「某国の旧研究所が稼動している? それは本当なんですか?」
『―――ああ、間違いねえ。ライフラインの復旧と物資の搬入が確認できた。まだ内部までは確認できてねえが、恐らく地下の施設は完全に稼動している』
「………」
 定例会議の終了を待っていたかのように入った総士宛ての秘匿回線は、日本語で話す、やや乱暴な口調の成人男性の声だった。映像はない音声オンリーの通話は、若干のノイズが混じる。盗聴を防ぐ為に多くの回線を渡って繋がっている為、どうしても精度が落ちるのだ。
 それでも言っている内容は伝わり、そして総士を大いに驚かせた。
『お前は何も聞いていないのか?』
「父からは何の連絡もありません」
 日本に来てからというもの、仕事の関係で週一に報告書をメールで送信はしているが、直接会うどころか、電話でのやり取りすら数年で片手を数える程しかない。向こうのスケジュールを把握することは簡単だが、その通りに行動しているか否かは確認のしようがなかった。
『となると何か裏がありそうだな。それが日本に移転するにあたって、全権はお前さんに委譲されただろ?』
「ええ。ここでの最高責任者は僕です。――-ただそれは『ここのだけ』、と言えもします」
 言った言葉には明らかに含みがあった。
 世界的な製薬企業アルヴィス。もちろんこの日本支社にも『日本支部代表』と呼ばれる者がいる。また代表だけではなく、基本日本支部の運営は総士以外の経営陣によってなされていた。だがそれはあくまで表向きの役職に過ぎず、言ってしまえば総士の代理、傀儡とも言えるべき存在たちだ。CSRI内部だけではない。このアルヴィス日本支部内のすべての決定権は常に総士にある。
 だがそれも通用するのはこの国の中のみであって、この某国の本社…父親の威光の強いところまではほとんど手を出すことができないのが現状だ。アルヴィスにとっては中枢とも呼べるCSRIを管理する立場ではあるが、トータルで見ると『アルヴィスそのもの』すべてを任された訳ではないのだ。
 だからこうやって、信頼できる自分の力の一端を相手の懐に潜り入れ、常に動向を探っているのである。しかし今日はその定期報告の日ではない。この報告は、総士にとって予想外のものだったのだ。
『ふむ、なるほどな……まあいいさ。もちっと探りを入れてみる』
「すみません、お願いします溝口さん」
『まー、あれだ。危ないことは大人にまかせとけってヤツだな。また何かわかり次第報告する。それと、一応お前さんたちも気をつけてろよ。秘密主義は相変わらずだが……何だかきな臭い匂いがする』
「―――はい」
『あの時のあれは事故だってことになっているが……』
「………」
 あの時、と聞いて、わずかに左目の傷が疼くような気がし、手が自然と左目を庇うように持ち上がる。が、すぐにそれに気が付いて触れることなくその手を下ろした。
 怪我は完治しており、今更痛みなどありはしない。ただ時折、幻痛と呼ばれるものを感じることはある。今のも恐らくそれだ。
 もちろん、そんなことなど通話の向こう側には微塵も伝えることはしない。 
「あの時の事故調査書は僕も見ました。もっとも改ざんの余地ならいくらでもできる、そんなお粗末な調査書でしたが」
『ああ、ありゃ怪しんでくれと言わんばかりだったな。けど逆を言えば『わかってても首を突っ込むとただじゃ済まないぞ』って脅してるようなもんだ』
 どうやら通話の向こう側の溝口には伝わらなかったらしい。代わりにこちらの言いたいことは言わなくても十分と伝わったようだ。
 そうだ。あれは事故ではない。あの時、あの場にいた総士はあの惨劇を目の当たりにしている。そしてそれは溝口も同じだった。だからこそ、今起きていることの重大さが、その意味がお互いに通じる。
「溝口さん、旧CSRIについてもっと多くの情報がほしい。頼まれてくれますか?」
 そう、総士が言うことすらも。
『りょーかい、任された。―――ああそうだ、一騎は元気か? よろしく言っといてくれよ』
 それと帰ってきたらまたカレー作ってくれってな、とそう最後に言ってぶつんと通信は切れる。その後はただザー、という砂嵐のようなノイズしか出さなくなった回線の電源を落とすと、一人部屋に残された総士は大きく息を吐き出して目を閉じ、ゆっくりと椅子の背にともたれかかった。
(また僕の知らないところで、何かが始まっているのか…)
