+月の雫:第四話+

 

 

 

 

 

「ルーク様、ルーク様。起きておいでですか?」

―――時刻はもう深夜。

普段なら眠っている時刻だが、あんな事があったばかりで妙に神経が興奮しており、ルークは寝付けないでいた。結局アッシュは帰って来ず、隣の部屋に気配はない。

ぼんやりとベッドに寝転がってぼうっと天井を眺めていた所、扉を叩かれた。

「起きてる。何だ、こんな夜遅く…」

上半身を起こし、開かない扉の向こうを見る。声の主は執事のラムダスだ。声を潜めているのは夜も遅いからだろうか。

「旦那様がお呼びです。お出かけの支度をしておいで下さい」

「出掛けの支度?」

「チェストの最上段に用意してございます…お急ぎを」

「?」

しかしラムダスはいつものようにお小言を零す事なく、それだけ言って部屋の前から立ち去った。

(こんな時間に出掛ける支度?)

ルークは多少不審に思いながらも、ラムダスが言った通りチェストの一番上の段を開ける。するとそこには見た事がない新しい服が用意してあった。

「…?」

訳も解らず袖を通し、出掛けの支度として腰に剣を携える。それだけで気持ちが引き締まるが、状況が理解できない今は不審と不安の方が大きい。

(こんな時間に…何の用だろうか)

父がルークだけを呼び付ける事など滅多にない。

(今度の勅命の事かな…)

ルークは一度ぐるりと部屋の中を見渡すと、父が待っているだろう居間へと早足で向かった。

 

 

 

「ルークです。ただ今参りました」

「入りなさい」

控え目のノックに、中から夜遅くとも変わらない張りのある声が応え、ルークは妙に緊張した面持ちで扉を開けた。

この奥は食事をする食堂になっている。多忙な父や、それに着いて回るアッシュ、そして病弱でほとんどベッドで過ごす母。家族一緒に食事を取る事なんてほとんどない。いつも執事やメイドに囲まれて一人で取る味気ない食事ばかりが、ルークの記憶にこびりついていた。

そこは一人で食事を取るには広すぎる部屋…しかし扉を開けたルークの視線の先には、父の姿とは別に、見慣れない後ろ姿を映した。

(あ)

しかしすぐに思い当たる。

(確か、ジェイド…カーティス)

マルクトの使者として、謁見の間にいたガジュマの一人だ。しかしあの時見たのと同様、見た目はまったくヒューマと変わりない男は、肩越しに食堂に入って来たルークを見て、軽く会釈をして見せた。ルークも軽く会釈をして、父の前に出る。

「支度は済ませたようだな」

「あの、これは一体…」

確か昼間城に行く前は、チェストの中にこんな服は入っていなかった筈だ。それにここに彼がいる意味も解らない。いくら和平を結ぶからと言って、マルクト嫌いの父が屋敷にガジュマを招くなんて想像もつかないからだ。

「お前を呼んだのは他でもない」

「?」

しかし父はルークの質問に答える事はせず、ちらりとジェイド・カーティスに視線を配り、そして厳しい視線でルークを見据えて言う。

「お前には今すぐ陸路でマルクトへ向かってもらう」

「え」

思わず耳を疑った。

「い、今すぐ? だって伯父上はアッシュと一緒に海路だって…」

「アッシュは海路で行く。お前は夜が明ける前にバチカルより離れるんだ」

ルークに有無を言わせない。しかし突然言い渡されたルークは理解出来ず、ただ困惑するばかりだ。

「どうして…!」

こんなにも急に、まるで人目を憚るように。

キムラスカとマルクトを和平で繋ぐ親善大使とは、仰々しくも華やかなものではないのか。アッシュが心配していた暗殺という不安があるものの、多くの兵を従え、海路で行軍していく手筈ではないのか。

「今回、和平使節団のマルクト来訪において、早くもキムラスカ内部強硬派の不穏な動きが見られるのだ」

「!」

それは和平を快く思わず、戦争による利潤を求める者達だ。

「キムラスカの内部だけではありません。マルクトにもこの和平交渉を快く思わない強硬派が存在します。存在そして彼等もやはり、邪魔をせんと暗躍し始めている」

「…キムラスカだけじゃないのか…」

「嘆かわしい事ですが」

「―――…」

ルークは胸の奥が苦しくて俯いた。アッシュの心配が杞憂ではない事が証明されたのだ。間違いなく親善大使として、自分たちは危険な立場だと言う事が解ったのである。

―――気分が悪い。

ルークは胃の奥に何か冷たいものが流れ込む感覚に息を詰めた。

「奴らの一番の目的は新書だ。親書が届かないと和平交渉は何も始まらないからな…だから親書を何としてもマルクトに届けなければならん。そこで親書を二つに分ける事にした。キムラスカ王国の親善大使として、大仰に海路を行くアッシュを囮に、陸路を目立たぬようお前が本物の親書を運ぶのだ」

