+貴方と在るべき場所:前編+ 体が酷く重たくて、頭がガンガンと痛む。体の何処かしこがまるで自分のものではないみたいで、何も知らないみたいで。 ―――それなのに左手に感じる温もりだけが心地よくて。 ただそれが何なのかを確かめたくて、重たい瞼に力を込める。が、なかなか思うようにいかない。 ああ、どうしてこう何もかもが欝陶しいのか。 「―――…っ」 「あ」 ようやく開いた瞼の隙間に光が射す。自分ではない誰かの声を聞いたような気がした。 ―――その次に見えたのは…赤。真っ赤とは言えない、揺らめく炎のような優しい赤と…驚き見開かれた翡翠色が徐々に開いた瞼の隙間に覗く。 「…ジェイド!」 その翡翠色と視線が噛み合うと、大きなそれからボロボロと液体が溢れ出した。 「良かった…良かった…ジェイド…!」 左手が温かいと感じたのは、彼が握っていた為だった。液体を…涙を溢れさせる彼が握ったこちらの手に、何度も何度も顔を擦り付ける。そんな涙が甲に触れる様を、まだどこかぼうっとした視線で見つめた。 ―――彼は何の為に泣いているのだろうか。 その意味さえ解らなくて、何も解らなくて。ただ、温いその液体が溢れるのを美しいと考えながら、酷く渇いた口で言葉を零す。 「…貴方は…」 「ジェイド?」 呼ぶ声。ジェイド…それが自分の名前なのだろうか。 「―――貴方は…誰なのですか?」 「…………ジェイド…?」 見開かれた大きな翡翠色の目から、涙が止まる。こちらが何を言っているのかわからないような顔をして見つめる彼。 自分だって、自分で何を言っているのか教えて欲しいくらいだった。 「記憶障害…多量の出血による意識の混濁が考えられますね」 医者だという男に色々と調べられ、出た結果は随分お粗末なものだった。 体が重いと感じられたのは貧血のせいらしい。目覚めた先程よりは意識がはっきりとしてきている。だがそれ以上は何もない。 自分の回りを囲む者たちは勿論、相変わらず隣にぴたりとついて離れない赤毛の子供の事も、何も思い出せない。 「もう一度、私が倒れる事になった原因を確認してもいいですか?」 一番年上だろうプラチナブロンドの青年を見て言えば、彼は頷いて。 「…移動中にオラクル騎士団のサプライズエンカウントに合った俺たちは、敵味方入り乱れた混戦に巻き込まれたんだ。そこで旦那とルークだけ離れちまって…ルークが言うには自分を庇って旦那が大怪我をしたんだと…」 「………」 「………」 ルーク、と言うのがこのずっと傍にいる子供の事を指すのは理解した。横でじっとこちらを見る彼を、自分もじっと見つめる。お互いの間の沈黙に心地よさを感じるわけもなく、逆に記憶を失った自分に彼が何を求めているのかが分からず、ただ、苦笑を浮かべるしかなくて。 自分は戦闘の混戦で彼を庇って重傷…多量の出血のショックにより一時的、或いは恒久的な記憶障害に陥っている、と。それが現状。 「…大体理解しました」 「怪我はナタリアの譜術で完治はしてるが…何か記憶喪失だってのに、旦那は普段と変わりないなぁ」 「そうですか?まあ…おたついて解決するような事でもありませんしね…」 そう、記憶を失ったからと言って、ただうろたえて治るような物ではない。幸か不幸か、失った記憶の程度が日時生活に支障をきたすレベルでということか。 「出血のショックから一部脳の機能に弊害が出ているのでしょう。体が健常に戻るにつれ、元に戻ると思われますが…」 「必ずしも戻るとは限らない、と」 「ジェイド…」 可能性の問題だ。 失ったものを取り戻すという行為は安易ではなく、むしろ失うことの方が簡単なのだ。 「―――ひとまず、今日は旦那の体の大事を取ってベルケンドに泊まろう。旦那の事は明日、グランコクマに戻って陛下に意見を伺って…」 「ご迷惑をおかけしますね」 「はは。話してるとホント、普段と変わりないんだけどなあ」 苦笑する青年の言葉に偽りはないだろう。自分でも何となくそんな感じはする。