+ここにいて+

 

 

 

 

 

 世界はこの腕の中から彼を奪おうとする。

 それは―――一方的な略奪。

 こちらの言い分も聞かず、ただ、略奪するように。

 それでいいのだと、彼は笑う。

 そんな事あって堪るかと、自分は縋る。

 

 腕を伸ばして、縋り求めて。

 

 それでも世界の一方的な略奪行為は、彼の中から音素を奪う。

 

 

 

「…っ…!」

 びく、と体が震えて目を覚ます。

まるで高い場所から突き落とされたような、そんな感覚。やや早くなった鼓動に全身に気を配れば、特に背中に嫌な汗がじっとりと浮かんでいるのを感じた。

―――悪夢。

彼が消える夢。

人を殺した罪悪感に悪夢にうなされるルークを知っている。だがまさか、自分さえ悪夢にとり憑かれるようになるとは思ってもみなかった。

夢の中―――ふと気付いた時、後ろを歩いていた彼がいなかった。その温もりも声音さえも最後に残さず、彼は世界に奪われた。それでも認めたくなくて捜して捜して…やはり見付からなくて。

―――何処にも彼はいないのだと思い知らされて、目が覚める。

今までこんな夢など見た事がなかった。日々音素が乖離していく彼だが、まだ手立てはあると、世界から奪われずに済む方法があると、フォミクリーによって人すら造れた自分なら出来ない筈はないと、忌み嫌った汚点さえ糧にしていたのに。

それでも世界から貴方を奪い返す術は見付からなくて。

焦りが夢の中まで入り込んできたのだろうか。気を取り直してもう一度寝付くには、また夢にとりつかれてしまいそうで。

軽く頭を振って隣のベッドを見遣る…すると。

「…ルーク?」

見遣った隣のベッドの主がもぬけの殻だった。

さあ、と一気に血の気が引く感覚。先程あんな夢を見たばかりでは、普段ならば苦笑に一蹴するそれも、何もかもが自分を煽り上げてくるようで。

「…夢に捕われるとは…私もまだまだですね」

乖離の速度を見るかぎり、今すぐ急に消える訳では無い事は分かっている。また眠れなくて抜け出したのだろう事は、安易に知れた。

「…まだ温かい」

己のベッドから下り、その皺くちゃのシーツに手を触れる。するとまだ彼の高い体温が残っており、本人がいなくなってまだあまり時間が経っていない事が知れる。

「…仕方のない子ですねぇ」

―――彼も、自分も。

溜息を吐いて部屋の窓から見える夜空を見る。外はいい月夜だ。きっと彼は外にいるだろう。

部屋を出て廊下から続くバルコニーへの扉を見遣る。分かりやすいほどに半開きの向こうに見える赤毛に苦笑して。

「…ルーク」

呼び掛ければ、びくりと肩が震えた。そして恐る恐るというように振り返る、ばつの悪そうな表情を浮かべた子供。

「…ジェイド」

名前を呼ばれて、こちらが心底ほっとしたなんて知らずに。

「夜中に部屋を抜け出すなんて、いけない子ですね」

「う…ごめん。起こしちまった?」

傍まで歩み寄れば、月明かりに照らされてきらきらと輝く翡翠色の瞳が、こちらの顔を上目使いに伺うように見上げる。

確かに彼に関する夢を見たせいで、こうして今ここにいる。だが正確にはそれは、彼が悪いわけではない。彼が消える夢を勝手に見たのは自分。

彼はここにまだいるのに。手を伸ばせば、まだ充分抱き締める事の出来る距離に。

―――…だから。

「貴方こそ、また眠れなかったのですか? それとも悪夢にうなされて目が覚めましたか?」

彼の問いには答えずに、質問で返す。すると彼は曖昧な笑みを浮かべた。ただ、それだけだった。

その顔を見下ろして、しばらくお互いに言葉を無くし。

「…ま、いいでしょう」

軽く嘆息して彼の反応を咎める事を止めた。こちらも相応の隠し事がある以上、これ以上突っ込む事も出来なかった。

「それよりも体が冷えると余計に眠れなくなりますよ。部屋に戻りましょう」

だから手を伸ばして、誘う。

「ん」

けれども彼は笑みを浮かべるばかりで、差し出した手を取ろうとはしない。その曖昧な笑みがまた、こちらの不安を誘うものだと分かっているのだろうか。

「ルーク」

 今度こそ咎めるように名を呼んだ。

「ごめん、もう少し夜風に当たっていてもいいかな? 月も綺麗だし、さ」

「…ルーク」

 けれども一向に戻ろうという様子はない。そんな反応を見せられて少しいらっとするのは、あんな夢を見た所為だろうか。差し伸ばした手がまるで拒絶されたように思え、酷く心をざわつかせる。

