*君が眠る前に*

 

 

 

 

 

観たいテレビも特になくて、来る前に新しく買った筈のCDも既に聞き飽きて、宿題があるからOZも出来なくて。

夏休み、上田の栄の屋敷からそのまま名古屋に帰らずに転がり込んだ、健二のアパート。大通りから離れている為に東京と言っても静かで、時折電車が高架を鳴らす音や犬の遠吠えが響く夜。

宿題の数学を教えてと言えば、彼は嬉しそうな顔をして二つ返事で快諾してくれた。その顔が自分に頼られた事が嬉しかったのか、数学が嬉しかったのかわからないが、とにかく嬉しそうで、またそんな顔が可愛くもあった。

(健二さんって、三年前から全然顔が変わらないんだよな…)

当時から現在まで今正に成長期真っ只中の自分と、当時から既に成長期打ち止めの頃だった健二を比べるのは酷か。後はまあ、単に健二が童顔なだけだ。

(そこも可愛い所なのだけど)

本当はこんな事なんてしてないで、健二と二人きりだからできる事をしたいのに、生真面目な健二は許してはくれなかった。母とも宿題をちゃんと終わらせる約束をしたらしく、妙にその使命に燃えている。まあそれはいい。しなくてはならない事だし、終わらせると約束した以上、健二には迷惑をかけたくはない。

(でも終わらせたら、覚悟しててよね)

なんて、口には出さずに告げるのはズルイだろうか。宿題は比較的難しい問題もなく、今の所順調に進んでいる。こんなものは復習なので、『難しい』というよりは『面倒臭い』だ。

しかし順調だった佳主馬の手が、ふと止まる。

(あれ、これの公式って何だっけ……)

「ねぇ、健二さん。ここの所わからないんだけど……」

こんな時こそ健二の出番だ。健二は佳主馬が宿題をしている間、ずっと隣に控えている。聞くまでは手出し無用だと言ってあったので、たいそう暇だっただろう。数学と聞くとうずうずするそうで、高校一年の問題じゃあ張り合いがないかと聞けば、問題が難しいとか簡単だとかそういった事は関係ないと答えた。

さあ今こそ、その特技が役に立つ時だと健二を見る佳主馬だが―――…。

「健二さん?」

「………」

ちょうど二人して壁につけたベッドを背もたれにして、床に座り込み、宿題をしていた。見ると、健二の頭が傾いているではないか。そうっと隣から顔を覗き込めば、小さな寝息が規則正しく聞こえてくる。

(寝てる)

妙に静かだと思えばそういう事か。それでもほんの30分にも満たないくらいなのに。

「………」

佳主馬はシャープペンを置き、静かに体をそちらに傾ける。それくらいでは健二は目を覚まさない。じっと間近で見た所、目を閉じている健二は顔立ちが普段より幼い感じに見える。けれども薄く開いた唇からは、白い歯の隙間からピンク色の舌が僅かに覗いており、まるで誘われているようだと思ってしまう。

(無防備すぎ……襲ってくれって言ってるようなもんだよ)

宿題はもちろんしなくてはいけない。しかしこれは不可抗力だ。キスがしたくなるのも、それ以上がしたくなるのも佳主馬が悪い訳ではない。

佳主馬は健二の体の向こう側に手を付き、体を寄せる。そしてやや頭を傾けたまま眠る健二の顔を下から覗き込むようにして……。

「……ん……?」

「!」

突如何かを察したように健二が呻き、佳主馬はぴたりと動きを止める。すると吐息が触れる程近い距離で佳主馬が見守る中、ふるりと瞼が震えてゆっくりとそれが開かれていくのを見た。

「………ぅ……ん…かず、まくん……?」

半開きだった唇から甘い声が漏れる。佳主馬はそれ以上接近せず、まだどこか夢心地な様子の健二に苦笑を零した。

「あ……ごめん、僕寝てた…?」

「うん。数学教えてって言ったのに」

「ごめん、なんか眠くなっちゃって……」

言いながら、小さく欠伸を噛み殺す。その時滲み出た涙を唇で拭ってもまだ半分頭が寝ているのか、健二は何も嫌がるそぶりを見せなかった。そこでふと、佳主馬は『いい事』を思い付く。

いつもだったらぜったいに嫌がって(恥ずかしがって)できない、そんな『いい事』を。

「いいよ、今の所わからない問題ないし、健二さん寝てなよ」

「でも」

「いいから」

そう言って健二を助け起こし、後ろのベッドへと寝かせる。余程睡魔に勝てないのだろう。健二は佳主馬のされるままだ。

「ほら、大丈夫?」

「んー…ごめん、佳主馬くん……」

「もう寝ていいよ、俺も宿題にキリをつけるから」

「んー…」

「健二さん?」

「………」

返事がなくなる。とうとう寝てしまったかと顔を覗き込むと、僅かに開いた瞼の向こうに、佳主馬をぼんやりと見つめる瞳を見つけた。

「ねえ、健二さん」

その瞳をひたりと見つめて、

 

「―――一緒に寝てもいい?」

 

佳主馬は問い掛けた。

すると、眠いなりに健二は佳主馬の言葉を理解しようとしているのだろう。長い長い沈黙。その間に眠ってしまうのではないかというほどの沈黙の後、

「……ん」

とうとう健二が頷いた。というよりそれは、単に眠ってしまう時の僅かな呼吸の音だったのかもしれない。けれども問い掛けの返事としては是に値する。

こちらがそう理解できれば十分だ。

「そう、よかった」

喜色を浮かべた佳主馬は、今度こそ本当に吸い込まれるように眠りに落ちて行った健二の髪に一つ、口づける。そして宿題の後片付けもそのままに電気を消し、そそくさと健二の隣に潜り込むのだった。