり大量の写真を趣味の延長で撮影した。卒業アルバムの第1号は編集も装丁もほとんど1人でやった。写真屋に催促されながら、写真の切り貼りなどを宿直で夜通しやっていた。最初のアルバムが(昭和39年度)まあまあの形でできあがった時はほっとした。
 
 
毎年続いた工事と運動場の卒業式
 南陵中学校は開校が昭和38年4月だった。北館が完成したのが昭和39年7月、技術室が昭和40年8月、南館が昭和41年3月に完成した。
 昭和43年3月まで、南陵中学校に勤めている間は、工事ばかりで落ち着かなかった。体育館は昭和43年7月に着工、10月に完成したようだが、3か月あまりで建てられた体育館なので、あまりよい建物とはいえないかもしれない。しかし、当時は夢の実現であったと思う。
 昭和42年3月15日の卒業式は、運動場で挙行されたという記録があるが、その時は特に北風が強く、冷たかったので大変であった。
 寒さを我慢していて、式の内容はあまり印象に残っていない。3年生を担任していたはずなのに……と思うと、忘れるほど昔のことなのだろうか?それとも、天候が急変したからなのだろうか。
 
 
 
南陵中学校に名物先生はいたか?
 開校当時に印象に残っている先生をあげると、大谷出身の岩田善明先生だろう。
 名前はヨシアキと呼ぶのだが、「ゼンメイさ」と親しみを込めて呼ぶ人が多かった。自分から、「ゼンメは煮ても焼いても食えない」などと言って、ワンパク時代のいたずらを話し、目を細めた笑顔でふざけてみせ、生徒との間が最も近い先生であった。授業では、当然だが、バスケット(女子)部の指導で熱心(昭和42年に郡で優勝)であり、厳しさの中にも大変ユーモアにあふれた楽しい先生であった。
 トヨタの会長になられた石田退三氏の親戚筋にあたる縁で、南陵中学校が社会見学でトヨタ自動車へ行った時は、クラスごとの記念写真に石田氏自ら気楽に入ってくださった。現在では考えられないことだろう。小鈴谷北小から通算9年間担任をしてもらった生徒もいて、エピソードは数多い。
 昭和44年の新学期になって間もなく、みんなに惜しまれながら33歳の若さで他界されたことは、大変残念なことであった。
 
 
まだ続いている南陵中テニスクラブOB会
 開校から49年を過ぎたというのに、1月2日には南陵中テニスクラブのOB会定例新年会であった。南陵中学校設立当時は、小鈴谷教場はコートが2面あったが、西浦教場には1面しかなかった。裏山の道路で素振り、お寺の階段を走る……など、涙ぐましい努力をしていた。
 開校当時の部員は90人を越す大所帯で、合併してもテニスコートのない学校で苦しい時期を過ごした。そのせいか、みんな仲が良く、OB会がまだ続いている。
 OB会を始めた最初のうちは、正月に初打ちを朝から行い、お盆の頃には大会を開いてトロフィーの争奪戦をやっていた。夜の懇親会、忘年会や新年会もあった。現在のコートでゲームをするうちに、教師チームは前後衛の合計年齢が100歳を超えるようになり、現在では新年会しかやっていない。部員同士で結婚したカップルもあるし、子ども・奥さんや旦那さんも連れてくるようになって、楽しくにぎやかな会はまだ続くことだろう。
 
 
卒業記念の碑
 学年末になると卒業記念の作業や記念品を残すことが話題になる。南陵中学校開校当時の作業は、カイズカイブキの植樹があるが、他に気づくものは少ないかもしれない。何しろ建設途中で、なかなか固定するものは作りにくい時期であった。
 わかりやすいのは、中庭の石庭で、昭和42年2月27日にPTAの寄贈という形で完成した。 碑には、「昭和41年度早川昭博他237名」と刻まれている。早川君は市内陸上競技大会では、1年生の時から100m走の選手であったが、3年の夏に苅屋港で遊泳中に事故で亡くなった。何とか卒業させてやりたかったみんなの気持ちから刻まれたものだが、少し目立たない場所でやや淋しい気もする。これも、中庭がどんな形になるか、進行形であったのでやむを得ないことであった。
 
