総士はアルヴィスの生みの親とも呼べるべき男の息子だった。

 総士がいる箱庭で、父は敬われ、そして大変恐れられていた。
 父がアルヴィスというとても大きな会社の社長をしていることは知っていた。その為に世界中を飛び回っていて大変多忙だから、総士になかなか会いに来ることができないのだと大人たちに教えられた。
 確かにその通りだった。総士が生まれて、自我を持ち、記憶しているだけでまだ片手ほども父の顔を見たことがない。いや、声だけなら電話越しに聞いたことは何度もあるが、実際に目の前にして親子として会話を交わした数なら皆無に近かった。
 そんな父は総士にこの箱庭という住処と与え、多くの知識の源となるものを無尽蔵に与え続けた。そしてそれを総士は真綿が水を吸うごとく吸収していった。
 それが総士と父との間にある関係だった。
 そんな父がある日突然連れてきた、一人の子供。
『総士、一騎と仲良くするんだぞ』
『はい』
 たったそれだけの会話が、一体どのくらいぶりであったのか。自我を持ち始めてすべてを記憶している総士ですら、そのことに関しては無駄な記録だと記憶することをやめていた程だ。
 そこにいたのは、自分と同い年の子供。父との関係に頭の中で様々な憶測が飛び交ったが、所詮は想像にすぎない。何よりも目の前の存在に、総士は興味を惹かれた。
 それは与えられるものをただ吸収していくだけの総士にとって、初めての感情だった。

