「アスベルの作った甘いカレーが食べたい」
そんな些細な一言ですら、僕にとっては大層な我が儘だった。
「へ、陛下!ここは陛下のような尊い御身分のお方がいらっしゃるような場所ではございません…!」
リチャードがアスベルを伴って厨房に入るなり、血相を変えたコックがそうまくし立てた。しかしリチャードはそれをやんわりと笑みで制し、背後について来たアスベルに道を譲る。
「構わん。それよりラント卿に炊事場を貸してはくれないか?」
「?」
「アスベルが僕の為にカレーを作ってくれるんだ」
あまりの嬉しさに自然と頬が緩んでしまいそうだ。いや、実際緩んでいるに違いない。しかし今やそんな事二の次だ。アスベルが自分の為にカレーを作ってくれる事の喜ばしさに比べたら、コックの呆けた顔なんて目に入らないのだ。
「―――まったく、皆カレーひとつで大袈裟だな」
材料だけ用意してもらい、アスベルは包丁を握る。いつもの白いコートは脱いで、今はメイドに借りたエプロン姿だ。
「……なかなか悪くない」
「ん? 何か言ったか?」
「いや、何でもないよ。それよりアスベル、足りないものはないかい? なければすぐに用意させるが」
普段から見慣れている筈のメイドのエプロンが、着けている人物が違うとこうも心象が違うのかと、思わず感慨深くなってしまった。我に返る意味でも気を取り直す事にする。
「ああ、大丈夫だ。甘口の決め手のラント産の林檎に、蜂蜜もちゃんと揃ってる」
「そうか、良かった。出来上がりが楽しみだ」
久しぶりに会いに来てくれた(とは言っても領主としての公務が本来の目的だが)アスベルを捕まえ、突然『カレーを作ってくれ』だなんて、我ながら身勝手な事だとほとほと呆れ返る。
しかし数日前、ふと食べたくなってからもうずっと、頭の中も胃袋の中もアスベルのカレー一色だ。
「それにしてもどうしていきなりカレーが食べたいなんて言い出したんだ? カレーくらい、城のコックに頼めば作ってもらえるだろう」
野菜を切り終え、今度は林檎を大量にすりおろし始めたアスベルが首を傾げて言う。
確かにアスベルの言う通りだ。カレーなら食べたいと頼めば作ってくれるだろう。城のコックは優秀だ。本格的なカレーを作ってくれるに違いない。
けれどもそれでは駄目だ。今どうしても食べたくて食べたくて仕方がないのは、コックが作ってくれる本格的なカレーではなく、アスベルの作る甘いカレーなのだ。
「アスベルの作ってくれるカレーが食べたいんだ。あの短い旅の最中、何度か作ってくれたあのカレーが」
初めて食べた時はあまりの甘さに驚いたものだが、時間が経つと不思議と恋しくなる味でもあった。
「そんなに食べたいって言うんだから、甘いって文句言うなよ」
「ああ、言わないさ。せっかく君が作ってくれる物に文句を言っては、ソフィに怒られてしまうからね」
作業は肉や野菜を炒める過程に入り、厨房内に香ばしい香りが漂い始めた。自分は料理というものをまったくしないので、そうやって食材から料理が出来上がっていく様子は、まるで手品のように見える。
だからその感心も含め、
「剣も強くて、おまけに料理まで出来るなんて、君は本当にすごいな」
なんて呟けば、アスベルは大きな鍋に炒めた肉や野菜を放り込み、そしてスープを注ぎながら、
「別にすごくないさ。料理なんて差し迫れば、誰にだって出来るようになる」
そう言う口ぶりは妙に楽しそうだ。きっと料理をする事は楽しいのだろう。こうして見ているだけで楽しいのだから、自分で作る事が出来れば尚更。
「けど僕にはできない」
「リチャードは国王だから料理なんてする必要はないだろ」
その通りだ。けれどもそれが何か淋しい。
「僕も何か料理が出来れば、君にお返しとして料理を作ってあげられるのに」
「カレー作るくらいで大袈裟だな。お返しなんて考えなくていいよ。俺、カレーは食べるのも作るのも好きなんだから」
「けれどもそれじゃあ僕の気が収まらない」
「気が収まらないって言われてもな…」
うーんと唸りながらも、アスベルの手は止まらない。鍋を掻き混ぜながら、煮えた頃合いを見て今度はスパイスを投入する。すると厨房はストラタから輸入した上質のスパイスの、堪らなく良い香りに満たされた。
「……じゃあ、こうしよう」
「?」
その次に投入されたのは、アスベルが懸命にすりおろしていた大量の林檎だ。するとそれまで漂っていたスパイスの香ばしくぴりりとした香りが一変、甘く優しい匂いに変わる。スパイスの香りが飛んでしまうとか、そういうのはお構いなしだ。
「後は蜂蜜で甘さを整えて…っと」
「アスベル、さっきの『じゃあ』、の続きは何なんだい」
「うん。ちょっと待てよ。後は少し煮詰めて…」
ぺろりと味を見て、鍋に蓋をする。どうやらもうすぐ完成らしい。やがてアスベルは鍋を火にかけたまま、周囲を片付け始める。
「アスベル、あまり僕を焦らさないでくれ」
「じ、焦らしてなんかない。だから、その、お返しとかそういうのは別にいいからさ」
机の上が片付いたら、今度はカレーの黄色が栄えるだろう白い皿と銀のカトラリーを準備して。
「―――ただ、おいしいって食べてくれるだけでいいんだ。料理を作る人にとって、それが一番嬉しい事なんだからさ」
そう言って鍋の蓋を開け、お玉で掻き混ぜる姿は、まるで美味しくなるようにと魔法をかけているようだ。アスベルが作る、甘いカレー。アスベルが、自分の為に作ってくれた……。
「君が作ってくれるものだ。美味しくない筈がないだろう」
「!」
言えば、少しだけアスベルの頬が赤くなった。けれどもその次には嬉しそうに破顔して。
「あんまり期待されると、後が怖いな……さあ完成だ。たくさん作ったから、たくさん食べてくれよ」
「それにしても本当にたくさん作ったね…」
「カレーは大量に作った方が美味いんだ。一晩おいたカレーも味が馴染んで美味いぞ」
「当分カレーだね」
「それがカレーの醍醐味だからな」