ぽっかりと抜け落ちているのは記憶。自分のおかれた境遇、過去、周りを囲む人々…そして、ベッドにへばりつくようにこちらを見上げる子供。 訴えかけるような視線が、酷く胸の内をざわめかせるようで。どうして欲しいのか、何を言って欲しいのか、今の自分はその期待に答える事は出来ないだろう。 だから声をかける事も、手を伸ばす事も出来ずに…ただその視線から逃れるように己の視線を反らした。 「貴方は行かないのですか?」 旅の仲間だったという彼らが宿へ戻っていくのに対し、赤毛の子供…ルークは自分の傍にいるのだと残った。そして仲間たちもそれを止めることはなく、今この白で統一された無機質な病室には自分と彼の二人きりだ。 ベッドの隣に持ってきた椅子に座って指を組み、ただ俯く彼との沈黙に耐えかね、思わず声をかけてしまった。すると一瞬嬉しそうな顔をするものの、すぐにその顔は曇り、ただ力なく笑みを浮かべる。 「俺のせいでジェイドが大変なんだから、何か役に立ちたくて」 「そんなに重度な看病がいるような状態ではないんですけどね。傷は綺麗に治していただけたようですし」 「う、うん…そうなんだけど…」 わき腹の辺りに違和感を感じるものの、支障をきたすレベルではない。むしろ目覚めた頃よりその違和感も少なくなってきていて、気になると言えば貧血の方か。だが血が足りないのならば食事を摂取するなり薬を飲むなりすれば、やがて元通りになる。 付きっ切りで看病されるような要因は、今のところ自身では思い浮かばない。 むしろ気にかかる事と言えば、 「迷惑をかけてますね」 「え」 「何か急ぐ旅の途中なのでしょう」 メンバーを見る限り、自分が一番の年長者のようで。こんな子供ばかりのパーティで旅をしなければならない程、切迫した理由があるのだろう事は理解できる。 それを自分の為に中断させてしまっている事も。 「そ、そんな事ないって! 一日や二日で滅びる世界じゃないって前にジェイドも言ってたし…」 「世界の命運をかけた旅なのですか? それならますます…」 「いいんだって! いいんだ…大丈夫だから」 まさかそこまで規模の大きな話だとは思わなくて、さすがに少々驚きを隠せない。だがルークという少年の様子から言って冗談を言っているようには見えなく、それならあのような無茶なパーティ編成も何処か納得できた。 その中に自分が含まれている事の方が納得できないのだが。 「やれやれ…これではますます私は足手まといですね」 「ジェイドは悪くないよ…俺が、俺があの時後ろに気付けなかっただけで…」 怪我をした時の事を思い出したのか、ルークの表情が曇天を通り越して雨へと変わりそうになる。翡翠色をした大きな目が潤み、そこからまた雫が零れそうになっていて。 「私は貴方をかばって大怪我を負ったのですよね」 「…うん…」 「ならばそれは自分の意思で起こした行動の結果です。別に貴方が悔やむ必要はありませんよ」 「でも…!」 「危険の迫っている子供を庇護するのは、大人の役目ですから」 ふと、その液体の溜まる目じりに手を伸ばしたい衝動にかられる…が、留める。何故そのような衝動に駆られたのか理解出来ぬのに、そうする事は出来ない。 するとぼろ、とその大きな目から一滴だけ涙が溢れた。 「何か、前にもジェイドにそんな風に言われた」 「そうですか…記憶を失っても私は私、と言う事でしょうかね」 言えば、泣きながらルークは笑みを浮かべた。その笑みはこちらの言葉を肯定しているようで、否定しているようにも見える。 何か重要なことを、もっとも忘れてはいけない事を、自分はきっと忘れているに違いないのだと、そのことだけは分かると言うのに。 「ジェイドはジェイドだよ…うん…変わらない」 「………」 かみ締めるように繰り返される言葉に、また胸がざわめいた。 真夜中ベッドに潜り込むものの、一向に眠気はやってくる事はなかった。 ショック状態に陥る程の怪我を負い、多量の出血による記憶障害…睡魔にさらわれても仕方がない状態の筈であるのに体は何故か睡眠を欲しない。