「え、出掛けた?」
「うむ。ちょうど入れ違いだったな」
ここ最近手こずっていたラントにおける輝石の本年度予定産出量の試算が終わり、その報告書を持ってバロニアの王城を訪れたアスベルだったが、公務室で出迎えたのはリチャードではなく、すっかり補佐役の板についたデール公であった。
「二日前に視察でウォールブリッジに出向かれておる。一応今夜遅くにはお帰りになられるご予定にはなっているが」
「そうですか…」
(まあ、約束をしていた訳ではないしな…)
そもそも今回の報告書提出にあたり、こうしてラントの領主としてアスベル本人がわざわざ王都に足を運ばずとも、使者による代行で十分事足りる案件だった。それでもアスベル自身足を運んだのは勿論、
(最近会えなかったから、顔くらいは見たかったんだけど)
という事で。
しかし本来国王であるリチャードには、拝顔するだけで正式な申し出の後、後日僅かな時間を設けられて行われるものである。いくらアスベルがラントの領主であれまた親友であれ、気軽に立ち寄って、気軽に話を出来る立場ではない。
それでもこれほどまで優遇されている点は、申し訳ないと思うのだけれど。
「では申し訳ございませんが、デール公。これが本年度のラントにおける輝石産出予定量の報告書です。お納め頂けますか」
「わかった。確かに預かろう」
「よろしくお願いします。では、私はこれで……」
封緘をした書類を渡してしまえば、今回バロニアを訪れた目的は無事完了だ。何もリチャードにはこれっきり会えないと言う訳でもないのだし。
「待ちたまえ、アスベル・ラント」
「はい?」
しかし出て行きかけたアスベルを、背後からデール公の声が引き止めた。
「何か?」
「これからすぐにラントへ帰るのかね?」
「はい、そのつもりですが」
「何か急ぎの公務があるのか?」
「いえ、特にありませんけど」
何かあるのだろうか。首を小さく傾げるアスベルに対し、あーごほん、とわざとらしくデール公は咳ばらいをして見せた。
そして、
「君さえ良かったらこのまま、陛下がお帰りになられるまで待っていてはくれないだろうか」
「え」
それは思いも寄らない申し出だ。てっきり何か領主の公務的な依頼かと勝手な想像をしていたのだが。
「それは、別に構いませんが…」
アスベルの知るデール公という人物は、まるで公正明大を書いて字のごとくしたかのような人物である。リチャードの父、先王との親交から王家との深い繋がりを持ち、リチャードからの信頼も厚く、先のクーデター騒ぎではリチャード側について王位奪還に多大なる功績を立てた人物だ。義理堅いながらも公私にはきっちりと判別があり、アスベル自身幾度となく叱咤激励を受け、マリクとは違う意味で頭の上がらない存在である…のだが。
「実は陛下に一日でも二日でもいい、君から言って休んで頂きたいのだよ」
「休む?」
「ああ。ここの所ずっと働き詰めでな。我々からも休んで頂くよう言っておるのだが、中々聞く耳を持って頂けん。国や世界を誰より強く想う陛下のお気持ちはわかるが、それで陛下がお体を崩されては元も子もない」
「リチャード…」
余程心配なのか、深いため息にはデール公のリチャードに対する愛情が見て取れる。
確かにあの一件が終わってからのリチャードは、ウィンドルでの国王の公務とは別に、魔物の被害があると聞けばどこの国であろうと兵を率いて駆け付けるなど、精力的に魔物討伐にも自ら赴いているらしい。
優しい彼が、ラムダについて責任を感じているのは明白だ。
「……わかりました。私でお役に立てるならば」
「君ならそう言ってくれると思ったよ。ラントには私から使いを出しておこう」
―――そうして通されたのは、リチャードの執務室だ。
落ち着いたアイボリーとグリーンで統一された品のいい調度の並ぶ部屋で、アスベルは中央のソファーに腰を下ろす。
リチャードが帰って来るまでに、何か彼を休ませる良い案を考えなければ。しかし時刻はもう日が傾きかける頃だ。執務室には温かなオレンジ色の夕日が注し始めている。リチャードが帰ってくるまであまり時間もない。
「さて、どうしたものかな」
リチャードの真面目な性格では、ただ休めと言っても聞かないだろう。それにあんな優しそうな顔をして(中身も相当優しいが)、意外と頑固だ。デール公はああ言ったが、アスベルの言葉を素直に聞いてくれるばかりとは思わない。
