この想いを秘めるには、あまりにも酷な

 

 

 

 

 

「本当にソフィが羨ましかったんだ」

「え?」

 

それは驚く程に唐突で、しっかりと聞き届けた筈のアスベルさえ、思わず聞き直してしまうものだった。

「ソフィが羨ましかったのは冗談ではない、と言ったんだが……昼間の事、もう忘れてしまったのかい?」

「あ、いや、忘れてはないが……あまりにも唐突だったから」

言い直してもらい、ようやく頭の中で言葉の意味がはっきりとする。また、同時に昼間の記憶が蘇ってもきた。

(とは言ってもリチャードにからかわれて、ソフィに妙な誤解をされた記憶しかないんだが…)

「その顔じゃあ、本当に冗談だと思われてしまったかな」

考えていた事が顔に出てしまったのだろう。苦笑するリチャードに、しかし否定するにもわざとらしいかと、アスベルは素直に頷いた。

「ごめん。けれどもソフィをたきつけたのはリチャードだぞ」

素直なソフィはリチャードにからかわれているなど気付く筈もなく、誤解を解くには話を合わせるしかなかった。

「ふふ、ソフィは優しいからね」

「リチャード…」

そう言って柔らかく微笑むリチャードに、アスベルは思わず呆れた顔をする。だがその反面、まだそうやって彼が笑っていられる事にほっとするのだ。

―――一番近しい人の死。そして自身も命を狙われ、逃げ堕ちる状況にある。

リチャードが真に平和を愛し、誰より心優しいのかをアスベルは知っている。そんな彼を襲った悲劇に、彼の心が深く傷付いてしまわないかと不安だった。しかしそんなアスベルの心配をよそに、リチャードはそんな弱い部分をアスベルに見せる事はしなかった。体調は思わしくないようだが、少なくともアスベルやソフィの前で取り乱したりはしない。

逆境にも屈しないその強さに、アスベルは尊敬の念すら抱く。少なくともラントを追い出された時の自分には、そんな心の強さを示す事は出来なかったのだから。

「別に意地悪をしたかった訳じゃない。僕はソフィが好きだからね。けれど、それ以上に」

「?」

しかしふとリチャードが言葉を止め、アスベルをまっすぐ見た。

昨夜と変わらず、今夜も野宿だ。王都からは大分離れたが、もうすぐデール公領へ抜ける途中の川にかかるウォールブリッジに差し掛かる。恐らくそこで待ち伏せされているだろう事が想定されるので、何か気付かれずに川を渡る術を考えなければならない……そんな、星の下で迎える夜。彼はゆらゆらとゆらめく焚火の炎を瞳に映して。

「それ以上に、アスベル……僕にとって君は何より大切なんだ」

「リチャード?」

その瞳の中に自分が映り込んでいる事で、まるで囚われたような錯覚を覚える。しかしそんな事はないと内心で頭振り、その言葉の意味をただ素直に嚥下した。

「俺も、リチャードの事が大切だ」

「アスベル」

彼は唯一無二の親友。ソフィと共に友である事を誓い、そしてそれは今でも変わらずにある。騎士になると決めて、真っ先に守りたいと思い浮かんだ存在であった。それを今まで誰かに口にした事はなかったけれど…騎士として王に仕える事は至上だとされている。

(けれども俺は、リチャードが騎士が仕えるべき王家の者だからそう思うんじゃない。リチャードがリチャードだから……)

しかしそれを聞いた彼は、何故か悲しげな顔で微笑むのだ。

「ありがとう、アスベル」

それはまるで否定と肯定をない混ぜにしたような、曖昧な表情だった。

そして、

「きっと僕の大切と君の大切の意味は違うのだろうね」

「? 大切という言葉の意味に、違いなどあるのか?」

含まれた意味を聞き取りあぐね、アスベルはきょとんとして聞き返した。

「じゃあ逆に聞こう。君の言う『大切』はどういう意味だい?」

「え、お、俺?」

尋ねたのはこちらの筈が、逆に問い返されてしまう。

「ええっと……急にそんな事言われてもな」

それは例えば、先程考えた事のようなものを言うのだろうか。

リチャードの存在は何者にもかえがたい……だから、何に変えても守りたいと思うその気持ちが自分の『大切』の意味なのだろうか。

しかしそれをうまく言葉にするのは難しい事のように思えた。そんな自分が今、言葉に出来る事と言えば。

「そうだな―――俺にとっての大切っての言うは、宝物の事なんだと思う」

「宝?」

「とは言ってもお金とか宝石とかそういうのではなくて、記憶とか、気持ちって言うのか……お前と過ごした時間全部が記憶も気持ちも引っくるめて宝物なんだ」

七年前に過ごした瞬きのような僅かな時間。

助け合って、笑い合って、自分の夢を語り合って……それは最初から最後まで、けして楽しかった事ばかりじゃあなかった。『あんな事』があってそれ以降、一切連絡すら取れなくなり、七年が過ぎた。

