*中間地点* 「え、何これ」 東京と名古屋の距離。それをまざまざと思い知らされた。 「え、何ってお味噌汁だけど…あれ、佳主馬くんちじゃお味噌汁にワカメ入れない?」 それは初めて佳主馬との食事に、健二が手ずからの味噌汁を出した時の事だ。食卓についた佳主馬がテーブルの上に並べたものの一つ、味噌汁をよそったお椀の中を覗いて唐突につぶやいた。 「ワカメは入れるよ。豆腐も、ネギも。でもそうじゃなくて」 「?」 「色だよ、色」 「色?」 健二も真似てお椀の中を覗いた。いつも作っているのと同じだ。実家にいる時、母がたまに作ってくれたものとも同じである。何が違うというのか。 すると、 「うちのと色が違う」 まるで見た事もない物でも見るような目付きだ。 「え、なんか違うの?」 「なんか色が薄い。健二さん、けちらないでちゃんと味噌入れた?」 「ちゃんと入れたよ? え、味噌汁ってこんな色でしょ」 外で食事をしても味噌汁なんて割とどこも同じようなものだ。具の違いはあるが、特に色なんて言われたら健二は少なくともこんなものだと思っている。それは大学の学食だって、ファミレスだって、牛丼屋だってそうだ。 しかしそこでふと、健二は頭の隅の記憶を掘り起こした。 「―――あ、そう言えば、何か地域によって味噌が違うって聞いた事がある」 「そうなの? 東京のはこんなうすらぼんやりとした味噌汁なわけ?」 「うすらぼんやりって…少なくとも僕はずっとこれだけど。名古屋は違うんだ」 「うちは赤いっていうか、もっと濃い黒っぽい茶色だった」 「な、なんか塩分濃度高そうな色だね…」 気になって、つけっぱなしのパソコンからネットに繋ぎ、検索する。 なるほど確かに地域によって味噌汁に使う味噌が違うらしい。大きな種類で三つ、米味噌、豆味噌、麦味噌があり、そこから更に甘味や辛み、発酵時間の違いで細分化していくようだ。 健二がいつも食卓で見かけていたのは江戸味噌と呼ばれる東京地方で好まれて食べる米味噌で、赤系の甘味噌と分類されるらしい。そして佳主馬が言っている『濃くて黒っぽい茶色』というのは恐らく、中部地方特有の八丁味噌の事だろう。 「へー、味噌汁一杯でもこんなに地方で変わるんだね。あ、じゃあどうしよう。うちの味噌汁、もしかしたら佳主馬くんの口には合わないかも」 ネットで見る限りは色だけでなく、味もだいぶ違うようだ。 「ごめん。そこまで気が回らなかった。いいよ、苦手だったら残してくれても?」 見れば、佳主馬はお椀を持ち上げ、その中身を見つめたままだ。 各地方に文化の特色があるように、食にだって地方によって様々な特色がある。食材に好き嫌いがあるように、もちろん得手不得手があるのも当然だ。 「―――大丈夫。健二さんが作ってくれたものだから食べるよ」 「あ」 しかしそう言って、佳主馬はお椀に口をつけて傾けた。味に絶対的な自信があるわけじゃあないが、今日は味見もしっかりしたし、失敗はしていない筈だが、今の問題は味噌の種類だ。 健二は佳主馬が味噌汁を飲むのを思わず固唾を飲んで見守ってしまう。 すると、 「………甘い」 そう呟いてお椀から顔を上げた佳主馬は、何とも言えないような顔をしていた。その顔だ。やはり関東風の、健二の実家の味の味噌汁は口に合わないのだろう。 「や、やっぱり無理して飲んでくれなくていいよ?」 そんな味噌汁一杯やそこらで無理なんてしてほしくない。けれども健二の言葉を聞かなかったかのように、佳主馬は箸を取り、食事を再開してしまう。 しかもその様子を思わず茫然と見つめてしまう健二に、 「どうしたの? 健二さんも食べなよ。せっかくの手料理が冷めちゃうよ」 「佳主馬くん……うん、そうだね。いただきます」 なんて自分が作ったものを勧められ、何だか変な気分だ。けれども黙々と食べる佳主馬の様子を見て、健二も仕方なく箸を取る。それからは一言も佳主馬は味噌汁について言わなくなった。また箸も問題なく進んでいる。 けれども佳主馬の口に合わなかった事は明白だ。それを敢えて口にしないのは健二に気を使っているからだろうか。 (そうか…味噌汁ひとつとってもこんなに違うんだ) 改めて知る、名古屋と東京の距離。 今は休みを利用して佳主馬は遊びに来てくれているが、数日すれば帰らなければいけない。今度会えるのはいつだろう。学校の事も、お金の事もある。 それを味噌汁(こんな事)で思い知らされるなんて。 (やっぱり遠いなあ) それは縮まらない、距離。 お椀の縁に口を付けて傾ける。すると舌に慣れたいつもの甘い、味噌汁の味がした。 (いいにおい) ただでさえアパートに転がり込んで邪魔しているのは自分なのに、奢るからどこかに食べに行こうと誘えないのは、『健二が自分の為に手料理を振る舞ってくれる』というシチュエーションへの欲求に逆らえない自分の弱さか。 それだったらせめて手伝おうとすれば、『佳主馬くんはお客様なんだから座って待ってて』、と台所から追い出されてしまった。まあ手伝おうにも佳主馬は台所に立った事などないので、手伝える事なんて限られてくる。いいとこ、せいぜい鍋の見張り番くらいにしかならないだろう。 (健二さんが料理うまいのも意外だけど) そう言えば上田に行くと、時々台所要員として駆り出されていたような気がする。『本当にうちの男どもは役立たずなんだから』という台詞は、しっかり健二を除外しての台詞か。 