 
南陵生活を知らない卒業生
 南陵中1回生は、昭和36年、西浦中学校か小鈴谷中学校に入学した。3年生で校名が南陵中学校になった人々である。新校舎はまだまだ先のこと。1.2年生を過ごした木造校舎で卒業した。
 南陵中卒業とは名ばかりで、実質は西中・鈴中卒業の意識が強い。同級生も先生方も、それぞれ分教場のことしか知らない。社会に出て、何かの折に、「お前も南陵中1回生なのか」と初めて知ることも多い。
 それでも一つだけ南陵中生の証しがある。分教場別に行動した修学旅行のひととき、日光中禅寺湖畔で撮った1回生全員の集合写真である。豆粒ほどの顔、顔、顔……。その真ん中に宮地校長の丸い顔がある。南陵中学校が一つになった。
 
 
試練の学級編成   
 南陵中学校の新校舎は、昭和39年夏に北館だけが完成した。早速9月13日に小鈴谷・西浦の両教場から机や腰掛けを運び、新しい生活が始まった。
 3年生(第2回生)は、入学して4度目の学級編成となり、卒業まで6か月しかなかった。教室が足りず、50名を超すクラスもあった。学級の仲間も授業の先生も半分は未知の状態で、転校生みたいな緊張感があった。
 学級づくり〜修学旅行〜進路選択〜卒業へと慌ただしく時が過ぎていった。中学生活で一番思い出深い部活動も、教場ごとで別々に終了しており、卒業アルバムの写真だけ一緒に撮影するのは、しっくりしない感じがした。
 学級担任としては、クラスの生徒を十分把握できずに卒業させてしまった無念さが今も残る。しかし、教え子たちは、たくさんの仲間や教師に出会ったことや学校づくりの様々な勤労作業を体験したことを面白かったと言う。たくましい生徒たちであった。
 
 
オリンピックと南陵中学校    
 アテネ五輪は日本の大健闘もあって、大いに熱が入った。
 40年前の東京五輪を思い出す。東京五輪と南陵中学校について書いてみる。
 ・東京五輪は、南陵中学校が加茂の丘にスタートした翌月の10月10日に開会した。裸足の王者アべべのマラソン当日は、南陵中学校の修学旅行の日でもあった。都内の交通規制を受け、見学地は制限された。
 ・翌年、記録性か芸術性かで話題となった映像「東京オリンピック」を校内で鑑賞した。臨場感溢れる映像や瞬間に見せる選手の表情など、TVとは違った面白さがあった。
 ・この映画の若手シナリオライターに谷川俊太郎氏がいた。2代目校長佐野年治氏から校歌作成を依頼された谷川氏は、同じ仲間の若手作曲家湯浅譲二氏の協力を得て、南陵中校歌を創り上げた。分かり易い詞と斬新なメロディーで、古里の景色や中学生の生き方を歌い上げている。新進気鋭の詩人と作曲家が、新設校の若人に熱い想いを込めて創ってくださった歌である。歌詞を味わいながら大切に歌ってほしい。
              
 
まずは交通安全
 新南陵中の教育は、加茂の丘に移って半年後の昭和40年4月から、本格的に始まった。当面の課題は、交通安全だった。校区が南北にのび、自転車通学生が60%を超えたからである。ヘルメットの着用、手信号合図、自転車の安全な乗り方など、登下校の安全を身に付けさせることが、中学生活の基本となった。
 当時の道路は、昔からの海岸沿いのものだけで、混雑する車に細心の注意を払いながら登下校しなければならなかった。
 「南陵中学校の自転車通学は素晴らしい、どうやればそうなるのか。」という声が聞こえてきた。毎日身に危険を感じながら、狭い路側帯を1列で走らなければならない厳しい状況と、初めて自転車通学となった生徒たちの真新しい気持ちでの取り組みがあったからだろう。
 その後、授業にも交通安全の学習が採り入れられた。その成果は、昭和45年度の交通安全推進校の発表として市内に紹介された。
 南陵中学校の交通安全の精神は、今も受け継がれていると思う。     
 
 
テニス部=土木工事部    
 当初は北館1棟の学校生活で、運動場の整地は、体育時間の生徒作業だけでなされた。
 どこのクラブも、活動場所を工夫しなければならなかった。テニス部も体力づくりは裏山や寺の階段で、素振りは校地の空き地でと何とかなったが、ボールを打つためには、どうしてもコートが必要であった。
 これよりテニス部は、数年間コート造りに明け暮れて、土木工事部のようになった。
 初めのコートは、北館前に1面を開いた。しかし、翌年の南館建設でつぶされ、次は今の体育館北にコートを開いた。石ころと冬の強風で、とても使える状態ではなかった。そこで、整地の進んだ運動場の隅(東階段下)に、ややまともなコートを開いた。少しでも水はけをよくしようと、土を掘り、石炭殻をもらってきて入れた。このコートも後になって、山からの湧き水で十分に使えなかった。
 こんな状態のテニス部であったが、尾東大会や県大会には、男女とも出場したから不思議である。
 現在の立派なコートからは、想像もできない時代であった。        
 