 あの日から、総士と一騎の共同生活は始まった。
 総士に与えられた生活空間である『箱庭』には、総士以外に多くの大人が出入りしている。食事などの世話をする者やあからさまに白衣を着た研究者然とした者、そして後は総士に知識を詰め込むべく送り込まれた学者や教師……そんな自分以外は大人、というのが当たり前だったそこに突如として投げ込まれた、同い年の子供。
 自分以外の子供と接したことのない総士は、始め一緒にいて何をすればいいのか、どう接すればいいのかわからず困惑した。まず、子供同士で遊ぶ、ということがわからなかったのである。いや、知識としてはわかるが、それを実践する行動力がないのである。ましてや、知識の所為で老生した性格であることの自覚がある総士にとって、今更『子供として遊ぶ』という事態に非常に抵抗があるのだ。
 しかしそんな総士の葛藤や困惑をよそに、一騎は極当たり前のようにそこに溶け込んでいった。
「一騎」
「なに?」
「つまらなくないのか?」
「なにが?」
「いや、その、僕の傍にいても別に面白いことは何もないぞ」
「そう? 俺はおもしろいよ?」
 総士が読んでいるのは英文で書かれた推理小説だ。
 総士はただ学問書を読むだけでなく、本と呼ばれるものは何でも読みたい、という欲求があった。推理小説から図鑑、辞典、ファンタジー小説、児童図書、専門書――-…とにかく何でも。総士は、己の知識の泉を満たすものは何でもよかった。例え読んで結果つまらない内容だったとしても、知識と知識を結び付ける糧にはなるという考え方からだ。
 今読んでいる推理小説もそうだ。読んでいる最中に犯人やそのトリックが結末に行く前にわかってしまうので後半読みだれてしまうのが難点だが、トリックよりも、その犯行に及んだ犯人の心理やそれを取り巻く関係者の人間模様などにも興味が惹かれた。
 しかし、同じ年の子供が読むような本ではないことくらいはわかる。そもそも一騎は英語が読めない。それなのに本を読んでいる総士の傍にいて、一緒になってその本を覗き込んでいる。集中すると割と回りが見えなくなるので、邪魔だとは思わないのだが。
「英語読めないだろう」
「何かいてあるのかぜんぜんわかんない」
「それは面白いって言うのか?」
 仕方なく、一騎に内容をかいまつんで教えてやると、わかっているのかわかっていないのか、へー、とかふーん、と妙な声を出す。総士はたぶんわかっていないのだと判断した。
「一騎はもっと他に…僕と、こう、子供らしいことをして遊びたいという欲求はないのか?」
 総士はぱたん、と本を閉じ、一騎にと向かい合った。すると一騎はきょとんとして、それから小さく首を傾げる。
「こどもらしいこと?」
「だから、ほら……かくれんぼとか、おいかけっことか、外を走り回るような遊びだ」
 もちろんそれも全部、ただ本から得た知識だ。一騎が日本人のようなので、日本の子供がよくする遊びというものを調べてその代表を挙げてみたのだ。しかしそのどれもが総士のあまり得意とする方面ではない、体を動かすものばかりである為、正直あまり面白そうとは思えないのが本音だ。
 そもそもこの箱庭にいる限り、『外』と呼べるような場所には出させてもらえない。天井がガラス張りになっている中庭があるので、あそこならそういった遊びもできそうだが。
「とにかく、本を読んだりするんじゃなくて、体を動かす系の遊びだ」
 すると一騎はうーん、と唸り、
「今といっしょでいいよ?」
 やがてあっけらかんとそう答えた。
 今と一緒でいい、ということは、こうやって本を読んでいる総士の隣で読めもしない本を一緒に眺めている、という遊びか。いや、それはそもそも遊びなのか?
「それとももしかして、僕が運動を苦手そうだから遠慮しているのか」
 その方が理由としてはあり得るが、あまり嬉しくない遠慮だ。いや、運動が苦手なのを否定はしないが。
「総士は走ったりするのニガテなの?」
 いきなり直球で図星を尽く質問がきた。
「そ、率先して走ったりすることはしない。ここじゃあそんな必要がないからな」
「ふーん?」
 嘘は言っていない…と自らを弁護しておく。
 だがそれとこれとは話がまた別だ。総士がいいのではなく、一騎がいいのか、ということなのだから。
 しかし一騎はそんな総士の気遣いに気付いている様子もなく、ただ、ふるふると首を振って。
「走ったりしなくていいよ。俺は総士といっしょにいるとたのしいもん」
「楽しいのか」
「うん、たのしい。本よんでる総士をみてるだけでもたのしい」
「………」
 一緒に本を読んでいる(?)だけでなくそんなことをしていたのか、と総士は呆れる。一騎の視線に気付かない自分の集中力も呆れるものだが。
 まあ一騎がそれでいいというなら、総士はこれ以上何も言うことがなくなってしまった。それにそろそろ午後の『授業』の時間だ。また知らない大人がやってきて、総士の知識の泉に新たな知恵を注ぎにくる時間である。
 そして、
「それに、総士とできないあそびは先生といっしょにできるからいいよ」
(僕とできない遊び…)
 一騎が『あれ』を『遊び』と言ったことに、総士は違和感を得た。
 そう。一騎は日に一度または二度、総士の傍を離れる。その時は研究員がやってきて一騎を連れ出していくのだ。そして総士が夕飯を取る時間帯になるとまた連れられて帰ってくる。その時間帯は同じく総士も大人たちによって知識を詰め込まれる時間だったし、一騎も恐らく自分と同じように、しかし自分とは別の方法で何かしらされているのだろうことは想像がついた。
「そうか」
「うん」
 そうして二人のやりとりは終了する。実際連れて行かれた先で何をしているのかを、総士は一騎に聞くことはしない。
 ここはそういう場所だ。
 自分の存在意義はそういうものだ。
 総士はそれを受け入れ、そしてそれが当たり前であると思っている。父がそう望んだのだ。そしてそれが自分には可能である。
 それだけで理由になる。
 だからそれと同じように、一騎が何をしているのか自分で話さないかぎり、総士は聞く必要はないと思っていた。きっと必要と思えば一騎はいつだって自分に言ってくれるだろう。一騎は素直で、何の根拠か知らないが、総士に全幅の信頼を寄せているように思う。一騎が何も言わないのならそれまでだ。
 時を待てば、いつか必ず。






