「ねえ、ちょっといつまで洗面台を占拠してるの」
「もーちょっと」
「もう。僕も顔洗いたいのに」
 宿の朝、わりとよくある光景だった。
 早起きのローエンは既に身支度を済ませて先に食堂へ行ってしまっており、残されているのは自分とアルヴィンだけだ。二人ともそれほど寝汚いわけではなく、起きるのは大抵同じ時間帯。後は、そう、タイミングだ。
 寝る前に読んでいた本をうっかり片付け忘れてしまい、出遅れると『こう』なる。宿の部屋についている洗面台は一つだけ。いや、洗面台が部屋毎についていること自体が珍しいのだが、その一つを先にアルヴィンに使われてしまうとなかなか自分の番まで回ってこないのだ。
 理由は単純。
「顔洗ったなら退いてよ。もう十分でしょ?」
「ばーか、大人のイイ男ってのはな、朝一番の身嗜みが大切なんだよ。青少年はもうちょっと待ってろって」
 ということだ。
 けれども鏡に映って見えるアルヴィンは、既に『完成形』のようにしかジュードには見えない。傭兵という仕事の割には綺麗に整えた身なりにこだわるアルヴィンは、白いシャツに大切にしているブランド物のスカーフを首に巻き、襟足までの髪を整髪料で後ろへと撫でつけている。
 歯を磨いて、顔を洗い、その石鹸の泡で夜の内に伸びた髭を剃り、そして金属の櫛で丁寧に髪を撫でつける…で終わる筈が、いつまでたっても終わらない。特に髪型とスカーフの歪みにはこだわりがあるようで、左右に角度を変えては眺める時間にはっきりげんなりとするジュードである。
「いつまでやってんのさ。僕にはいつものアルヴィンにしか見えないよ」
「甘いな。いいか、ジュード。いい男ってのはな、毎日同じレベルを保つことに満足してちゃ駄目なんだぜ。日々、己に磨きをかけて精進していくのが真のイイ男ってヤツだ」
「………」
「ていうか、お前の年齢の男子ならそろそろ色気付いてきてもいい頃なんだがな」
「僕はそういうのは…」
 医者を目指す者として身なりの清潔感には気を使ってはいるものの、毎朝鏡を何十分も覗き込んでいるような洒落っ気はない。むしろそれによってまだ顔も洗えていない自分がいる訳であり、日々心がけている清潔にすら影響が出始めているような気がする。
 ここはル・ロンドの自宅ではないし、イル・ファンの医学校の宿舎でもない…ただの度の途中に立ち寄った街の宿屋だ。支度を済ませ、朝食をとり、出発しなければならない。そしてその為の時間は限られているのである。
 しかし、
「まあお前はいかにもおカタい優等生ってカンジだからな」
「む」
 そうやって事あるごとにアルヴィンに言われる『優等生』とは、あまりいい意味で使われていない気がすることをジュードは知っている。馬鹿にされているわけではないだろうが、からかわれているのは確かで―――…。
(て言うか、ここじゃなくたって共同の水場があって……)
「よし、んじゃちょっと今日はいっちょイメージチェンジしてみっか?」
「え? わ、べ、別に僕は…っ」
 そっちに行けばいいじゃないかと思った途端、その手に捕まった。くるりと視界が回り、気が付けば鏡の前には自分が、そしてその背後に櫛と整髪料を手にしたアルヴィンがにたりと笑うのが映っている。
「ちょ、ちょっと待ってアルヴィン! 僕は別にそういうのはいいって!」
「何事も経験が大切だぞ。いつもそうやって優等生ぶってないで、たまには羽目を外してみたまえ♪」
 というか、まだ顔も洗っていないのだ。せめて先に顔を洗わせろと思うのだが、前を洗面台と背後をアルヴィンにぴったりと挟まれ、ジュードには逃げ場がない。
 しかもそこを更に、
「どーら、優等生にはどういうのが似合うかな〜」
(あ)
 背後からのしかかるように洗面台に体を押しつけられ、ぐいっと手櫛で前髪を後ろへと梳かれる。正直重い。背丈は頭一つ分は裕に差があるし、傭兵という職業柄か、一介の学生でしかない自分よりもずっと体は鍛えていて大柄だ。
 体全部を使ってすっぽり包まれてしまうとますます逃げ場はなくなって、まるで狭い空間に閉じ込められたような錯覚すら覚える。そんな時にぐるぐると考えてしまうのはここからの脱出方法ではなくて、
(背中が重い、熱い―――いい匂い)
 今、自分がいる空間の状況分析ばかりが頭に浮かぶ。それはつまり、後ろのそれのことである。
 アルヴィンが男の身嗜みという奴の一環で、香水を嗜んでいるのも知っている。きっと朝起きて付けたてだからに違いない。密着することで包まれる、甘く、酔いそうな濃厚な香りに頭の芯がくらくらする。そして手櫛で髪を梳かれるのが何だかぞくぞくと心地がいいような気がするのは、触れられることで血行が促進され、頭皮の凝りが解されるからに違いない。頬が熱いのもきっとその所為だ。
 ただし異様に心拍数が上がる理由だけは、どうにも自分が持てる知識をもってしても説明できなかったが……。
「いっつも前髪下ろしてるから俺とお揃いでオールバックもいいんじゃないか? あ、確か荷物の中にヘアピンがあったな。横をちょちょっと止めるだけでも大分印象が変わるぞ」
「ちょ、アルヴィン! 僕の頭で遊ばないでよ!」
 やっぱり好意じゃなくて、遊びたいだけじゃないか。いい加減力づくでも逃げようと身をよじれば、しかしあっさりと腰を抱かれて阻まれてしまう。近かった体温が余計に近くなって、思わずぎくりと体を固くしてしまった。
 するとその反応をどうとったのかわからないが、鏡の中のアルヴィンが目を細めて笑った。
「ははっ、そんなに心配すんなって。俺がいい男にしてやるよ―――ああ、でも」
「?」
 ふと正面に映る鏡の中で目が合う。そこに映っていたのは唇の端を持ち上げて見せる、彼特異の意地悪げな笑い顔。
「まあジュード君が俺みたいな男前になるには、まだまだ十年早いけどな?」
 しかしそれでも確かに男前なのだと、悔しいがそう思わざるを得なかった。


初アルジュ。手探り手探り…もう一周くらいしないとキャラが掴み切れない…。あ、時間軸は適当で。

[2011年 9月 16日]