同じ街にいながらも噂のみでその存在を感じ取っていた七年間。

そしてこんな最悪な状況で再会した今に至るまで、そしてこれから向かう時間。

その記憶も気持ちも、全部が全部宝物だ。何者にも変えられないし、かえがたい。それが大切という事ではないのだろうか。

「そうか」

それをどうにか言葉にして告げると、リチャードはそう呟いた。アスベルは今度こそ逆に、リチャードへと問い返す。

「リチャードの思う大切は違うのか?」

「いや、違わない。君と同じ思いだ」

しかしすぐさま返ってきたのは、先程言った言葉とは正反対だった。

「リチャード、さっきは俺のとは違うって言ったじゃないか」

また昼間のようにからかわれたのかと思い、アスベルはじとりとリチャードを見る。またからかわれたのなら、馬鹿みたいに恥ずかしい事を言わされた気がする。本人を前に宝物だとか大切だとか……。

(もちろん嘘じゃないけれども)

「そんな顔をしないでくれ、アスベル」

「けれど」

「そう思っている事は一緒だ、という事だ。記憶も気持ちも何にもかえがたい……けれども違う事もある」

「違う事……?」

ふと、首を傾げたアスベルの手を、リチャードの手が取る。王族という立場のリチャードだが、幼少の頃より嗜んできた剣術の為か、長くしなやかな手指には剣を握る者故のたこがあった。

そんな事を感心していると不意に、

「リチャード!?」

咄嗟にリチャードのとった行動に驚き、思わず掴まれた手を引き戻してしまった。リチャードが触れた部分が、その唇が触れた指先がじんと熱に痺れた感覚。

「い、一体何を…!」

取り上げた指先に頭を垂れ、口付ける。それは騎士が王に忠誠を誓う行為にも似ていた。しかしそれは本来、アスベル側がすべきであり、王族である彼が臣下に頭を下げるべきではない。それはもちろん親友としても……。

「僕の君が大切だという想いを行動として示すと、今はこういう形になる」

「今、は?」

「そう、今は」

驚いて思いっ切り手を引いてしまったが、リチャードは気分を害しはしなかったようだ。しかし困惑するアスベルを余所に穏やかに微笑んで告げる言葉に、嘘や冗談だとは思えなかった。

「アスベル、君は七年前からずっと僕の親友だ。そして、それ以上に僕の大切でもある」

「リチャード」

再び手を取られたが、今度は一度ぴくりと指が震えただけで、その手を振り払う事はしなかった。包まれて、穏やかな体温に自分の熱が混じり合う。妙に頬が熱いのも、けして焚火の炎に炙られただけではない筈だ。

「父を殺され、自分も命からがら逃げ出して、けれども会えたのが君で良かった。あの時、もうこれで二度と君に会えない事を覚悟していたんだ……それなのに君はこうして僕を助けに来てくれた」

「当たり前だ。お前が殺されたって聞いて、そんな事信じられなくて…」

「信じてくれたんだね、僕を」

「………」

―――王子は死んだと聞かされ、一瞬で血の気が引いた感覚は、リチャードの無事を確認した今でも忘れられないものだ。けれども思い出して冷たくなる手指を、今はこうしてリチャードが包んでくれている。

まるで守られているようだ。

守らなくてはいけないのは、自分の方なのに。

「アスベル、僕には君が必要だ」

「そんな事……今更口にしなくても、俺はお前の力になりたい。今の俺にはそれぐらいしかできないから」

もう二度と、あんな思いをしたくない。この優しく包む体温を失わない為にも。

「君ならそう言ってくれると思った……アスベル」

「リチャ、……っ」

その時だ。不意に掴まれたままの手をぐいと引かれ、リチャードの方へ体が傾ぐ。アスベルはバランスを崩すが、しかしそのままリチャードの腕に支えられて、その胸にもたれ掛かるようになる。

頬を固定され、覆い被さるように迫る端麗な顔が酷く近い。

それは吐息が触れるばかりの―――…。

 