 一騎とそんな生活を始めて、一年がたった頃。ある日、一騎は夕食の時間になっても帰って来なかった。
 そのことについて世話をしてくれる大人たちは何も教えてくれなかった。総士も聞いても誰も教えてくれないことはわかっていたので、敢えて何も聞かなかった。
 けれども、ここ最近はずっと一緒だった同い年の子供が同じテーブルにいないことだけで、酷く一人で食べる食事が味気ないのだと気付かされたことに驚いた。
 そうして一騎が帰ってきたのは、決められた就寝時間前だった。
「ただいま」
 まるで何事もなかったように部屋に帰ってきた一騎に、しかし総士は何事もなかったようにできなかった。
「一騎、お前…それ、どうしたんだ!?」
「?」
 帰ってきた一騎が頭に痛々しく包帯を巻いていたのだ。側頭部にガーゼが当てられているらしき膨らみがあり、じわり、と赤い色が滲んでいるのが見える。その明らかに出血しているそれに総士は狼狽を隠せないが、しかし当の本人は相変わらずきょとんとして首を傾げていた。
「痛くないのか?」
 歩み寄ってくる一騎に、総士は恐る恐る尋ねた。
 近くで見ると、血の赤が生々しい。実際の血というものを総士は初めて見た。命の色だ。これが一騎の命の色なのだ。
「痛くないよ? くすりがきいてるからって言ってた」
「麻酔のことか? どうしてこんな怪我をしたんだ―――…」
 その時ふと総士は、一騎が以前言っていた『総士とはできない遊び』、という言葉を思い出す。最早当たり前になりすぎて話題にすらならない記憶は、確かに記録して総士の頭の中にある。

『総士とできないあそびは先生といっしょにできるからいいよ』

 先生と呼ばれる大人とする遊び―――それがこの怪我の原因なのではないか?
 それが一騎に対する『教育』だとしたら、もしかしたらそれは、とんでもなく危険なものなのではないのか?
 しかし一騎は相変わらずあっけらかんとした様子で、総士が狼狽しているのを不思議そうに見ながら言う。
「総士をまもれなかったら、こうなるんだって先生がいってた」
「僕を守れなかったら…?」
「でもだいじょうぶ。俺、総士をまもるから」
「一騎……」
 今日も、いや、出会ってからずっと今まで総士は一騎に守られた覚えはない。
 やはり、一騎は危険なことを強いられている。そしてそれは一騎が言う通り、『総士を守る』ということに繋がるのだろう。
(こんな怪我をさせられるような教育…例えば対大人の実戦交えた戦闘訓練か…? 僕を守るために? こんなの、一歩でも間違えば―――…)
「ふわ…ぁふ……ねえ、俺もうねむいよ総士」
「あ、ああ。そうだな、薬が効いている証拠だろう。もう寝る時間だし、寝よう」
 総士が頭の中でぐるぐると思考を巡らせているとふと一騎が大きなあくびをして、目を擦る。本当に、頭に血が滲むような大怪我をしているとは思えない程呑気だが、すぐに休ませた方がいいだろうことは総士にもわかった。
「おやすみぃ、総士…」
「ああ、おやすみ……」
 一騎がもぞもぞと自分のベッドに潜ってリネンを被るのを確認してから、総士は部屋の明かりを消す。それがしばらくすると一騎の小さく規則正しい寝息が聞こえてきて、総士はほんの少しだけ安堵した。
 頭という怪我だから大袈裟に見えるだけで、あまり大したことはないのかもしれない。頭部の皮膚は薄く、そのすぐ下にはたくさんの毛細血管が走っている。その為怪我をすると怪我の程度の割には出血が多いのだということも、既に総士の知識の中にあった。
(あんな怪我をして…一騎、一体何をやらされているんだ…)
 この時になって初めて、総士は一騎が何も言わないことに対して憤りを感じた。いや、一騎が言わないから知らなくていい、という考えは自分のものだ。聞けば、一騎はきっと答えてくれるだろう。それなのに自分の境遇と同じだと重ねた為に、とても大事なことを疎かにしてしまったのだ。

『……うん。俺は総士をまもる。まもるよ―――絶対』

 初めて出会ったその日に聞いた、一騎の言葉。幼い子供が言うにはあまりに重たいその言葉に、総士は自分と同じものを彼に感じた。
 一騎の言う『総士を守る』というのは、何かの比喩なのではなく、本当に言葉そのものの意味だ。その為に危険な訓練をしている―――あんな痛々しい怪我をしてまで。
 ではそうまでして、何から一騎は総士を守るというのか?
 ―――いや、違う。一騎にそうさせているのは自分の父親だ。
 では、父親は何から総士を守ろうとしているのか?
 ―――それも違う。守りたいのは総士そのものじゃあない。
(あの人が守りたがっているのは僕自身ではなく、僕の才能、僕の頭脳だ…けれども、だからといってその為に一騎を……)
 それは、人一人の人生を捻じ曲げてまで守られるべき価値があるのだろうか。
 物心をついた頃から、総士は自分は人とは違うのだということを認識してここまできた。そんな自分が、ここにいる大人たちの多くに気味悪がられているのを総士は知っている。しかしそれでも与えられるものを当たり前のように受け、己の元とし、蓄積するだけの毎日を繰り返してここまできた。
 だからこそ総士は多くのことを知っている。
 しかし、重要なことは何一つ知らないのだということを、今、気付かされた。


