*アイシテルのサイン*

 

 

 

 

 

「長野って東京に比べると空が広いよね。今にも星が降ってきそう」

夜の散歩、畑の脇道をぶらぶら歩きながら夜空を見上げ、隣を歩く健二は呟く。

「東京みたいに夜中まで昼間みたいに明るくないからだよ。要するに田舎って事だね」

自分たちの他には草むらの虫、見下ろす星々、そして月ぐらいしかいない。途中までハヤテがついて来ていたが、いつの間にかいなくなっていた。

いつの間にか、この満ちるような夜空の下、二人だけ。

「ま、まあ悪くないよ。うん、空気もいいし。あ、空気が澄んでるから星がいっぱい見えるってのもあるよね?」

そう妙なフォローを利かせる健二は、もうずっと空を見上げたままだ。

正直危なかっしくて、正直…夜空に嫉妬する。こんなに近くにいるのに、隣にいるのは自分なのに、どうして高く遠い、手の届かないところばかり見上げるのか。

「健二さん、上ばっか見てると転ぶよ」

「だ、大丈夫だよ。僕ってそこまで鈍臭く見える?」

「見ていて危なかっしいくらいには」

「………」

だから少しは意地悪言いたくなるものだ。しかし横目で見る言われた健二の頬が僅かに赤かったので、佳主馬はそれでひとまず満足する事にした。

「―――それにしても今夜は月も真ん丸で……満月なんだね」

 気を取り直した健二はまた、空を見上げた。

万里子が世話をしている畑の胡瓜棚を抜けると、丁度崖に突き当たる。立ち止まると眼下には明かりも疎らな上田の街、正面には周囲を囲む山々、そして頭上から見下ろすは星と月を抱えた夜空だけ。風の音と虫の声が混じり合って自分たちを包み、息を潜めてしまえば自分たちの存在すらこの風景に溶け込んでしまいそうだ。

そんな錯覚に陥りそうになった時、不意に同じく隣に佇む健二が、

「昔から月にはウサギが住んでて、あのもやっとした模様が『ウサギが餅搗き』してる模様だって言うよね」

見下ろす月を逆に見上げ、唐突に言い出す。それに佳主馬はああと相槌を返して、

「それ、国によって説は様々みたいだけど…中国は蟹で、ヨーロッパの方じゃ本を読む貴婦人とか言われてるらしいよ」

「へえ〜。でも僕はやっぱウサギかなあ。実際昔は本当に月にはウサギが住んでるって信じてたし」

言いながら照れたのか、頬を掻く。しかし佳主馬は何となく、健二なら今でもウサギがいると信じていても許せるな、と密かに思った(変な所で現実家なので、それはないだろうが)。

「……ウサギと言えば」

「何?」

「どうしてキングカズマはウサギのアバターなの? もしかして佳主馬くんってウサギ好き?」

またしても唐突な。まあ脈絡がない訳ではないが。それにしたって知り合って三年。今更そんな事を聞くだろうか。

「別にウサギが好きな訳じゃない」

「え、じゃあ」

「弱いウサギがものすごく強かったら面白いって、思っただけ」

それだけだ。

特にウサギに対して深い思い入れがある訳じゃなかった。しかし気が付けばキングカズマとの付き合いは長くなっていた。もう今更変えようとは思わないのは、やはりそれなりに愛着を持っているんだろう。

するとへえ、と感心した健二は、

「なんか佳主馬くんらしいね」

「それってどういう意味?」

何か含みのある言い方に、佳主馬は健二を見た。すると慌てた健二はパタパタと手を振って、

「わ、悪い意味じゃないよ? ただ佳主馬くんらしい、ちょっと常識の斜め上をいく理由だなあって」

「それっていい意味でもないじゃん」

「え、そ、そう?」

「まあ、いいけど」

あまのじゃくな理由だとは自覚しているからいい。

「―――あ、そう言えば……この話したの、健二さんが初めてかも」

「え? 本当?」

「うん。師匠にも言ってないから、やっぱり健二さんが初めてだ」

「えー、何か嬉しいなあ。得した気分」

「………」

そしてこれから先も健二しか知らないだろう。本当は誰にも言うつもりはなかったから、これもまた、惚れた弱みなのかもしれない。

こうしてもっと色んな事を知って欲しい。そして同じ分だけ、自分も健二の事を知りたかった。数学馬鹿でへたれで、照れ屋で、夢見がちで、けれどもいざという時、誰よりも諦めの悪く頼りになる貴方の事を。

「こんなに月が綺麗だから、尚更得した気持ちになるよね」

「本当に」

佳主馬は空に浮かび、自分たちを見下ろす月ではなく、隣にいる健二を見つめながら。

 

「月がとっても綺麗だ」

 

悪戯な風が草葉だけでなく健二や佳主馬の髪を揺らす。夜の空気はより一層澄んでいて、夜だと言うのに、まるで何もかも暴いてしまうかのようだった。

 

「……え……? あ…う、うん。そ、そうだね?」

言われた健二はきょとんとして首を傾げている。しかしそのまま見詰め続けるとみるみる頬が赤くなっていくのは、けして佳主馬の言葉の意味を理解した訳からではないだろう。

まあいい。自他ともに認める数学馬鹿だから、きっと知らないだろうとは思っていたから。

そしてそんな事言わなくても、きっと伝わっているとわかっているから。

 

「か、佳主馬くん、あの」

「健二さん、数学ばっかじゃなくて国語とか勉強した方がいいよ。夏目漱石とか」

「い、いきなり何で?」

「何ででもない。……もうそろそろ帰ろうか」

「???」