そうやって作ってくれるものは、どれも佳主馬の好みの味だった。 けれども一つだけ―――…。 (それにしても、この前の味噌汁は甘かったな…) そう、味噌汁だ。 味噌汁というのは濃い茶色で、しょっぱいものだと思っていたから尚更だ。けれどもそれが東京では当たり前の事で、尚且つ、健二の実家の味なんだろう。しかもどちらかと言えば、東海地方で飲まれている所謂豆味噌の方が特異なのだと知って軽いショックを覚えた。それどころか更に甘い白味噌というものがあると言うから、もう口の中での味の想像が追い付かない。 料理の事にはまるで興味がないから、佳主馬にはよくわからなかった。 (甘いおかずでご飯食べるの、苦手なんだよね…) それなのに甘い味噌汁なんて。 けれども健二の手料理だ。自分の為に作ってくれたものを自分勝手な理由で無駄に出来る筈がない。それに毎日味噌汁が食卓に上がる訳でもないのだから、少しだけ自分が我慢すれば済む事だ。 「―――佳主馬くん。ご飯にするから机の上、片してくれる?」 「わかった」 (それになんか、こういうのって新婚さんみたいだし) 実はこんな事に密かに浮かれていたりする。だからそんな味噌汁程度の事、そんな幸せの前に比べれば実に些細な事だ。 「おたませ〜」 机の上を片すと、ちょうどそのタイミングで健二がお盆を手にやってきた。 しかしその時だ。 「あれ、この匂い」 「あ、気付いた?」 健二の持つお盆の上から漂ってくる匂いに、佳主馬はふと気付いた。すると佳主馬の反応を嬉しそうに見て、 「ちょっと初めてだったからうまくいってるかわかんないけど」 そう言って机に並べられるのはメインのおかずとサラダ、そしてご飯をよそった茶碗と…味噌汁のお椀だった。濁った液体の中には、今日はワカメと豆腐ではなく、大根や里芋、人参などの根菜が具として泳いでいる。 味噌汁だ。間違いない。けれども、先日健二が用意してくれた味噌汁とはどこか違う気がする。けれども何がどう違うのか、佳主馬にはわからない。 「健二さん、これ……」 「うん。ちょっと飲んでみてくれる?」 何が違うのかは教えてくれないらしい。佳主馬は不信に思いながらもお椀を手に取る。覗きこめば、何だか…先日の作ってくれた味噌汁よりは色が濃いような気がした。もちろん母親の作ってくれる実家の味噌汁の色の濃さには敵わないが、少なくとも健二の作ってくれた以前の味噌汁の色とは違う。 「いただきます」 「どうぞ」 箸を手に取り、佳主馬は口を付けたお椀を傾ける。 その様子を正面で固唾を飲んで見守る健二。 (たかだか味噌汁なのに、へんなの) そう思いながら、口に入ってきた味噌汁を味わった。 今回は前回とは違う。まったく味を予想しなかった前回とは違い、今回は健二の実家の味噌汁は甘いという事がわかっている。だから舌や脳が味を受け入れる準備をしていてくれて―――…。 「………あれ?」 「ど、どう?」 思わず口から疑問が洩れていた。何故かと言えばそれは、味わったものが予想していたものとは違ったからだ。 「あんまり甘くない…ちょっとは甘いけど、この前のとは違う」 「これなら平気?」 「うん。これくらいなら」 「わあ、よかったぁ」 佳主馬の中の基準では、ご飯のおかずになるかならないか、である。これなら十分いける。というより、心なしかいつも飲んでいる味噌汁よりも美味しい気さえした。 すると二口目を飲む佳主馬に、それまで固唾を飲む程緊張に固くなっていた健二の顔が、ふわ、と柔らかく綻んだ。 「合わせ味噌っていうのを試してみたんだ。僕がいつも使ってる米味噌と、佳主馬くんちの方で使ってる豆味噌を混ぜて作ったんだけど、割合とか結構適当だから不安だったんだよね」 「そういうのもアリなんだ」 「一つの味噌で作るよりもコクが出るんだって」 わざわざ調べて作ってくれたのか。 佳主馬は健二の実家の味でもまったく構わないと言ったし、もしかして健二の性格なら気を使って佳主馬の実家の味の味噌汁を作ろうと努力するかもしれないと思っていた。しかし健二はそうはせず、敢えてそのどちらも使おうと努力した。 佳主馬にはまったく予想外の健二の行動だ。もちろん料理に関する知識がない佳主馬には、こんな簡単な方法も思いつかなかったという事もあるが、それでも―――…。 「一緒がいいなぁ、って思ったんだ」 「え?」 ぼそ、と呟かれた言葉に、佳主馬は机の反対側の健二をみる。 それは困ったような、照れたような、頬をうっすらと赤らめて苦笑する彼がいる。 「こういう違いを見ると名古屋と東京って近いようで、遠いんだなあって思ってさ。何かちょっとそれが寂しくて…じゃあ一緒すればいいかなって単純にそう思って調べたら、ちゃんとそういう方法があるんだってわかって嬉しかった」 「健二さん」 「僕のちょっとした自己満足なんだけどね」 (ああ、どうしてこの人は) 今の時間が夕飯時じゃなかったら。二人を隔てるものがこの健二の手作りの夕食じゃなかったら―――今すぐ押し倒して、その可愛い事ばかり言う口を塞いで、彼が望む通りに隙間もないくらいに『一緒』になってあげるのに。 「さ、ご飯食べよう。冷めちゃうとおいしくないからね」 「うん。じゃあ改めて―――いただきます」 けれどもそうはいかない。 だって今は夕飯時。しかも目の前には健二が自分の為に作ってくれた、『愛情たっぷりの手料理』が鎮座しているのだから。 |