 この研究所の前身である旧CSRI。総士と一騎が幼い頃過ごした思い出の場所でもある。だがその思い出の場所はもうなくなった筈だ。あの日、七年前に、すべてが瓦礫に埋まった筈だった。
 父が、あの男があのまま大人しくしているとは総士も思ってはいない。だが、あれからまだたった七年…もう七年経つのだ。
(旧CSRIの稼働…あのままだとは思っていない…しかし僕の予想より早かった―――だが)
 溝口の報告は、総士にとってまったくの予想外ではなかったのだ。だが予想していたよりも時期が早かったのは確かだ。そのことに少しだけ動揺はある。
 また総士の知らないところで、何かが動き始めている―――溝口の知らせてくれたことで、それがわかった。それだけでも大きな収穫だ。
「…アーカディアン・プロジェクト…」
 ぼそり、とその名を呟く。あの日、某国CSRIと共にたった二つの成功例を残して消えた、神を冒涜する人類の計画。
「あの人は一体何を考えているんだ…」
 総士の記録する記憶の中に、今はもうないあの『箱庭』は未だ存在し続けている。病的なまでに白い部屋と、中庭に差し込むただ唯一の地上の光。自分を囲む大人たちと、そして。
「一騎…」
 自分のことを『守る』と言って笑う子供の顔が閉じた瞼の裏に浮かぶ。そしてそれは血濡れになっても変わらなかった。そして今も、ずっと変わっていない。
 もう二度と、失わない。失わせないと失った光と引き換えに誓ったのだ。
 その為にもう、自分は間違わない。知り過ぎているからこそ、知ろうという気持ちを蔑ろにしすぎていた自分。その所為で一騎を一度失いかけた罪。今一騎が傍にいてくれるのは、多くの偶然の上に成り立った奇跡の上にある。
 二度と、繰り返さない。
 だから、間違えない。
「……行くか」
 しかし現時点で考え得ることなど、所詮想像にすぎない。いまわしきアーカディアン・プロジェクト―――あれが再び繰り返されるには、リスクがすぎるものなのだ。
 深く身を沈めていた椅子から腰を上げると、総士は一人、最後まで篭っていた会議室を出る。すると目の前に、
「総士!」
「……一騎」
 会議室前の自販機やベンチを置いた休憩スペースに、一騎が待ち兼ねていたかのように座って待っていた。そう言えばホールで別れて4時間は経過している。一騎の定期検診などとうに終わっている時間だ。
 しかしそこで総士を待っていたのは一騎だけではなかった。
「相変わらず仕事熱心ね。でも、あまり根を詰めすぎるのは、いくら総士君にしかできないことでも感心しないわ」
「遠見先生」
 一騎の隣に白衣姿の女性がいた。
 遠見千鶴。竜宮総合病院の医師であり、このCSRIで遺伝子工学の権威として研究する研究員の一人だ。そして、一騎と総士の主治医でもある。
「それに一騎君も心配するしね」
「―――遅くなってすまない。少し、精査する事案が多くて時間がかかった」
 総士はしれっともっともらしい嘘をついてみせる。
 例のことはまだまだ未確定な要素が多すぎて、話すレベルまで達していない。今ここで無駄に一騎を不安にさせる必要はないと考えたからだ。
「別に俺は大丈夫だけど…」
 二人分の視線に一騎は居心地が悪そうに身をよじった。一騎はこういうことには決定的に鈍い。どうやら総士の嘘には気付いていないようだ。しかし気付いていないとは言え、一騎の為とは理解しつつも一騎に嘘をついたという現実が総士にはどうしても後ろめたい。
 ここにいると嘘が多くなる。総士はまだ一騎には話していない、明かしていない、たくさんの嘘がある。それはこのまま明かさないでいられたらどんなにいいか、そんな嘘ばかりだ。ここにいるとそれを囲っているものが剥がれやすくなるような気がした。あんな報告を受ければ尚更。
 だから早く家に帰ろう。一騎もそう思ってここで待っていたに違いない。
 しかし普段は研究室にいる遠見先生がここでわざわざ総士を待っていたことに、総士はその意図を理解する。どうやらまだ家には帰れない、と。
「一騎、僕もコーヒーが飲みたいな」
「あ、じゃあ今買って…」
 ごそ、と小銭を探って自販機で買おうとする一騎を、総士は緩く首を振って止めた。
「缶コーヒーじゃなくて、お前の煎れたコーヒーが飲みたいんだ。駄目か?」
「…っ」
 じっと見つめて『お願い』をする。長い付き合いだ。一騎が総士の『お願い』に弱いのなんて、とっくに総士は知っていた。