 
LL教室(Language Laboratory)
 環境が整備されて、教育活動が軌道に乗った昭和42年、南陵中学校は英語教育の研究校に指定された。新しい英語教育では、読み書き中心でなく、音声の言語訓練や言語活動を重視して、コミュニケーション能力を育てることが求められていた。
 この研究に取り組むにあたり、佐野校長は、簡易LL装置の導入を決意された。マスターテープから生徒のイヤホンに流れる外国人の英語は、とても聞きやすかった。まるで自分にだけ話しかけられているような感じがした。
 LL教室は、掲示物や英語の歌などで、英語の雰囲気に満ちた学習の場となった。
 「南陵中出身者の発音はよい」という高校の先生の声を耳にした。
 昭和43年には研究発表会を開催し、知多の英語教育の発展に寄与した。
 その後、経済大国となった我が国は、英語を話す外国人を採用するようになり(ALT)、言語訓練機に過ぎないLL装置は、姿を消していった。
 
 
大阪万博見学
 昭和45年、大阪で万博EXPO70が開催された。我が国にとって、東京五輪に続く大イベントであり、国民は大いに沸き上がった。
 南陵中学校の先生方も、中学生にこの万博をぜひ見せたいと熱く思った。PTAの協力もあって佐野校長の「万般の配慮で臨んでください。」という英断で、夏休み明けに行った。
  全校でバス13台。会場は班別行動。班一つの時計(父母から借りて)。見学時間は4時間。 大人気のアメリカ館やソ連館は、2、3時間の行列なので、待ちの少ないパビリオンを数か所回った班が多かった。しかし、外国人に接するのを目標に会場を回った班、科学技術の最先端である宇宙への夢を求めて、長い行列も苦にせず、「月の石」を見てきた班など、行動は様々であった。
 何万人もの見学者の中で、生徒は集合場所に決められた時刻にピタリと集結した。
 35年前の田舎の中学生にとっては大冒険であった。しかし、それを見事に成し遂げた行動力に、教師も生徒も誇りを感じた。       
 
 
忘れ得ぬ言葉(昭和40〜45年)
 ・品のある中学生であれ。(校長の願い)
 ・みなさんの心の中の広い広い真っ白なカンバスに、その時その時の色を付け、中学生というすてきな絵を描きましょう。(初担任となった女教師)
 ・このクラスは自由がありすぎて、本当の自由がないんじゃないか。(頭脳明晰な男子)
 ・僕たちの学年は部員が多いけど、最後までみんな仲間として活動していきたいので、選手中心の練習ばかりにならないようにしたい。(初めてクラブ文集を作り上げた学年)
 ・運動の苦手な自分が、運動クラブに入って、自分なりに何とかしようと努力した結果、人並みにできるようになり、何事もやればできるという自信がついた。(あるキャプテン)
 ・体育館やプールなどを造っていただけるのは大変嬉しいけれど、兄がますます競艇に夢中になると困ります。(来賓の市長が挨拶の中で、「競艇事業で儲かれば、学校はどんどんよくなっていきます」と話されたことへの女生徒の感想−若あゆ日記から−)
 
 
南陵中学校の景色   
 南陵中学校前の交差点は、かつては西浦町と小鈴谷町のムラ境の峠であった。人家もなく、夜は真っ暗で、とても寂しい所であった。
 そこを切り拓いてできた学校は、海と山に囲まれて自然が豊かであった。特に自然の芽吹く春先は、学年の終わりということもあって、こころ浮き浮きよく野山に出かけた。「春を見つけて俳句をつくる」という課題のもと、大谷の高砂山までの散策を楽しんだ。山上から眺める伊勢の海は雄大であった。みんなの作品は教室に掲示され、授業に来られた先生方があれこれ批評してくださった。
 今では、この野山も道路や宅地に変わり、自然の景色は消えてしまった。それに代って、海上にはセントレアが浮かび、空には国際線の飛行機が舞う景色である。南陵中学校の校歌にぴったりの新しい景色だ。
 昔も今も変わらない景色は、海の向こうに早春の陽を受けて白く輝く鈴鹿の連山ではないだろうか。
 
 
 
 

 掲載した「南陵中の歴史」は、高橋昭彦先生・赤塚充男先生が、南陵中学校が開校した当時のエピソードを中心にまとめたものを、平成14年度から3年間にわたって「南陵中だより」に寄稿してくださったものです。