ただそれだけの事がどれほどの強さになるだろう

 

 

 

 

 

「デール公領までまだ距離がある。追っ手の事もあるが、ここは慎重に行こう」

「そうだね……すまない。僕は焦りすぎているようだ」

 

焦るあまり疲弊し、そこを襲われる事は避けたい。確実性を出す為にと急ごうとするリチャードを説得し、街道からやや離れた場所で夜営の支度をする。とは言っても本格的な装備はないに等しく、火を起こし、身を寄せ合う事しかできないのだが。

「ラントを出て来る時もほとんど着の身着のままだったから、大した物もなくてごめん」

「いや、構わないよ。それに食欲もそんなにないしね」

「………」

追っ手が来た時すぐ消せるようにと小さな焚火の炎に煽られ、浮かぶその顔色はお世辞にもいいとは言えない。

―――無理もない。

父である国王を目の前で殺され、自らも傷を負いながら命からがら逃げてきたのだ。もしあの場に自分が現れなければどうなっていただろう。それを想像するだけで全身の血が凍り付くようだ。

「……アスベル?」

「え」

「顔色が悪いよ。大丈夫かい?」

「……リチャード」

(温かい)

頬に触れられ、手袋越しのリチャードの体温にほっとする自分がいる。

それにしても顔色の悪い本人に顔色が悪いと心配されるなんて。しかもその原因は単なる自分の想像に過ぎない。

(リチャードはここにいる。俺は守れたんだ)

もう何も傷付けたくはなく、何も失いたくはない。

そう胸に誓って家を出たと言うのに、時間が過ぎるばかりで結局この手では何も守れなかった。ラントは大丈夫だろうか。

(ヒューバートの事だから、大丈夫だとは思うけれど)

不安が拭えない訳ではない。しかし今は守るべきものが、守りたいものが、ある。

「ごめん、大丈夫だ。そういうリチャードは大丈夫か? 俺が見張りをしているから、眠っていても構わないが」

少し休み朝早い内に発てば、追っ手にも人目にもつきにくいだろう。何としても、無事にリチャードをグレルサイドに連れていかなければならない。

誰に命令された訳ではない。それはリチャードがウィンドルの、自分が仕えるべき国の主であり、そして彼がかけがえのない友人であるからだ。

「ソフィは先に寝てしまったようだね」

「え? ああ…どうりでさっきから静かだと思った」

丸まって眠るソフィは、よく耳を澄まさなければ聞こえないくらいの寝息を立てている。普段からあまり言葉数が多い訳ではないので気付けなかった。

すると、

「アスベル、君も相当疲れているんだろう」

そう言って、リチャードがじっとこちらを見つめる。

「そんな事は」

「現に君はソフィが寝てしまった事にも気付けなかった」

「………」

その目から逃れるように、アスベルは視線を反らす。しかしリチャード相手に、それではうやむやに出来なかったようだ。

「君がそうやって僕を守ってくれようとしてくれるのは嬉しい。けれどもそれが原因で君に無理をさせたくはない」

「無理なんてしてない。俺なんかよりリチャードのが辛い筈だ」

実際、騎士学校にいた頃の訓練はこれ以上に辛いものだってあった。今、それ以上の体の疲れはない。それに体力を精神力でカバーする訓練も積んでおり、この程度でへこたれていては長年師事してきたマリクに申し訳ないだろう。

(俺が守らないで誰がリチャードやソフィを守るって言うんだ)

重ねて、けれども果たせない『守る』という意志を、今度こそは果たす為に。

「―――アスベル」

「リチャード?」

しかしふと、リチャードが改めてアスベルの名を呼ぶ。とても青い顔をした本調子ではない人間の声ではない。それはその視線を避ける為に目を反らしていたアスベルに、思わず反射的にそちらを見させてしまう程の。

七年前。初めてラントで会った時、自分と一つしか違わない同じ子供なのに、繊細で、綺麗で、自分たちとはまったく違う作り方をされた人間だと思った。

けれども姿形が問題ではない。ほんの短い間だったが、一緒にいて楽しかった。助け合って、苦楽を共にした記憶は今も鮮明だ。目の前には、そんな彼が七年経った成長した姿でそこにいる。その面影はやはり七年前の記憶にあるものを残している。

しかし、

(何故だろ、リチャードにじっと見詰められると鼓動が高鳴る)

七年の時間の経過が、確かにそこにあった。改めて間近で見て、同じ男の自分の鼓動が乱れる程に。

しかし頬に集まるような気がする熱に、けれどもアスベルは真剣な眼差しで自分を見詰めるリチャードから目が離せなかった。それ程までに真摯に、こちらをひたりと見つめる瞳に吸い込まれるようだ。

「アスベル、これは友達としてのお願いだ。それとも―――王子として命令すれば君は聞いてくれるかい?」

「!」

指の背で頬を撫でられ、びくりと肩が震える。いつの間にか近くなっていた二人の距離に、まるでこの意味もわからず高鳴る鼓動の音すら聞かれてしまいそうだった。

「わ、わかった。無茶はしない、約束するよ」

 何気ない素振りでそれを隠したつもりで、アスベルはリチャードの言い分を受け入れる事にする。受け入れなければ、その瞳に捕らわれてしまっていたかもしれない。それが一体どういう事なのか、アスベルにはよくわからなかったが。

「わかってくれて嬉しいよ、アスベル」

「でも二人とも寝てしまう訳にはいかないから…」

「では交代で火の番をしよう。それで構わないね?」

一国の王子に見張りだなんて。

けれどもそれを指摘できるような雰囲気ではない。眠ってしまったソフィを起こす事は憚られたし、何より頬が意図せずにまだ熱かった。それは焚火の炎に照らされており、しかも辺りは夜の森だ。暗くてよく見えないだろう。

その為恐らくリチャードには気付かれていないだろうが、しかしそうなった意味もわからず、アスベルはただ、それが早く収まるよう出来る限り平静を装うのだった。

 

 

 

リチャードが、交代の際は必ず起こすようにと、釘を刺して横になってしばらく。アスベルは火を絶やさぬよう焚火の中に小枝を焼べていた。

あんな事があったとは思えない程静かな夜。

聞こえるのは炎の爆ぜる音、そして、

「アスベル」

静かになってしばらく経つが、まだ眠っていなかったのか。リチャードの呼ぶ声に、アスベルはそちらを見遣る。すると体を横たえたまま、リチャードがアスベルを見上げていた。

「どうかしたのか?」

焚火に照らされて赤く輝くブロンドの隙間から、その瞳がひたりとこちらの姿を捕えている。まただ。しかし、今は先程のような錯覚には陥らない。

けれども、

 

「君に会いたかった」

 

「!」

たった一言告げられた言葉に、胸が締め付けられる程の『何か』が込み上げて来る。

会えて良かった。あの場所で会えなければ、もしかしたらもう二度と会えなかったかもしれない。

生まれ育った地を追われ、同じく国を追われた彼と出会って。それもまた運命と言うならば。

「……俺も」

もう二度と失わない。

この命に代えても、けして―――…。