やはりここは少し強引にでも、例えば一時的にバロニアを離れて一緒にラントに連れて行くでもして………。
「ん、ふわ…ぁ………おっと、いけないいけない…」
その時だ。不意に眠気が差し、大きな欠伸が漏れてしまった。
「今朝はラントを早い時間に出て来たからな…」
少しでも時間が取れるよう、一番早いバロニア行きの船に時間を合わせてラントを出立してきたのだ。しかもここの所、今日提出した報告書に掛かり切りで寝不足感も否めない。
ラントのように夕日を遮る山々が傍にないバロニアの、しかも一番高い場所に建つ王城にあって日当たりも良好なリチャードの執務室は今、こうしてソファーに腰掛けているだけで眠りを誘う程居心地がいい。また座っているソファーのクッションの硬すぎず柔らかすぎず、その座り心地の塩梅が秀逸だ。
いやいやしかし、自分は寝に来た訳ではない。デール公に頼まれたリチャードの事だって、
「………今ここで寝たら最高に気持ちいいだろうな………」
しかし残念ながら、今はこの欲求に逆らえるような理性がまったく働かなかった。
リチャードが帰ってくるのは夜遅くになるだろうと、デール公も言っていた。ほんの少し、そう軽く目を閉じるくらいなら仮眠を取っても問題はない…だろう。
「うわ、駄目だ…ふわぁ〜…ぁふ。ちょっとだけ……」
もう既に欠伸を噛み殺す気も起きない。アスベルは豪快に口を開けて呼気を逃すと、ほんの少しだけと自分に言い訳をして目を閉じる。
街の喧騒も届かないくらい高い場所にある部屋は静かで、差し込む温かなオレンジ色の夕日とその温もりに満たされている。酷く穏やかだ。この穏やかさを守る為に、リチャードは頑張っているのだろう。
(……けどリチャード、…俺は君にも……)
「―――…」
帰ってきたらどんな事を言って説得しようか。
しかしそこでアスベルの思考が途切れてしまい、後はもう、降りてきた眠気に身を委ねてしまうしかなかった。
「お帰りなさいませ、リチャード陛下」
「ご予定より随分早いお帰りでございますね」
外から帰ってきたリチャードを出迎えたのは、メイドと騎士たちだった。時刻は日も沈みかけ、城内にぽつりぽつりと明かりが灯り始める頃。リチャードは外套と手袋を外し、それらをメイドに預けながらちらりと辺りを見渡した。
「ああ、ただいま。予定が思った以上に繰り上がってね……デールは?」
「執務室ではないでしょうか?」
「わかった」
すぐにでも今回の視察での自分の見解と、それに対する彼の意見が聞きたい。いつまでも頼ってばかりでは情けない限りだが、国王になってもまだまだ若輩者の身の上である事にはかわりない。
誰も悲しい思いをさせないように、もう二度と自分の歩むべき道を違える事は許されない。その為に自分は、常に正しい道を歩いていなければならないのだから。
リチャードは夜の闇が降りつつある城の廊下を、靴音を絨毯に吸われながらまっすぐ執務室へと向かう。途中窓から西の空を眺めたのは、遠くラントを探した為だ。勿論領土内とは言え、バロニアからはその街の明かりさえ見えない距離にある。
(今の自分が立ち止まる訳にはいかない…しかし)
無性に会いたい気持ちを抑える事は、例えどんなに忙殺されていようと抑えられない欲求として己を掻き立てた。
「そんな弱音を吐いたら、君に笑われるかな」
欲求は自らへの苦笑に溶かし入れ、リチャードは執務室の扉を開く。
「ただ今帰ったよ、デー……?」
スカーフを緩め、腰から下げた細剣をホルダーごと外す。しかし足を踏み入れた執務室内は人がいるとは思えない程静まり返っており、何より明かりが一つも灯ってはいなかった。どうやらデールは執務室にはいないらしい。
他に彼が居そうな場所と言えば…、
「?」
リチャードが壁に剣をかけようとした折、ふと違和感に足を止めた。誰もいないと思った室内に、自分以外の気配がある。しかし執務室の中に自分以外に動くものは何もない。
身を潜め、この命を狙う賊か? それとも―――。
「………」
リチャードは注意深く室内を見渡す為に視線を巡らせた。壁にかけようとした剣も引き戻して……けれどもそれはすべて杞憂だった事に気付く。巡らせた視線が、すぐに部屋の中央に備えられたソファーの背に止まったからだ。