 彼はここにいる。まだ、消えていない。

 それでも―――月明かりに照らされた青白い彼が、まるで消えてしまいそうだと思ってしまったから。

「―――消えませんよ、貴方は」

「ジェイド?」

「だって今もこうして、私の手の届く場所にいるじゃないですか」

 その手首を掴む。指で確かめるように触れると、指先に脈を感じた。急に掴まれた為に驚いたのか、やや早く感じる鼓動。それでも、確かに刻む規則正しいリズム。

今、確かに彼はここに在る。けれどもこの確かな存在でさえ、世界は無常に奪おうとするのか。まるで大気に溶けるように、この月明かりのように。鼓動も、体温も、その音素すら残さず。

「…ジェイド」

 すると彼がこちらの顔をじっと見上げた。見上げて、そして掴まれた手と交互に見比べて。

「―――ん…今は、ここにいる。ジェイドの傍にいるよ」

 笑って、自らこちらの体にそのやや高めの体温を保つ体を寄せてきた。手首を掴んでいた手を離すと抱き締められ、衿元に顔を擦り付けられる。

「俺はここにいるだろう?」

「えぇ」

「―――そんな事言ってジェイドこそ、怖い夢でも見たのか?」

 頷けば、ずばりと的を射た質問をされる。誤魔化そうかと思った。だがこちらを抱き締めたまま見上げる翡翠色の視線には、偽る気すら削がれてしまって。

「…そうですね。怖い…とても怖い夢を見ました。だから一人じゃ寝られそうにもありません」

「寝られそうにもないって…」

 正直に話せば、きょとんと幼い顔がこちらの顔を凝視する。その顔に答えるのは苦笑。けれどもその顔が余程酷い顔をしていたのだろうか。ふとルークが少しだけ眉を寄せた。けれどもその顔はすぐに笑みに変わって、仕方ねぇなあと呟くと、ぽんぽん、とこちらの背中をあやすように叩いてくる。

「怖がりなジェイドの為に、一緒に寝てやるか」

 すり、と一度衿元顔を擦り付けると、すぐに体温が体から離れる。けれども抱き締める代わりに握られた手の平から、その確かな体温は伝わってきた。

―――それと同時に小さな震えも。

「―――えぇ、ありがとうございます」

 指摘はしなかった。することは出来なかった。同じ事を考えて、同じ事に恐怖して、それでも言えなかった。

ただ礼を言って、その手の平を握り返す。彼の震えを抑えるように、自分に熱を知らしめる為に。

 その感覚すらも、彼がここにいるのだと分かる知らせ。

 それでもいずれ世界は、彼を略奪するだろう。

 悪夢が悪夢のままでいるならば、その方がどれだけマシなのか。現実を伴わない悪夢などに、この自分が恐怖する訳ないのだから。

「ルーク」

「何?」

 こちらを引っ張る手の先、彼のけして大きくはない背中を見て呼ぶ。呼ばれて、何でもないように振り返る彼。

その幼さの残る顔を見て思う。

 

 ―――あぁ、もし自分の目の前で彼が消えてしまったら。

夢の自分とは違い、目の前の現実を受け入れる事が出来るのだろうか。

それとも夢と同じように、いない彼を探して世界中を探し回るのだろうか。

そして何処にも彼がいないと思い知らされて、己の手から彼を奪った世界を……。

 

「―――いえ、何でもありません」

 答えるのは、笑みの奥にすべてを押し込んだ自分。

 彼はここにいる。

 それで今は、もう、いい。








暗かった…すみません。
どうもジェイドに感情移入しやすい私は、こういう話を書くと自分でへこみます。
こんなんジェイドじゃない…いや、うちのジェイドらしいというか。
やや裏にある音の檻のジェイドに通じるものがあります。
もしかしたら、あそこに至る前のジェイドなのかも