「ぅ、……アスベル…?」

 

「!?」

突如聞こえた、まだ半分ばかり眠っているかのような声に、アスベルはびくりとして咄嗟にリチャードを押し退けて立ち上がった。見れば、すうすうと寝息を立てていた筈のソフィが目を覚まし、眠い目を擦りながら体を起こすところだ。

「ソ、ソフィ」

「ふたりとも、何、してるの?」

何、と言われてアスベルは焦った。今何をしようと、されようとしていたのか。

「いや、あの、その」

「?」

「すまないソフィ、起こしてしまったね。明日の事で打ち合わせしていたんだ」

しかし焦るアスベルを余所に、リチャードはまるで何事もなかったかのようにそう言ってのける。そんな事は何一つしていないが、今はその出まかせに乗るしかないようだ。

そんなアスベルが激しくうんうんと頷くと、それを信じたのだろうか。ソフィは首を傾げながらも、納得したようで。

「眠らないの?」

「寝るよ。ソフィもおやすみ」

「お、おやすみ、ソフィ」

「? うん、おやす、みぃ……」

呟くようにまた同じ体勢で眠りに就くソフィを、その寝息が聞こえるまでアスベルは固唾を飲んで見守った。やがて聞こえるか聞こえないかくらいの微かな寝息を確認し、そこでようやく安堵のため息を盛大に吐き出す。

すると、

「惜しかった。もう少しだったのに」

「!」

なんて心底残念そうな声でリチャードが呟くので、アスベルは先程の事を思い出してしまい、治まりかけていた頬の熱が再燃してしまう。

「リチャード、その、さっきのあれ、は」

「僕が君を大切だと思う事の延長線にあるもの」

「延長線って、だってあれは……」

いくらアスベルがそういったものに疎いからと言っても、知識がない訳ではない。

俗に言う『キス』というやつだ。親愛の情を示す行為であり、取り分け唇への行為は夫婦や恋人同士で愛情を示す為のものであって……。

「大切じゃなくなったかい?」

「え」

どんな顔をしていいのか、どんな事を言えばいいのか、とにかく何をしたらいいのかわからない。しかしそんなアスベルに、リチャードは問い掛ける。

「君に口づけをしたいと思う僕ではもう、君に大切だとは思ってもらえないかな」

「そ……んな事……」

そんな事を口にしながら、優しさと寂しさをないまぜにして見つめるその目を、何故かずるいと思った。

「そんな事…」

リチャードが何故こんな事をしたのか、こんな事を打ち明けたのか、その心は今もよくわからない。けれども、

「そんな事―――あるわけないだろ。リチャードは俺の大切だ。ずっと…どんな事があっても変わらない」

今アスベルがその問いに返せる答えは、ただ一つしかないのだ。

「アスベル」

その声音に隠し切れない嬉しさを滲ませ、リチャードがアスベルの方へ手を伸ばす。

「けど!」

「けど?」

しかしその手をアスベルは掴ませる事はなく、代わりに指を突き付けて宣言した。

「ソフィがいる所でああいう事は駄目だ。その、恥ずかし…いやいや教育に悪いというか…と、とにかく駄目だからな!」

だからもちろん今も駄目だ。それにアスベル自身、まだよくわかっていないのである。

違うと聞いたリチャードの言う大切と、自分の想う大切。お互いの言い分を聞く限りでは、限りなく同じに思う……けれども果たしてそれが同じなのかと。

指を突き付けられ(考えてみれば王位継承者たる存在相手に随分と失礼な態度なものだが)、リチャードはふむと唸る。そしてしばし考えるようなそぶりを見せて、

「それはつまり……ソフィがいない所なら何をしてもいいのかい?」

 妙案を思い付いたとばかりの表情で言いだし、アスベルは唖然とした。

「ちょ、ちょっと待て、そういう意味じゃ…ていうかそんな事は言ってな」

「わかったよ。確かに君の言う通りだアスベル」

「俺の話を聞いてくれ、リチャ…!」

「静かに。…ソフィが起きてしまうよ?」

「〜〜〜っ」

訂正さえさせてもらえない。言われっぱなしだが何も言い返せず、ただ口を引き結んでわななくアスベルを、リチャードは柔らかい微笑みをたたえて見つめる。リチャードは昔からこんなにもいい性格をしていただろうか。

うやむやの内に妙な事になった。

けれどもその顔を見ていると、今こんな状況にあって、少しでも彼の心が穏やかにあれるなら―――その事に安堵する自分がいるのも確かだった。