「〜〜〜わかったよ。ちょっと給湯室借りてくるからここで待ってろ」
「ああ。ありがとう、一騎」
 最後に絶対自分が戻ってくるまでここを離れないことを言い付け、一騎はこの会議室を回った反対側にある給湯室へと向かっていった。
「早く帰りたいでしょう一騎君に悪いことをしてしまったかしら?」
「一息つきたかったのは嘘じゃあありません。それに、一騎の煎れたコーヒーを飲むと、生半可なコーヒーは飲めなくなりますよ」
 お世辞ではない。実際総士の体はそんな風になってしまった。
 さて、これで一騎がコーヒーを煎れに行く15分は時間を作れた。総士はあたりに人影がないのを確かめ、遠見先生の隣に腰を下ろす。すると目の前にさっと電子ペーパーが差し出された。
「今回の一騎君の検査結果よ。前回から少し時間が空いてしまったけれど、特筆して問題点は見られないわ」
 電子ペーパーに記されているのは、詳細な検査結果だ。各種身体データはもちろん、ありとあらゆる数値が細かく記され、総士はそれを過去のデータと記憶の中で照らし合わせていく。二週間おきの定期検診を一騎に課しているが、遠見先生の言う通り、記憶の中の記録との差異はほとんどない。
 そうして目で追っていく検査結果の締めは数値ではなく、カウンセリングをも自らで行った遠見先生の感想で結ばれていた。
(日本に来た当初より、内向的だった人格がやや外向的に変化しつつあるのはいい傾向、か…)
 指でタッチパネルを弾き、次々と情報を頭の中へ流し込んでいく。するとその様子を眺めていた遠見先生が、ふと独り言のような調子で言った。
「―――総士君が懸念している細胞の活性率は、ここのところ平常…普通の人間よりやや高いくらいね」
 それは電子ペーパーには記されていない情報だ。正確な数値の書かれたメモらしき走り書きを、そっと直接渡される。総士はそのメモに視線を走らせ、記憶し、そしてすぐさま遠見先生へと返した。
「これも総士君が一騎君を日本に連れてきた成果が順調に出ている証拠ね」
「僕だけじゃない。僕たちの事情を知って、遠見先生や溝口さんたちが僕らに協力してくれるからです」
 大人に囲まれ、大人を欺くことなどたやすい総士にとって、それは心からの言葉だ。
 言われるがまま知識を詰め込み、頭でっかちになり果てた子供は、自分の頭脳さえあれば何でもできると信じていた。大人は誰一人として信用できない。だからあの場にいる唯一一騎と同じ子供である自分一人の力があれば、この詰め込まれた頭脳さえあれば、一騎を解放してやれると思い込んでいた。
 けれどもその結果危うく一騎を失いかけ、今こうして数多くの嘘で囲みながら一騎を自分の隣に押し留めている。そしてそこには数少ないが、信頼し、その力を頼りにできる大人たちの力があることを、今は痛い程理解していた。
 しかし、それでも。
(最終的に頼りになるのはやはり…)
 機能を復旧させているという某国の旧CSRI。
 そこでもし、また同じ研究が行われているとしたら―――…?
「一騎君の回復力は細胞を一時的に極度に活性化させ、新陳代謝を急激に高めることで行われるわ。あの力はただの擦り傷や切り傷程度の軽傷なら便利だけど、命に関わる重傷などの場合、再生の負担が逆に命に関わる可能性がある」
 遠見先生の声に、総士は現実に引き戻された。溝口からの報告が、思ったよりも心を乱していると自覚する。まだ何も決まった訳ではないが、早急に自らも調べを進めるべきだと総士は心に留めた。
 そこへ、
「ただそれよりも危惧するのは、再生の頻度が高まることでいずれ一騎君自身の寿命も―――…」
「………」
 それは今更ながらに突きつけられる、現実。
 新陳代謝によって髪が生え変わり、皮膚が剥がれ落ちることからわかるように、細胞というものには生命のサイクル…すなわち『寿命』がある。そして人間とはその細胞の集合体だ。大病や怪我などでサイクルの途中で死ななくとも、いずれ細胞の再生サイクルが尽き、多臓器不全などを起こして死ぬ。それが所謂老化による死である。
 損傷した細胞を活性化させ、急加速した新陳代謝によってその部分を修復できる一騎も、体のベースはあくまで人間だ。つまり超回復によって細胞の寿命サイクルを縮められることは、イコール自らの寿命も縮める行いである、ということ。