「……う、うぅ……」
「?」
 やがて血を見たせいか、妙に寝つけないままどのくらい時間が経っただろう。ぐるぐると己の愚かさに思考を沈ませてばかりいた総士に、ふと、隣のベッドから声が届く。それはただの寝言ではなく、小さく呻く、苦痛を訴える声だ。
「一騎? 傷が痛むのか?」
 麻酔が切れて傷が痛み出したのだろうか。妙に心配になって自分のベッドから出ると、総士は隣のベッドにと暗がりの中歩み寄った。部屋は完全に真っ暗ではなく、足元のみうっすらと明かりがついている。その中で目を凝らしていけば、すぐにベッドの中にいる一騎を見つけることができた。
「一騎?」
「う……そ、し…」
 呼びかけると、熱に浮かされた声で一騎が呼び返す。リネンが乱れておりそれを整えてやろうと手を伸ばした時だ。偶然ごろりと寝がえりを打った一騎の頬に、総士の手が触れた。
「っ」
 触れたその熱さに、総士は咄嗟に触れた手を引っ込めてしまう。だがすぐに我に返り、慌てて一騎の前髪をかき上げ、その額に触れた。
「熱い…!」
 酷い熱だった。
 平熱が低いと自覚している総士の手には、今の一騎の体温が火傷しそうに熱く感じられる程だ。寝汗も酷く、呼吸の感覚も短く、浅い。ただ麻酔が切れて傷が痛み出したとするには異常だ。すぐに誰かを呼ばなければならないと、総士は外の大人と連絡を取る為に端末に向かった。部屋は夜の間外からロックされており、自分たちから出ることができない。今自分ができることは誰かと連絡を取り、一騎を看てもらうようにすることだ。
 そうしてスリープ状態からすぐに起動した端末で呼び出すと、程なくして他の部屋にいるのだろう大人と繋がった。しかし応答したのは世話をする者ではなく、白衣を着た男の研究員だ。
 男にどうかしたのか、と問われ、総士は一騎の様子がおかしいことを手短に告げる。
「一騎が魘されて……熱が異常に高いんだ。昼間怪我したところから菌が入って、感染症を起こしたのかもしれない。だから早く処置を―――…」
 総士の憶測が本当だとしたら、すぐさま処置しなければ一騎の命が危ない。自分でできることなら何とかしてやりたいが、知識はあってもそれを行う技術が総士にはない。それがとても歯がゆいが、今は外にいる大人を頼らなければならない。例え、一騎に怪我を負わせたのがその大人たちだとしても。
『ちょっと待ちなさい』
「何を―――」
 しかし総士の訴えに、研究員はそう言ってモニター越しに何やら端末を操作し出した。こうしている間にも一騎は苦しんでいるというのに、一体何をしているのか。総士は焦りと怒りで力み、机についた手の平をきつく爪が食い込むほど握り締めた。
 やがて研究員は端末の操作を終えると、問題ない、と総士に告げる。
(問題ない? 一騎がこんなにも苦しんでるのに問題ない、だと!?)
 総士の知識は既に医学分野にまで及んでいた。ただの傷が、思わぬ破傷風などの別の病気を招くことも知っている。いや、そんなことを知らなくてもこれが異常な状態であることくらいはだれにだってわかる筈だ。
 それなのに―――…。
「こんな状態で問題がない筈が…!」
『彼の固有能力『超回復』の発現だ。君は初めて見るから驚くのも無理もない』
「超回復…?」
 声を荒げようとしたのを、聞いたことのない単語によって阻まれる。そんな総士の珍しい動揺に気をよくしたのか、男はべらべらと説明を始めた。
『原理は簡単だ。眠りに入って体が休息状態になった所で組織の活性化が始まり、傷ついた細胞が急速に元のあるべき状態に戻ろうとしているのさ。その結果、代謝が高まって発熱しているだけだ。頭の傷も一晩放っておけば翌日には完治する。だから何も問題はない。むしろ予定通りだ』
「!?」