しかしルークのそんな様子などファブレ公爵は気にも留めない。

「あくまで秘密裏に運ばねばならん。陸路でマルクトに向かうには砂漠を越えねばならない為に辛い旅になるだろう」

「………」

「行ってくれるな、ルーク」

厳しい視線に見据えられ、ルークは息を飲み込んだ。

すべての目を欺いてマルクトへ向かう旅は、きっとルークの想像もしないような苛酷な旅となるだろう。何度も読んだ旅行記に、砂漠を旅するには数多くの危険がある事も重々記されていた。街の外には魔物だけでなく、野盗など金銭目的に旅人を襲う者達もいると聞く。

加えていつ親書を狙う強硬派に襲われないとも限らない―――。

(もしかしたら…俺も…)

誉れ高い使命だ。認められなければ任されるものでもない。世界の命運をかける程の重要な使命…だから、認められた事が嬉しく、誇らしかった。

(死にたくない…けど、俺は…)

 

「―――…行きます」

 

アッシュ程頭も、剣技も、父の信頼も、何一つ優れたところなんか自分にはない。このまま母のように、国の繁栄の礎となって生きるしか己の道はないと思っていた。

しかしそんな自分に、突如として示された最初で最後のチャンス。この機会をみすみす棒に振る事は、己の人生を棒に振るのと等しいだろう。

国の為に己を殺し生きるか、己の大義に自ら死地に向かうか。

本当の戦場で自分にそんな価値も勇気もない。けれど、今は。

「行かせて下さい…俺、この命にかえても親書を皇帝陛下の元に届けてみせます…!」

今この時しか、自分の存在価値を見出だせない。

「よくぞ言った。それでこそキムラスカ王家に連なりしファブレの男児。命を賭して使命を全うせよ」

「はい」

差し出した手の上に、確かにインゴベルトの蝋印が押された封書が渡される。命より大切な物だ。無くしてしまわないようルークは大切に、懐に封書をしまった。

「さて、ではよろしいですか?」

大切そうに封書のある辺りを押さえるルークに、それまで黙って事を眺めていたジェイド・カーティスが待っていたかのように口を開く。

「道中護衛させて頂く責任者として、改めてルーク様にご挨拶をさせて頂きたいと思いまして」

「え、マルクトが俺を…?」

ぱちくりとルークは瞬く。

「この極秘作戦に、ファブレ家の白光騎士団を含めキムラスカの兵は使えません。我々が帝都まで御身をお守り致します」

恭しく頭を垂れて見せる男に、ルークは不安げな視線を父に寄越す。自分はキムラスカの人間でキムラスカ兵と共に行くものだとばかり思っていた。

「キムラスカの兵が優秀なのは存じておりますが、何分国交の塞がれたマルクトへの道中。我々ガジュマの方が土地勘があります故、道中お守り致しますのに相応しいかと思います」

言葉遣いは丁寧だが、節々に慇懃無礼な雰囲気が漂う。その違和感を感じ取ったルークが眉をしかめると、不意に父が皮肉げに笑った。

「…とんだ謙遜だな。戦時中、ローテルロー橋で我々キムラスカ軍に辛酸を舐めさせたマルクト軍第三師団師団長…ジェイド・カーティス大佐が何を言う」

「……あ!」

マルクトとキムラスカを結ぶ唯一の橋、『ローテルロー橋』。その名前が出た事で、ルークは引っ掛かっていた『ジェイド・カーティス』という名前に思い至った。

実際戦争が終わる原因だったと言われる、近代史上最大規模で最悪の犠牲を払ったとされる『ローテルローの戦い』。大陸と大陸を繋ぐ唯一の橋を挟み、父率いるキムラスカ軍がマルクト軍と衝突し、決着が着かないままダアトでの停戦協定に持ち込まれた戦いだ。

しかしその戦いのさなか、父の師団はマルクト軍の第三師団に大きな痛手をおわされたと聞く。その第三師団を率いていたのが…。

「死霊使い…!」

 思わず口にすれば、男は笑みを浮かべる。

「おや、ご存知とは光栄ですね。どうぞ道中よろしくお願いします」

ローテルローの戦いは決着こそ着かなかったものの、キムラスカが僅かに劣勢だったのはルークも知っている。そしてその事が父のマルクト嫌いに拍車をかけた事を。

しかし場違いな程ににこやかで胡散臭い笑みを浮かべて差し出された手に、ルークは父の視線を気にしながら己の手を重ねた。そうして触れた手は自分と変わらない…一回り程大きな手の平だった。