 しかしそれは一騎自らコントロールしているわけではない。肉体の損傷を脳が判断した時、本人の意思とは関係なく力は発現し、損傷個所の修復を、そして一騎の寿命を縮めるのだ。
「そんなことはさせません。その為に僕はこれを日本へ移し、そしてこれからも父の望む僕にあり続ける…そうすれば少なくとも、今以上のことは起こり得ません」
「………」
 少しでも一騎の負担がないよう、世界的に見ても極めて平和だと言われる日本を選んだのはその為だ。自分たちの容姿が日本人という民族に適していたのも幸いした。
 ここで与えられたものをその水準でこなしていれば、少なくとも一騎に害が及ぶようなことはない。総士を守り、傷つき、その寿命を悪戯に縮めることも、その手を血色に染めることも、そして、総士の目の前からいなくなってしまうこともない―――筈だ。
 その為に嘘を多く抱えて行くことになっても、これが一度は失いかけた総士が選んだ、もっとも『犠牲』が少なくて済む方法だった。
 すると遠見先生はそう、と頷き、でも、と続けた。
「一騎君だけじゃないわ。あなたも、いえ、私は総士君の方が心配なの」
「僕が?」
 思いも寄らぬ言葉に、総士は首を傾げた。何故、と問うと、彼女はとん、と自分の頭を指でつついて見せた。
「通常人間は、通常で脳一部分しか使いこなせていないわ。しかし事故や病気などにより部分的に欠損した場合、その使いこなせていない、つまり普段使われていないような別の部分がその欠損を補ってやがて同等に近く機能する、という事がわかっているの。けれども総士君の頭脳は理論上、かぎりなく常に100%近くまで使いこなすことができている」
「それは『もし何かあった場合、僕自身に何が起こるかわからない』、と?」
「ええ」
 そのような話は総士もよく知っている。自分が人とは違うとわかった時、まっさきに調べて脳の中に記録したものだからだ。
 大昔、『人は己の脳の10%程度しか使いこなせていない』と言われていた説も、今は『人の脳が大きく発達したのは、足りない容量を補う為の必要不可欠な進化』だという説が有力だ。その10%が人間の思考、行動の制御を司る『神経細胞』であり、その他およそ90%がその他の役目を負う『グリア細胞』と呼ばれるもので構成されている。10%程度しか使いこなせていないと言われていたのは、当時、このグリア細胞の役割がわかっていなかった為だ。
 グリア細胞の役割は、神経細胞へ栄養を供給したり、髄鞘を作り情報伝達の速度を速めたりするものが主であるが、稀に神経細胞の役割を負うグリア細胞が存在する。遠見先生が言った『脳の欠損を他の脳の部分が補う』とは、これに当たる。
 総士の能力…研究員に言わせれば『完全記憶』と呼ばれるものは、それらが常にフル活動している状態を指す。彼女が危険視しているのは、そういった脳の状態で何らかの…例えば頭部に怪我を負うなどして欠損が出た場合、総士の人間としての活動にどのような支障が出るかわからない、ということだ。最悪、普通の人間でも死に至る筈のない症状で、あっさり生命活動が制御できなくなり死ぬかもしれない―――と。

「僕は大丈夫です」

 しかし総士はその心配を一蹴した。
 総士は一騎とは違い、自身の意思で能力のスイッチをオンオフすることが可能である。総士はすべてを記憶し続けている訳ではない。オンオフを使いこなし、自分に必要か否かを判断し取捨選択できるのだ。必要ないものは普通の人間と同じで時と共に薄れ、やがて記憶の奥底に埋もれてしまう。
 そうすることで今、するべきことに不必要なものは記憶に残しておかない。
 ―――けれどもそれは消したわけではなく、ただ忘れただけだ。
 自分の脳の記憶スイッチを自在に使える総士が唯一、制御できない記憶があった。
 先程のように、思い出したように時折痛む左目の傷。既に傷自体は完治しており、痛み出す筈はないそれは、今も時折痛み出しては総士を苛む。特にそれは、総士がふと過去の記憶を振り返った時や、一騎を見た時、フラッシュバックを起こして総士に痛みを思い出させる。
「それに、今の僕はこの力ばかりを頼りにしない」
 それだけでは駄目だと、この傷を負った時に思い知った。
 だからきっとこの痛みは、それを忘れまいとする自分が自分自身に与える痛みなのだ。
「……総士君。ここには貴方たちの味方になる大人がたくさんいるわ。困った時はちゃんと私たちに相談して。大人にできることは大人がすればいい。けして、自分たちだけで解決しようとはしないで」
