真壁一騎はある日突然総士の目の前に現れた。それまで毎日親ではない大人たちに囲まれていた総士にとって、初めて遭遇した同い年の子供だった。

 総士は物心つく頃から、自分は他人とは違うということを認識している子供だった。
 そんな総士の周りにいたのは、それぞれが異なる言語で話し掛けてくる大人たちだけだった。そして与えられるおもちゃも、よくある知育玩具ではなく、文字や数字の羅列した問題集や参考書ばかり。それらを全部理解し、己のものとすることが、総士に望まれたことだった。
 そして大人たちの思惑など我関せずと、総士はそれらを自らのものとしていった。それが与えられた環境であり、それを受け入れる以外に自分にはなかった。異質であるということを受け入れ、それすらも自分のものにしていく。
 それが総士に用意されていた道だった。

 ―――そんなある日、数年ぶりに会った父親が一人の子供を総士の元に連れてきた。
「総士、一騎と仲良くするんだぞ」
「はい」
 会話はそれだけだった。思えば母親が死んだと聞かされた時は会話すらなかったのだから、『一騎と仲良くする』はそのこと以上に重要なことだったのだろう。
 ただ、大人に囲まれて生活していた総士にとって、同い年の子供との接し方は難解を極めた。それは二人で部屋に戻されて5時間あまり、まともに挨拶すらできない程だったのだから相当だ。総士にとってその一騎という存在との対話は、難しい哲学の本を読み解くことや数学の演算の解を導き出す以上の難問だった。
 それはやがて、このままではいつまでたってもこのままであり、時間による解決も見込めないと総士が思い始めた頃、
「総士」
「!」
 自分を呼ぶ、懐かしい日本語のイントネーションに総士はすぐに反応した。
 誰でもない、呼んだのはそこにいる一騎だ。5時間に及ぶ総士の無言の奮闘をあっさりと覆す、やや舌ったらずな子供の声。
「総士」
 呼ばれ、総士が振り向くと目が合った。大きな目だ。同い年の子供、というものに接したことのない総士でも、標準的な子供だとわかるような、出で立ち。真壁一騎、という名前からも日本人であることがわかる。黒髪に、やや黒目がちな瞳。Tシャツに短パンという子供らしい服装から覗く細い手足は、日に焼けて健康的な肌艶をしている。
「総士」
 そんな彼がまるで噛み締めるように総士の名を呼んだ。何度も、何度も。まるで自分の中に刻み付けるかのように、まるで大切な宝物のように。
「総士」
「どうして名前を連呼するんだ」
 初めての会話がそれだった。片や大切そうに名前を連呼する子供と、そのことに不信感を募らせる子供。これで仲良くしろとは到底無理な気がした。
 しかし警戒する総士とは真逆に、言われた一騎はきょとんという顔をした。二人の距離はこの時3メートルほど。手を伸ばしても到底届く距離ではない。
「だって総士、だろ?」
 もちろん相手がどんな表情をしているかわかる距離だ。一騎はきょとんとして、そして小さく首を傾げた。
「ああ。僕が皆城総士だ。しかしそれはここに来る以前に確認済みであるべきだろう」
 この時総士は七歳だったが、自分で思う程子供らしくない子供だった。しかし本来子供というものがどういったものかは総士自身身をもって知ることはなくとも、知識としては『子供』がどういうものかは知っていた。
 そして恐らくこの目の前にいる子供は、その総士が知る知識の範囲で『標準的に子供らしい』ということも理解できた。しかしその子供らしい子供の、このような態度への対応の仕方がわからない。そもそも『皆城総士だとわかるものの名前を連呼』するという行為への合理性というものが理解できないからだ。
 実に無駄な作業だと、総士は理解する。
「ん―――と」
 総士の当然と言えば当然の問いに、一騎は首を傾げたまま天井を見上げた。
 そしてたっぷりと考えた後、
「俺、ずっと前から総士のことはしってたよ。俺はずっと、総士にあうの楽しみにしてた」