しかしその握られたと思ったときには、既にジェイドはルークの前に片膝を着いていた。そのまま掴まれた手の甲に膝を着いた彼の髪が触れて、

「―――貴方が命を賭けて親書を守ると誓ったように、私も命を賭けて貴方を守りましょう」

「!」

薄く、柔らかなものが触れた感触に、ルークは慌てて手を引っ込めた。古臭い、騎士が忠誠を誓うポーズだが、手の甲は女性に対する時だ。

勿論これはキムラスカ流なので、マルクトでは反対なのかもしれないが。

「マルクト皇帝の懐刀たる死霊使いが仇敵の王家に連なる者を命を賭けて守る…か。皮肉なものだな」

「………」

皮肉。父が意にもかけないといった様子でぼそりと零す。それは勿論ジェイド・カーティスの耳にも届いただろう。

しかし顔色一つ変えない彼は眼鏡押し上げ、

「マルクト帝国皇帝ピオニー九世陛下の命であれば、何なりと」

「―――…」

さらりとそう言って見せる男を、ルークは不思議なもののように見つめた。国に忠義を立てる軍人としては、絶対服従の精神は鏡のような姿勢だろう。しかし目の前の男からは、どうにもそれだけではない何かが感じられるのだ。

(なんか得体が知れない…)

ガジュマであるのにヒューマにしか見えない所も、貼り付けた笑みが胡散臭い所も…手の甲にキスした事も。

しかしこれからは彼を信じていかなければならない。誰の目にも、ルーク一人の力では到底マルクトにたどり着く事など出来ないと分かるのだから。

 

 

 

「では、参りましょうか。バチカルを離れ、砂漠へ向かう森の入口で部下たちと合流する手筈になっています」

見送りなど誰もいない。若干東の空が白み始めた時刻、ついさっきまでルークたちがいたバチカルの上層は既に朝靄に包まれ、その全容を視界に収める事は出来なかった。

(そう言えば母上との約束…)

出る前に兄弟揃って会いに行くという約束も、果たされぬままだ。

(俺が危険な陸路をガジュマと一緒に旅立ったって知ったら、母上はまた伏せってしまうだろうか。アッシュが何とか慰めてくれればいいんだけれど…)

「…おや、もう帰りたくなってしまいましたか?」

じっと歩き出せずに見上げていると、少しからかうような言葉が頭上から降ってくる。お互い目立たないようにマントを羽織っているが、まだ明け切らない宵闇の中、彼の蜂蜜のような髪はきらきらと僅かな星明かりを拾っては輝いていた。

「…少し…残して来た母の事が心配なだけだ」

「母君はお体が弱かったんでしたね」

「よく知ってるな」

「我が軍の諜報員は優秀ですから」

「………」

やはり胡散臭い。そんなスパイの話を笑顔でよく言えるものだ。

(スパイと言えば…あのガジュマ)

数日前に森で出会った美しい獣。あれがガジュマである確証など何もないが、スパイがいるならあれがマルクトのガジュマである可能性は低くないだろう。

それはジェイドの髪が、あの獣の毛皮の色を彷彿させるからだろうか。

(けれどもジェイドは全然ガジュマっぽくないんだよな)

 ジェイドに聞けば、あの獣の事も何か分かるかもしれない。しかし整い過ぎた、そう言っても過言ではない容姿の男は、不躾に見つめるルークの視線を、ただ微笑んで受け止める。その視線に晒されていると、何故だか言葉が出なくなるのだ。

(その内聞く機会もあるよな)

 何せ、マルクトまでの道のりは遥か遠いのだから。

「行こう、カーティス大佐」

「ああ、ジェイドで構いません。あまり大仰にしていては目立って、強硬派の追っ手に見つかりやすくなってしまいますよ」

「あ、なるほど」

それは一理ある。何せ親書を運ぶ極秘の旅だ。目立つのは

避けたい。ルークは親書を隠し持つ腹部を、マントの中で確認するように押さえ、納得して頷いた。

「そっか、そうだよな。…じゃあ俺もルークでいい」

「はい、ルーク」

許せば、そう呼ぶジェイドの笑みが深まる。なんて綺麗に微笑む男だろう。

(でもなんか作り笑いみたいだ…)

まるで作り付けられたように張り付いた笑みに違和感を覚えつつ、ルークは今度こそ朝靄に煙るバチカルに背を向けたのだった。