*これだけは言わせて*

 

 

 

 

 

「―――健二さん」

「? 何、佳主馬く……!?」

呼ばれて振り返ると、すぐ目の前に佳主馬の顔があった。しかしだからと言って健二には避ける技術も暇も、反射神経もない。それどころか「あ」、とも、「わ」、とも声を上げる時間すらなくて、気が付いた時にはその表情がわからない程顔が近くなり、すぐにとある特定の皮膚と皮膚が重なり合っている事を自覚させられた。

そして、呼吸を奪われる。

「ん、うー…!」

そのまま肩を押され、健二は背後に敷いてあった座布団の上に押し倒された。どっと倒れ込んだ時に背中は痛くはなかったが、それでも佳主馬はけして放してはくれない。すぐさま自分より一回り以上も大きくなった体躯が覆い被さり、転倒の衝撃に外れた唇を追いかけるようにして塞がれる。

「…ふ、はあ…んん、ん、んー…!」

 うまく息が出来なくて、苦しい。あまつさえ入り込んできた生暖かいものに口の中を蹂躙されて、訴えるように覆い被さる胸を叩く。けれどもその手首も掴まれて、唯一の抵抗も奪われた。

「ふ、ぁ……は、んく…ぅ……」

「―――は」

それからもたっぷりと唇をねぶられて、文字通り貪り尽くされる。そんな健二が息も絶え絶えになった頃、ようやくそれらは離れていった。

 

 

「…はあ…はあ……い、いきなりキスするなんて、ひ、酷いよぅ……」

濡れた唇を拭う気力まで吸い尽くされてしまい、しばらく何も言う事が出来なかった。しかしようやくその状況から僅かながら回復した健二は、情けない声でぼやく。舌が痺れて口がうまく回らないから、妙に舌っ足らずで甘えた声が出てしまい、そんな自分の声がまた恥ずかしい。

しかしそんな健二に覆い被さる佳主馬は悪びれもせずに、

「いきなりじゃないよ。ちゃんとキスしたいから呼んだ」

なんて平然と言い放つ始末だ。しかもその体勢は相変わらず健二の上、覆い被さったままである。

本当はそうやって体を重ねられているだけで落ち着かない。

自分と違って運動をしている佳主馬の体温は、代謝がいいのかやや健二より高かった。意識をするとそんな事すら妙に気恥ずかしい。いや、こんな事をしている時点で顔を覆って逃げ出したいくらいなのだけど。

もちろん佳主馬には微塵も健二と同じような素振りはなくて、そう思うのは健二だけなのかもしれないが。

「……な、名前呼ばれただけじゃわからないよ…」

健二にはそれだけ反論するのが精一杯だ。

三年前は自分の肩くらいの身長しかなくて、華奢で可愛かった筈の少年は、今やすっかり立派に成長し、体も態度もすっかり大きく(いや、態度はあの頃から大きかったか)なっていた。そして今ではすっかり―――こんな事になっていて。

「それは健二さんの経験不足が悪いかな」

「そ、そんなあ」

「いい加減、キスくらい慣れたら? 俺ともだいぶ……夏希姉としたキスの回数以上にキスしてるのに」

「!!」

気付かない内に『僕』から『俺』へと変貌した彼は、昔以上に自信満々に育ってくれ、しかも自分を振り回してくれている。

久しぶりに直に会った夏休み。既に恋人解消した夏希と共に訪れた栄の屋敷で、まあ色々あり、こうして健二と佳主馬は恋人として付き合う事になった。

夏休みは明けてしまい再び名古屋と東京にと離れ離れなった二人だが、今回は少林寺拳法の道場同士の親睦試合という事で土日を利用して佳主馬が東京を訪れ、一泊二日で健二の一人暮らしのアパートに転がり込んできている。もちろん月曜になれば学校があるのだから、遅くとも明日の夕方には、佳主馬は名古屋に帰る新幹線に乗らなければならない。

一緒にいられる時間はとても短い。くっついていたいという佳主馬の気持ちも、わからなくもない。けれどもしかし―――『好きな人と一緒にいる』と言う事が、奥手な健二はどうしても恥ずかしいのだ。

もちろんそんな事は、佳主馬だって分かっている事で。

「夏に上田で会ってから久しぶりなんだから、そんなに素っ気なくしないでよ」

「そ、素っ気なくなんてしてないよ。ただ、ちょっと…その……」

そんなにじっと見下ろされると、ますます訳がわからなくなる。焦って早まる鼓動が、重ねた体越しに伝わってしまいそうだ。

確かに佳主馬の言う通り、以前付き合っていた夏希とは恋人らしい事なんてまるでしていない。だからこういう時、どうしたらいいか、どんな顔をしたらいいか健二にはわからないのだ。佳主馬とは毎日のようにOZの中で会っているのに、今さら直接会ったからと言ってどうとかいう話ではない筈なのに。