硬すぎず柔らかすぎないクッションが、リチャードも居心地がよくてついつい居眠りをしてしまう大好きなソファーだから、その気持ちがよくわかる。
「アスベル?」
ぴょこっとソファーの背の向こう側に覗く、秋に染まる木の葉よりも赤く、しかし初夏に花咲く薔薇の赤よりも闇の色を落とし込んだ髪を、見間違える筈がない。
どうしてここに、という問いを、リチャードは発する事なく飲み込んだ。取りかけた剣から手を引っ込め、そっと足音を消してそちらへと歩み寄る。そしてこちらに向けるソファーの背を回り込み、その正面へ。
「…アスベル」
今度は確信を持ってその名を呼んだ。ただし起こしてしまわないようそっと、呼び起こす為ではなく、その存在が目の前にある奇跡を噛み締めるように。
アスベルが来るなんて聞いていない。恐らくラントの領主としてバロニアには公務で訪れたに違いない。しかしそれならば自分でなくともデールや、その他の執政官で用足りる話だ。
そんな彼がこんな時間にここにいる理由。
「僕の帰りを待ってくれたんだね」
言葉にするとより、その愛しさが胸に溢れた。となると次に溢れてくるのが欲求だ。
―――会える筈がないと思っていた愛しい君が目の前にいて、この僕の帰りを待ちくたびれて眠ってしまっている。
心地良さそうに眠っている君を起こすのはしのびない。このまま君の寝顔を間近で眺めているのもいいだろう。けれども起きて、その目に僕を映して欲しい。その声で、僕の名を呼んで欲しい……なんて。
「アスベル、こんなところで寝ていると風邪を引くよ」
口にしたそれは、単なる建前だ。リチャードはソファーに膝をかけて乗り上げ、顎をついと伸ばす。そして寝こけて無防備な唇に、そっと唇を押し付けた。
「アスベル」
顔を覗き込んで甘く名を呼び、まだ目覚めない事を確かめる。ふっくらと柔らかい唇を啄んで、角度を変えて最後に……もう一度。
「………………う…?」
これで目を覚まさなかったら、今度はどんな手段を用いようか。そんな密かな楽しみは、しかし小さく呻いたアスベルの目覚めの声によって、呆気なく企画倒れとなった。
「あれ……リチャー、ド?」
「おはよう、アスベル。とは言ってももう日も落ちて暗くなる頃だけどね」
まだ寝ぼけているのか。震えた睫毛が持ち上がり、ぼんやりとした双眸が目の前のリチャードを見つめる。さっきまでは辛うじて差し込んでいた日もほとんど隠れ、室内はもう大分暗い。こんなにも近くにいるから、その顔を見るに困らないのだけれども。
「君のこの様子じゃあ、随分待たせてしまったようだね」
「…………リチャードだ」
「え、アスベル?」
だがその時だ。
不意に寝ぼけているとは思えない力で抱き寄せられ、そのままソファーに、アスベルの隣に座らせられてしまう。そのままぎゅっと腕にしがみつかれてしまえば、最早逃げる術がない。
「アスベル、ちょっと」
しがみつく腕をどうにか外して起こそうにも、びくともしない。それどころかぴたりとリチャードに体を寄せて、
「リチャード……休む…だ…」
「!」
ぼそぼそと耳元で囁かれる言葉。
―――ああ、そういえば。
最近休め休めとデールがうるさかった。という事は、アスベルはそんなデールから自分に向けた休ませる為の先兵という事になる。いや、むしろ最終兵器だ。
(確かにこれほど強力で、僕に対して有効な攻撃はないな)
リチャードは苦笑して、再び目を閉じてしまったアスベル同様、目を閉じる。すると触れ合った部分からじわりじわりと混じっていく体温が酷く心地好い。それは日が落ちて気温が下がった今では尚更だ。
このまましばらく目を閉じていれば、また寝息を立てはじめたアスベルと同じ夢の中に行けるだろうか。それは酷く魅力的で、まだけして立ち止まれないと叱咤する己の決意を容易に揺さぶる。
もう、二度と道を間違えてはいけない。今は、立ち止まる時間すらも惜しいのだけれども。
「君の傍にいるひと時だけは、君の隣で羽を休めても構わないだろうか?」
そんな事を言えば、今更そんな事聞くなとアスベルは笑うだろう。もちろん眠っているアスベルには届く筈もなく、聞こえてくるのは規則正しい寝息のみ。
(今だけ、少しだけ)
そう自分に言い聞かせて、リチャードはそっと寄り添うよう、肩にもたれかかるアスベルに体を預けた。