自分の記憶が欠落しているのは既に理解した。それが自分ではどうにもならない事すら、納得したと言うのに。 ―――他に思い当たる原因と言えば…。 「………」 起き上がり、隣のベッドを見遣る。そこには丸まるようにして眠るルークがいた。シーツの端から赤毛だけが覗き、向こうを向いている為にその寝顔を見ることは出来ない。 傍にいる、と言った彼はベッドを用意してもらってそこで眠る事になった。本当は一人にして欲しい気分であったが、まるで目を離せば自分が消えてしまうのではないか、とでも思っているような様子に、仕方なく許してこうしてベッドを並べている。 まだ自分が原因で怪我を負った事に負い目を感じているのか、それとも以前の自分は相当この子供に懐かれていたのか。よく理解出来ない。 少なくとも自分は子供に好かれたり、好いたりするような性質ではないと思うのだが。 「…貴方は私に何を求めているのですか、ルーク…」 ベッドから抜け出しその傍らに立つと、穏やかな寝息が耳につく。ゆっくりと上下する肩の辺りを見て、その柔らかそうな髪に手を伸ばした時…、 「…め…なさい…!」 「…!」 急に上げられた声に伸ばしかけた手を止める。先程まで穏やかに揺れていた肩が強張って、がたがたと全身が震え出す。ぎゅっと丸めていた体を抱きしめて、ただ、ひたすらに。 「ごめんなさい…ごめ…なさい…! 俺が…俺が…」 「―――…」 「ごめんなさい…!」 聞いていて耳を塞ぎたくなるほどの悲痛な懇願は、何度も何度も繰り返される。こんな子供が夢にうなされるほど何をしたと言うのか。こんなにも小さく丸まって震えて…恐らく泣きながら懇願しているだろう程まで、一体何があったのか。 「…ルーク」 気が付けば、その震える肩に触れていた。そのまま上から覆い被さるように抱き締めて、震えを無理矢理抑えるように腕に力を込める。 「―――ルーク」 「…ぁ…ジェイ、ド…?」 耳元で呼び起こすように名を呼べば、びくりとしてルークが覚醒した。 「…大丈夫ですか?」 肩越しに振り返る顔に聞けば、その泣き腫らした目を驚愕に見開いて。 「な、んで…こんな事して…」 わななく唇が震える声を発する。まるで、自分にこうされた事をあり得ないとでも言うように。 だがその答えを、自分は持っていない。 「…さあ…ただ、何となくそうするべきだと思いましたので…」 震えの収まった体を解放し、それでも離れる事が出来ずに彼のベッドの縁にと座る。するとようやくこちらを見上げるように仰向けになったルークが、ごし、ともう涙の跡も乾きかけた目元を擦って言う。 「さっきのあれ…」 「はい」 「あれはいつもの事だから…気にしないでくれ」 「いつもの事なんですか、あれが」 問えば、力ない笑みが浮かんで、頷く。 「ん…俺への罰だから…だから、仕方ないんだ」 ―――罰。 罰があるなら罪がある。幼い子供が悪夢にうなされる程の罪。ただひたすらに懇願し、けれどもその罪に許しを請う事はしなかった。 「ごめん、もう大丈夫だからさ…起こしちゃって悪かったな」 「えぇ。構いません」 「ん」 そう言えば、またへらりと力なくルークは笑う。 理由は聞かなかった。だがそれを知らないと言う事が胸の中でもやとなって渦巻く。 恐らく記憶の失う前の自分は知っていただろう、彼の罪。彼の言葉からすれば、恐らく毎夜のようにうなされているはずだ。 その理由を知らないと言う事が、意味も分からなく自分の中で苛立たしい。 ―――それを知っていた自分は、そんな彼に対して何をしていたのか。 「おやすみなさい、ルーク」 「おやすみ…ジェイド」 大丈夫だという彼を置いて己のベッドに戻り、リネンに包まると彼に背を向ける。 ―――抱き締めた腕に、彼のぬくもりと震えの感触が残っていた。
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