時折宿の外に立つ木が風によってざわめく音や、草葉の影に潜む虫たちの声ばかりが耳につく夜。こういう夜は昔を思い出し、眠れないことがあった。
 マナの枯渇しつつあるエレンピオスで育った自分は、夜寝静まった世界がこんなにも様々な音に満ちているなんて知らなかった。風に鳴る木々の枝葉も、その根元に生える草花も、そしてそこを住処にする虫も、エレンピオスではとうに失われたものだ。
 しかしこのリーゼ・マクシアでは当然のようにそこにある。けれどもエレンピオスからやってきた子供はそれに慣れるまで、眠れぬ夜を過ごした。
(最終的には騒音よりも眠気が勝って寝ちまうんだが…)
 それが今ではどうだ。
 その騒音の最中の森の中でだって野宿ができる神経の太さに立派に(?)育った。傭兵なんてしていれば、どんな状況下でも、無理矢理体を休める為にも眠らなければならない。所詮は馴れだ。
 しかし時折―――急に昔を思い出したかのように、風が、揺れる草葉が、鳴く虫が、気になって眠れなくなる。ベッドに潜り込んでいればその内眠くなるかと考えたが、一向に眠気は訪れない。アルコールでも摂取すれば寝付けるかとも考えたが、手持ちは切らしているし、今日は酒場 もない小さな村の宿屋兼食い物屋での宿泊だ。調達する手段もない。
(あー、くそ。寝れないって思うと腹が立ってきたな…)
 もちろん腹が立ったからと言って眠くなる筈もなく、のそりと上体を起こす。せめて口でも湿らすかと水瓶に手を伸ばせば、ふと、隣のベッドが視界に入った。
 見えるのは、こちらに背中を向けてゆっくりと上下する肩と、馴れてきた目にも闇に溶けずに映る黒髪だ。
「……田舎育ちじゃ関係ないってか?」
 聞こえる穏やかな寝息に、最早嫉妬すら感じる。アルヴィンは水瓶を煽ると、それを静かに元の場所に戻しベッドからそろりと起き上がった。
 他に店屋もないくらいの田舎であるから、自分たち以外の宿泊客もいない。部屋は使わないと痛むという理由から、有り難いことに二人部屋だ。だから誰もアルヴィンの行動を咎める者はいない。
「………」
 途中ぎしりと鳴った床板にぎくりとしながら、それでも隣のベッドに近付くことは止めない。
 ―――よく眠っている。規則正しく上下する肩に、微かな呼吸の音。覗き込めばフラットな眉に、よく眠っていることを知る。それ以上の動きはない。
 しかし―――生きて、息をしている。ここに存在している。
 自分が引き金を引けなかったから。
「お前を殺そうとした奴と同じ部屋で、よくもまあぐっすり眠れるもんだ」
「……ん」
「おっと」
 何かに反応したのか、小さく呻くとごろりとジュードがこちらに体を向けた。思わず息を詰めてしまうが、単なる寝がえりだったようだ。そのまま目覚めることはなく、
「んん……」
 とまた呻いたまま静かになる。聞こえてくるのは風や、揺れる草葉、そして鳴く虫の声と穏やかな寝息。
「アルヴィン…」
「お?」
 いきなりだ。夢うつつの最中に名前を呼ばれた。
 一体何の夢を見ているのか(そもそも夢を見るくらい安眠なのが、眠れない今は腹立たしいが)、覗き込んだ顔は随分としあわせそうで。
「―――アルヴィンってばツインテール似合わなさすぎ…え、天使の羽まで付けるの? やめときなよ、通報されたら弁解できないよぅ…」
「………」
 本当に一体どんな夢を見ているんだ。色々個人的に問い質したい内容だが、せっかく幸せそうに眠っているのを起こすのは忍びない。しかしこちらも眠れずに困っている。
 ―――なのでここは一つ。
「ほいほい、お邪魔するぞ」
 旅慣れていないジュードは疲れている時や宿屋に泊った時、余程目を覚まさないのを知っているので出来る芸当だ。後は、アルヴィンの隠れた才能と言うべきか。
 毛布をめくり、空いた隙間に体を滑り込ませる。アルヴィン程の体躯がそんなことをすれば安宿のベッドはぎしりと悲鳴を上げるが、そんなこと程度じゃあジュードは目を覚まさない。その危機感の無さに逆に心配になるが、こちらを信頼しているからこその無防備だろう。
(ああ、あったけーな)
 人肌の温もりが安眠を誘うのだと気付いたのは誰のおかげだったか。
 目を覚ましたジュードが混乱して大慌てするのが目に見えてわかるが、それも明日の朝の出来事だ。今は目の前の安眠が重要だ。明日の出立に影響が出てはいけない。その為に必要な措置だったと言えば、きっとジュードは訝しみながらも納得してくれるだろう。
 そうやっていつも自分に甘い。殺そうとした自分を前に、こうして羨ましい程の安眠っぷりを見せてくれる程に。
「…っ、と」
 うまい具合に懐にジュードを抱き入れれば、腕の中にすっぽりと収まった。子供特有の高めな体温は、安眠の為のカイロにちょうどいい。顎の下にジュードの頭が収まるような体勢をとれば、開いた襟首に吐息がかかる。
 規則正しいそれに、自分が引き金を引けなかったから確かにここに彼がいるという証を感じながら。
「おやすみジュード、また明日」


鬱ヴィンというか自虐ヴィンというか。

[2011年 11月 3日]