「大佐ってば、遅いですわねぇ」

「ちょっと執務室に寄ってくるから、買い物しながら先に街の出口で待っていてくださいって言ってたのに〜」

 待ちぼうけ、と言ってもここにたどり着いてからはそんなに時間は経ってない。けれど買い物をしていた時間を考えると、戻ってこないしては少し遅すぎる。

「俺、ちょっと見てくる!」

 

+安上がりな恋+

 

 マルクト帝国:帝都グランコクマ――マルクト軍基地本部。

 グランコクマを訪れる際に何度か入ったことのある大きな建物の奥に、ジェイドの執務室があった。

(扉が少し開いてる…)

 いつもは扉の脇にいるはずの兵士もいなくて、代わりに閉じられているはずの扉が少しだけ開いていた。明かりもそこから漏れている。

「………?」

 ルークはそっとその隙間から中をうかがう。

 ―――ジェイドがいた。一人だ。

 机に向かって、何やら難しい顔をしている。まだ用事が終わっていないのだろうか。

「………」

 声をかけるべきか迷う。中へ入るか、このままここで待つか。それとも皆のところへ戻って一緒に待とうか。

 そんなことをぐるぐると考えていると、ふと、ジェイドが顔を上げた。上げた顔は、こちらを見ている。

「―――ルーク?」

「っ!」

 びくっとしたせいで、肩が大きく揺れた。その様子もしっかり見た後で、彼はにっこりとこちらに微笑みかけて言い放つ。

「覗き見なんて、行儀が悪い子ですね?」

「ご、ごめん」

 しかられた、と思い、きゅっと身が縮こまる。やっぱりどうせ見つかるんなら素直に入っておけば良かった。

 うつむいて、今更ながらに反省するルーク。それを笑顔で見ていたジェイドの顔が、ふと緩んだ。ルークにだけ見せる、優しい笑顔。

「迎えに来てくれたんですね?」

「う、うん。ジェイドが帰ってくるの遅いから…」

「すみません。久し振りに戻ってきて、部屋の汚さに閉口していたものですから…」

 扉から体だけ入れて見回せば、なるほど、あちこちに本が散乱していて、とてもジェイドの部屋とは思えない。

「私が留守の間に勝手に陛下が入ってきているようですね。まったく、用もない書物をよくもこう散らかせるものです」

 そう言って溜息をつく彼。どうやらもう覗き見していたことは怒ってないらしい。

「入ってもいいか…?」

「えぇ、どうぞ」

 それを顔色で確認して言えば、あっさりと許された。

 ―――皆で入ったことはあるが、ジェイドと二人きりでこの部屋にいるのは初めてだ。確かに汚く散らかっているが、本がたくさんあることと、それらがまた小難しそうなタイトルがつけられていることのすべてが、ジェイドという人間を連想させる。

なにより…部屋に染み付いた匂いがジェイドのものだ。無頓着そうでいて、結構身なりには気を使っているジェイドの使うコロンの残り香だ。それは主が長期不在の今も変わりないらしい。