 しかし男が何を言っているのか総士にはわからなかった。様々なことを知っている総士にすら、一騎の身に起こっていることがわからなかった。
『傷ついた細胞が急速に元のあるべき状態に戻ろうとしている』
 その言葉の意味だけなら理解できる。いや、男の言っている言葉の意味すべてを理解できる。しかしそれを現実として受け止めることができない。
 言葉をその通り鵜呑みにするならば、つまり一騎は昼間負った傷を回復させる為に自己で細胞の新陳代謝を高めているのだ。その結果発熱をしている―――ということになる。
 通常、人間は皮膚の新陳代謝によって、負った傷を修復することができる。ただし、小さな傷でも数日、手術痕などの大きなものでは何カ月、何年とかかる。しかしそれをたった一晩で一騎はしようとしている、というのだ。
 そんなこと、人間ができる訳がない。普通の人間は、そんなことできない。
 するとそんな総士の驚愕に、何を今更だとでも言うように男は告げた。
『――-それが一騎君の才能だ。君が会得したあらゆる知識や記憶を詳細に記憶し、そしてそれをいつでも寸分違わず引き出すことができる才能と同じだ』
「!?」
 一騎の身体データはこちらでモニターしており、『本当に異常が見られた場合』のみ救急で処置室につれて行くから安心しなさいと研究員は告げ、端末同士の通信は向こう側から一方的に切られてしまった。それからは沈黙と、時折一騎の苦しそうな声が部屋に響くのみだ。
 一騎の才能。
 自分の異能。
 ただ生まれ持った能力だというには、お互い、あまりにも人間として不自然すぎるそれ。わかっていて、どうなることでもないと頭の隅にやっていたそれが、今になってその不自然さが鮮明に浮かび上がる。
「……ぅ、そ…し」
「!」
 その時だ。小さな声で呼ばれ、はっとしてベッドへと駆け寄った。ただ熱に浮かされて出た声かと思えば、うす暗い中、熱に潤んだ瞳がこちらの姿を写していることに気が付く。
「一騎、大丈夫か? 辛くないか?」
「ん……」
 汗に額に張り付く前髪をかき上げてやると、額に触れた手の平が心地いいのか、一騎が目を細めてするりと額を擦りつけてきた。そんなことでも一騎を楽にしてやれるのならとそのままでいてやるが、やがて総士の手も一騎の熱を吸って熱くなってしまう。ミネラルウォーターがあるので、それでタオルを濡らして額に乗せてやる方がいいのかもしれない。
 そう思って手を離すと、すぐさまくん、とシャツの袖を持ち上がった一騎の手に引かれた。ミネラルウォーターを取りに行くにはベッドの傍を離れなければならない。それを察知したのか、袖を掴む一騎の手はまるで『傍に居て欲しい』と言っているように思えた。
「……僕はここにいる」
 総士は浮かしかけた腰を落ち着かせると、袖を掴む一騎の手を両手で包み込んだ。すると苦しそうな一騎の顔が少し微笑むので、つられて総士も微笑んで見せた。

「そうし、俺、総士を守るからな…ぜったい、ぜったい守るから……」

「………ああ」
 まるでうわ言のように、けれどもそれはけして、熱に浮かされて出たただのうわ言ではない。こんな時でさえ、それに捕らわれて。
 そして、一騎をこうまでさせるのは―――…。
(僕は知らなければいけない…一騎のことも、そして自分のことも)
 このまま、何もかもが手遅れになる前に。
 やがてすう、と一騎の目が閉じた。意識を失ったのかと思ったが、呼吸が先程よりも落ち着き始めていることで眠ったのだと理解し、安堵する。
 しかしいつまでも総士は、握った一騎の手を離すことはなかった。


総士の能力は小説版の甲洋のものが混じっているカンジで、一騎のは翔子っぽいのかな…というかすぐに終わらせられない設定をもってきてしまったような気がする。

[2011年 3月 13日]