今だけ、もう少しだけ

 

 

 

 

 

胸の苦しみは傷みではない、痛み。血が流れない部分の痛みは、手当ても、術も作用しない。

だからただ堪え、面には出さぬように。君に要らぬ不安や心配をかけさせぬよう。

けれどもそれがたまに堪え切れない時がある。それは君に心配をかけさせたくはないのに、逆に心配して欲しいという僕の弱さ。

恐らく残された時間はあまりない。日増しに膨れ上がっていく『あれ』に、徐々に自分の境界があやふやになっていく。

いつか同じになってしまうのだろうか。

いつか、君の事も君を想う気持ちも同じになって溶け込んでしまうのだろうか。

 

 

「リチャード、リチャード!大丈夫か!?」

「……っ…」

隣を歩いていたリチャードが、急に胸を押さえてうずくまった。王都を出る際に負っていた傷は既にソフィによって治療されている。けれどもこうして時折痛んで苦しむのは、やはりその心傷故なのか。

「リチャード、傷、痛む?治す?」

アスベルがその体を支える為に腕を回す。するとアスベルの腕の中でリチャードは深く息を吐き出し、伏せていた顔を僅かに上げた。

「いや、大丈夫だよソフィ…ありがとう」

そうは言うが、その顔色はよくない。

バロニアからグレルサイドへ抜ける為に、どうしてもウォールブリッジを通り抜けなければならない。そのウォールブリッジももうすぐ近くだ。バロニアからの追っ手もあるが、セルディク大公もリチャードがデール公を頼ってここを通り抜ける事は承知で兵を配しているだろう。

現状から言えば、こうしていつまでもひと所に留まるのは危険だ。

しかしリチャードは―――…。

「リチャード、少しやす、」

「駄目だアスベル」

休もう、と言いかけたアスベルの言葉を、リチャードが遮る。

「君の心遣いは嬉しいよ。けれどももうウォールブリッジは目と鼻の先。もたもたしていると騎士団に見つかってしまう」

「しかし、そんな様子じゃあ」

リチャードの言う事はもっともだが、すべてはリチャードが無事にグレルサイドへたどり着く事が大前提である。もちろん捕まってしまえば元も子もないが、リチャードの身に何かあっては……。

「大丈夫。このくらい、凶刃に倒れた父の無念さに比べたら……それに」

「?」

呟いたリチャードが、体を支える為に傍らに腰を落とすアスベルに、僅かに肩を寄せた。そしてその肩口に額を擦り付けて、

「アスベルがいて、僕を助けてくれる。そうだろう?」

そう囁かれる言葉に、胸の奥が熱くなる感覚。

そうだ。その為に自分は今ここにいる。

「ああ、当たり前だ。何があっても俺がお前を守る」

「―――ありがとうアスベル」

柔らかい微笑みの浮かぶ上げた顔には、先程よりも随分と血色が戻っていた。その事にほっとして体を離し、立ち上がってリチャードに手を貸してやる。するとその手を取って立ち上がるリチャードに、傍で眺めていたソフィが尋ねた。

「リチャード、大丈夫?」

どういう訳だかリチャードを少し警戒しているソフィだが、流石に青い顔で膝を着く様が心配だったのだろう。小首を傾げて問う彼女にリチャードはああ、とはっきり頷いてみせた。

「もう大丈夫だよ。アスベルが優しく抱き締めてくれたから、とても元気が出た」

「え」

「本当? わたしもアスベルに頭なでてもらうと元気になるよ。リチャードも同じ?」

「そうだね。アスベルはきっと特別な力を持っているんだ」

またそんな妙な事を教えて。けれども素直なソフィは、そんな事を見抜けられる筈もなく、リチャードの言った事を信じてしまうのだ。

「アスベルすごーい」

きらきらと輝く眼差しで見上げられ、

「あ、ははは…どうも」

今更その期待を裏切れもせず、困ったように笑ってごまかすしかなかった。

「さあ行こう。どうにか捕まらないよう、ウォールブリッジを越える方法を探さないと」

「リチャード」

「何だい?」

「その、本当に大丈夫か?」

冗談を言える程回復したと言っても、彼の事だ。アスベルやソフィに気を使わせまいと無理をしている可能性もある。

「大丈夫だよ」

けれどもアスベルの心配をリチャードは浮かべた微笑みと共に一蹴した。すっと伸ばされた手が、指の背で優しくアスベルの頬を撫でて。

「大丈夫、君がいる。だから今はきっと大丈夫だ」

「リチャード…?」

「ほら、行こう。ソフィが待ちくたびれてしまう」

それは唱えるような、まるで自分自身に言い聞かせるような言葉で、何故かアスベルの胸には不安が過ぎる。

それはやはり無茶をしているのではないかという不安と、そして―――…。

 

 

まだ、大丈夫。

もう少し、大丈夫。

君が傍にいてくれる。ただそれだけが、僕を繋ぎとめる―――。