ただほんの少し前と違っている、今の関係か。

「〜〜〜〜〜」

「健二さん」

もはや何を言ったらいいのかさえわからなくなって、健二はもごもごと口の中で言い淀んでしまう。大体佳主馬だってわかっている筈なのにそんな事を言うのだから、ただ単に健二をからかって楽しんでいるのかもしれない。

自分の方が四つも年上なのに、と情けない気持ちになる。けれども佳主馬には何をやっても敵わないし、そんな佳主馬がかっこいいのだから、それについて健二は何も言えなかった。

するとふと、覆い被さっていた佳主馬が頭上で呆れを含んだため息を漏らす。

「べつに今更言わなくてもいいよ。知ってるから。健二さんはす…っごい『恥ずかしがり屋』だって事」

「は、恥ずかしがりって…そんな」

やれやれ世話が焼けるねといったふうに呟かれ、かあっと頬が熱くなった。

『恥ずかしがり屋』なんて、何だか言葉自体が幼い感じがする。それだったら同じ意味でも奥手と言われる方がまだマシだ。

けれども佳主馬にはそんな事さえ言い返せなくて、健二はただ口をぱくぱくさせながら赤くなるしかない。するとそんな健二の様子を見下ろし、普段はあまり表情を出さない佳主馬が珍しく機嫌良さそうに笑みを浮かべた。

「ああ、でも大丈夫。心配しなくていいよ。健二さんが恥ずかしがり屋で何も言えなくても、俺には健二さんが何を言いたいか、ちゃんとわかっているから」

「ぼ、僕の言いたい事…って…?」

ああ、そうだ。いつもそうやって自分は後先考えずに行動して、その結果後で自業自得な展開に陥る……自分の悪い所だ。それをわかっているのに思わず聞いてしまって、そしてはっとした時には既に遅い。

目の前には既に佳主馬の―――三年前には大層可愛かった筈が、今では随分と大人びた―――顔があって。

「会えて嬉しいって、画面越しにではいつでも会えるけど、こうして重なって体温を感じ合える事が気持ちいいって」

「!」

「そうやってきっと俺と同じ事を考えてる……違う?」

「え、あ、いや…その、あの…」

「否定しないって事は、同意と取るからね」

「え、えええ…あ、わ」

再び顔が近付いてきて、健二は慌てて目を閉じたが、今度は鼻の頭にちょんと触れただけで離れていく。フェイントだ。目を開けると、相変わらずこちらの顔をじっと見下ろす佳主馬の顔がある。

(すごく、すごく、恥ずかしい)

数学だけは誰より得意だって誇れる健二の脳みそも、事こういう事に関してはその処理能力は前時代的だ。もうずっと顔も熱いままだし、色んな事を考えすぎて頭のてっぺんから煙が出そうだ(実際出るのは煙ではなく湯気かもしれないが)。

何が普通で、何が異常なのかわからない。こうやって好きな人には全然敵わなくて、何も言っていないのに思っている事までバレて、恋人同士というものは皆こうなのか。それとも佳主馬がキングが故なのか。

「同じ事を考えている……だから俺の気持ちも、わかるよね?」

「ひあ…っ」

「名古屋と東京って、近いようですごく遠いよ…OZの中ではいつだって会えるのに」

「佳主馬、くん…っ」

(ずるい)

耳元で囁かれる声に、言葉に、背筋がぞくぞくして顔の熱が上昇する。しかも強引な行動の中に、そんなちょっときゅんとしてしまうような言葉を織り交ぜて。

―――四つも年下の佳主馬にこんな反応を引き出されてしまうのは、正直悔しかった。

けれども抗いがたいのは、確かに相手が佳主馬だからだ。奥手な自分には、佳主馬くらい強引な方が、実は釣り合いが取れるのかもしれない。もちろん全部が全部、佳主馬だって強引じゃあない。今みたいに時折するり、と年下らしい可愛さもひそませて。

(やっぱりずるいよ佳主馬くん…)

 そんな事をされたら、もうこれ以上抗いがたいではないか。いや、最初から抗っていたのかどうかという疑問は、まあ自己で却下だが。

だからもう、限界。

健二はそろりとその背に腕を回して引き寄せ、

「健二さん?」

「―――…佳主馬くん」

その黒髪の隙間から覗く耳に、健二は唇を寄せた。

 

「僕も、ちゃ、ちゃんと嬉しい、から」

 

 心配しないで、と。

すると言ったその時、緩く腕を巻いた逞しい体がぴくりと反応した。だがそれからしばらく、今度はぴくりとも佳主馬が動かなくなって、健二は不安に思って恐る恐るその顔を覗き込む。

「か、佳主馬くん?」

「―――っ………健二さんって時々、怖いくらいに天然だよね」

「え、それってどういう―――…っ」

目があった。

けれども、それから先はもう何があったのか。まるで熱暴走にあったがごとく、健二の記憶はしばらく抜け落ちた。