「……ありがとうございます」
 礼を言うと、遠見先生は苦笑して肩を竦めて見せた。
「それでもくれぐれも気をつけて―――なんて、この研究所に貴方にお世話になっている私が言えた言葉ではないけど」
「いえ、十分です」
 遠見先生は総士と一騎のクラスメイトである遠見真矢の母親だ。彼女は生まれた時からずっと父親と呼ぶには遠すぎる男と、家族ではない大人たちに囲まれて育った総士ですらも、母親というものはこういう存在なのだと理解できる、そんな大人だった。
 総士は母親というものを知らない。知識としては知っているが、自分の母親というものを目の当たりにしたことがないので想像の範囲でしかない。
 でももし母親があの場にいたら、自分を取り巻く世界というのは変わっていただろうか。
 それは一騎も―――…。
「――-お待たせ」
 やがてほぼ予想通り、一騎が15分程して戻ってきた。
「適当なカップがなかったから紙コップだけど」
「構わない。わがまま言って悪かったな。ありがとう」
「遠見先生もよかったら」
「ありがとう」
 ふわん、と辺りにコーヒーの良い香りが広がる。
「―――あら、おいしい」
 ふと口に含んだ遠見先生が、驚きの声を上げた。
「ここのコーヒーなんて飽きる程飲んだのに味も香りも違うわ」
「? 給湯室にあったのをそのまま煎れただけだけど?」
 一騎はたぶん何も特別なことはしていないだろう。総士はそんなこと当たり前のように、紙コップに口を付けながら言う。
「だから言ったでしょう。一騎の煎れたコーヒーを飲むと生半可なコーヒーなんて飲めなくなるって」
「缶コーヒーどころか、インスタントコーヒーも飲めなくなるわね……でもこれはきっと」
 遠見先生の視線が一騎を見て、そして続けて総士を見る。
「一騎君が総士君の為に心を込めて煎れたコーヒーだから、こんなにおいしいんだわ」


「そろそろ帰るか」
「ああ」
 仕事へと戻っていく遠見先生を見送り、飲み終えた紙コップをダストボックスへ入れるとそう総士は一騎を促した。先程、予定よりやや遅くなってしまったので、夕食のメニューがグラタンからクリームソースのパスタに変更になったことを一騎から報告を受けた。総士にしてみればどちらでも良い話だ。一騎の作った料理は何でも総士の口に合うからだ。
「明日は予定通り昼間は学校だ。放課後はここに来る予定はないから、何か用事があるなら今日中に考えておいてくれ」
「ん、わかった」
「後、さっき溝口さんから電話があった」
「溝口さんから? 確か今インドに本場のカレー修行に行ってるんだっけ」
「ああ。しかしやっぱり『カレーは日本のカレーが一番』だそうだ。帰ってきたらまず一騎のカレーが食べたいって言っていたぞ」
「じゃあ俺は本場のインドカレーの作り方教えてもらおうかな。……総士はインドカレー食べるか?」
 なんてそんなことを話しながら、やってきたエレベーターに再び乗り込んで地上を目指す。外に出れば、もう辺りも暗い時間だろう。工場の交代時間からはまた外れた時間であるので人目にもあまりつかないが、学生があまり夜遅い時間に出歩くのは逆に目立つこともあるので注意が必要だ。
 それでも、
「なあ、総士」
「なんだ」
「その、何かあったのか?」
 どきり、とした。
「何故、そう思う?」
「いや…ただ、何となく」
 普段はとんと鈍い癖に、時折妙に鋭いことがある。まるで動物的な勘でも持ち合わせているかのような気まぐれに発動するそれに、けれども総士は内心の動揺をまるで面に表すこともなく、
「何もない。いつも通りだ」
 いつものように、嘘をつく。自分の言葉をけして疑わない一騎の為の嘘を。
 あの日から連なり続けるこの嘘は一生表に出すことはない。
 それこそ死が、二人を別つまで。
 総士がそっと一騎の手に触れると、ぴくりと指が震えた。けれどもすぐにそれは総士の手を包むように握られ、少しだけ近くなった距離で一騎が笑う。
「そうか。でも、何かあったらすぐ俺に言ってくれ。俺が絶対、総士を守るから」
「―――ああ」
 その笑顔に、また左目の傷が疼いて総士を苛んだ。


総士の能力と一騎の能力の説明、リスクのところは軽〜く流して呼んで頂ければ。自分でも考えててこんがらがってきた…!

[2011年 5月 22日]