女性の使うきつい香りの香水はあまり好きではないルークも、このジェイドの使う香水の匂いは好きだった。少し辛くて、そのあと少し甘い、そんな感じの匂い。

「仕方ない。皆を待たせるのは忍びないので、今日はこのままで行きましょうか。どの道片付けても、また散らかされるのが目に見えてますし…」

「………」

「ルーク?」

「…え、あ?」

傍にいて嗅ぎなれた香水の匂いに何故だか安堵していると、不意に呼ばれて驚く。と言うか、先ほど何か言っていたのも聞いていなかった。

「行きましょうか、と言ってるのですが…何か気になることでも?」

「あ、いや…なんかジェイドの部屋だなーって」

「おかしな子ですね。まあ部屋と言っても、あまり執着のあるような物でもありませんが」

まさか匂いを嗅いでいたなんて言えなくてごまかせば、彼は肩をすくめて苦笑する。

―――けれど本当に、何故だか落ち着く匂いなんだ。普段の生活でこんなにも匂いというものを意識したことはないのに。

「行きますよ、ルーク」

「………」

「……ルーク?」

「ん、わ、あ、何?!」

ぼんやりとそんな事を考えていたら、またも声をかけられていたのを聞き逃したらしい。しまったと思った時にはすでに遅く、じいっと彼の視線がこちらを捉らえていた。

「さきほどから何か様子がおかしいですね…私に何か隠し事をしていませんか?」

「そ、んな事ないよ」

「…本当ですか?」

ずい、と顔を覗きこまれ、逃げるために体が引く。それなのに尚距離を詰めてくるジェイドに、逃げること数歩。やがて本棚が背中に当たるまで追い詰められてしまった。

身長差からそこまで追い詰められると明かりが遮られ、やや暗い。ジェイドの顔が逆光の中に、笑う。

「―――ルーク。私に隠し事なんてしてもよいと、いつ許しました?」

「っ、べ、別に隠し事なんてない…」

そこまでしつこいと、逆に普段なら言っても何でもないような事ですら、何故だか言いにくくなる。

ルークはその笑みから逃れるように視線を外した。すると頭上から聞こえた、眼鏡を押し上げる微かな音。

「…ルーク?」

あ、この呼び方はまずい。経験と本能が警鐘を鳴らすが、事は既にもう遅い。

「…ご、ごめ…」

「素直じゃない子にはお仕置きが必要ですか?」

「ジェ、ジェイド…!」

慌ててあやまって観念しようとするも伸びて来た腕に捕まり、本棚とジェイドに挟まれてしまった。のしかかるようなジェイドを受け止め、背後でぎしりと本棚が軋む音を聞く。

「私の言葉を聞き逃すほど上の空になるなんて、何を考えていたんですか?それは私の言葉よりも大切なこと?」

「……っ…」

耳に直接息がかかる程の距離で囁かれる、低く甘い毒を帯びた声に肩が震える。

彼は別に怒っているわけではない。というより単にこちらが気になっているからこそ、こう言う手段に出てきていると言うのは頭では理解している。正直に言えば許してくれるだろう事も。

…けれども。

(ジェイドの匂いが近い…)

あんな事を考えてしまった後だからだろうか。詰め寄った距離では、まるで嗅ぎ慣れた匂いに抱かれているようで。

(こんな状況なのにアレだけど…なんか安心する…)

ジェイドがこちらの顔を見れない位置にあるのをいいことに、思わず目を閉じて身を任せてしまった。すると…、

「―――これでも一応追い詰めていたつもりなんですが…まさか、この状態で肩の力が抜けるとは思いませんでしたよ」

「あ」

聞こえた苦笑混じりの声。安堵して、体の力が少し抜けたのが分かってしまったのだろう。その言葉の後、本棚に追い詰めていた腕が体に回り、緩く抱き締められることで支えられる。

「どうせ安堵するならばこの方が自然でしょう?ルーク、理由を教えてくれますか?」

「う、うん…」

問われ、この状況なら素直に話すことができた。

自分の知っているジェイドの匂い。それがあまり知らないこの部屋に満ちている、そう思っていた事を。追い詰められて、より近い場所でその匂いを感じ、何故だか安心してしまったと言うことを。

それをしどろもどろになりながら説明すると、彼は頭上で嘆息し、。

「そんな事を…」

 と呆れた声を上げた。

「い、言えないだろ…なんか動物みたいだし…匂い、とか…そんなの…なんか変じゃん」

 言いながら、だんだん自分でもよく分からなくなってくる。

抱き締められている事で、自分の周りは大好きな彼の匂いで満たされている。そんな事を思っていたことを知られてしまって恥ずかしいと思う反面、現状は酷く心地良くて、幸せで。あべこべな自分に混乱するばかり。

自分はただ、なかなか帰って来ない彼を迎えにきただけなのに。

「…本当に貴方は安上がりな人ですね」

 そんな状態のルークを察し、彼は更に呆れて笑う。

「や、安上がりで悪かったな!」

「私ならもっと多くを望むのに」

「?」

「…ね?」

「!?」

言うなり、ちゅ、と小さくキスされた。

「―――せめてこれくらい、欲深くないと。まあこのレベルだとするならば、ずいぶんと安上がりなものですけどね」

「〜〜〜〜!」

 不意を打たれて、何も言い返す事が出来ないルークを、ジェイドはあっさりと解放した。その顔は飄々としていて、…ルークはまた一つ弱点を握られたことを理解する。

「…さて、そろそろ戻らないとアニスがうるさいですね」

「誰のせいで余計な時間がかかってんだよ…」

「おや、事の発端は貴方なのに?」

「………」

いや、訂正。

 今更握られた弱点の一つや二つ増えたって、彼を好きな自分は彼には勝てないのだから。







大佐は大人の男だからコロンくらい付けてるだろー、と思い執筆。

香水の匂いってあんまり好きじゃなくても、好きな人のは別格なんです。
一緒に寝てたりすると、きっと無意識にすりすり寄ってっちゃうんですよ!