 あっけらかん、とそれを口にした。しかし総士の中では逆に、更なる不信感を募らせる結果となる。
「ずっと? ずっと、とはどのくらい前だ」
「ずっとはずっと。俺がまもる人の名前だって、先生に教えてもらった」
「守る? 先生とは誰だ?」
「先生は先生だ。ほかはしらない」
「何で僕を守るんだ? 何から守るんだ?」
「??」
 詰問をしてもらちが明かない。
 しかしどうやら一騎は本当に何も知らないようだった。となると、何も知らないで総士の傍に連れてこられ、誰かも知らない先生という存在の命令で、総士を守れと言い付けられている、ということになる。
 それは馬鹿げた話だった。
 そもそも総士は生まれてこの方、この今いる施設から出たことがなかった。ここは総士の沸き立つ知識欲を満たすものが何でもあったし、何より外界から隔離されている。ここ程安全な場所を総士は知らなかった。
 守られるべく危険が存在しない世界で、何から守るのかと言うのか。
「僕を守る必要はない」
 それは現状を鑑みるに、当然の解答だった。
「ここに僕の安全を脅かす危険がない以上、僕が守られる理由はない。一騎が僕を守る必要はない」
 そもそもこんな同い年の―――子供に。
「俺は総士をまもるよ?」
「だからその必要はないと…………おい。どうして泣くんだ!?」
 しかしそんな総士の言葉に対する一騎の反応に、総士はぎょっとした。目の前の、しかし手の触れられない距離にいる一騎が、突如としてボロボロと大粒の涙を零し始めたからだ。
 誰かが泣くのを初めて見た。いや、映像として見たことがないわけじゃあない。しかし目の前で、しかも明らかに原因は自分だということに困惑した。思わず、その傍に駆け寄る。3メートルという距離は、子供の足でもほんの一瞬で縮められた。
「一騎、何で泣く」
「だって、総士が、俺、いらないって」
「か、一騎がいらないとは別に言ってないだろ」
「だって、俺は総士をまもるよ? まもらなくていい、なら、俺いらない?」
 守ることができなければ必要ない、と言いたいのだろうか。
 一騎の物の言い方はまだ幼くて、総士にはそのすべてをうまく理解することができない。けれどもこれではまるで―――…。
(僕を守る以外、一騎に存在する価値がないみたいだ)
 それはとても恐ろしいことだ。たった一人の小さな子供が、たった一つのこと以外に価値がないだなんて。そしてその選択は、総士の手に委ねられているということも、とても、とても恐ろしいことだった。
(もしここで僕が一騎をいらないとすれば、一騎は一体どうなってしまうんだろう)
 総士は大粒の涙をぽろぽろと零す一騎を見た。
 体躯を考えるに年齢は同じくらい、知能は年齢から鑑みるに標準的なレベル―――小学校に通い、同い年の子供と校庭を駆け回っているのがよく似合うだろう、子供。
 けれども違う。
 一騎もまた、総士と同じように普通ではないのだ。
「一騎」
 総士から歩み寄った為、今は手を伸ばせば触れられる距離にある。涙の溢れる眦に触れると、温かい液体が指を伝った。
 初めて触れた涙。
 初めて触れた同い年の存在。
 初めて触れた、自分と同じ異質でいびつな存在――…。
「…そぉし?」
 涙を拭った指がくすぐったかったのか、一騎が泣きながら笑って肩を竦める。
 不思議な感覚だった。
 総士の知識欲は底を知らず、そして一度ものにしたものに対しては酷く希薄だった。それ以上を与えられる見込みがないものには興味が得られないのだ。それは、それらを与える大人たちもそうだった。
 総士の周りはその繰り返し、連続だった。けれども一騎は…違う気がする。
 それは今まで総士の傍にいなかった同い年の子供だから? それとも総士を守るということに自分の価値を見出だすところに、自分と同じ異質さを感じたから?
(よくわからない…でも)
「一騎は僕を守ってくれるのか?」
 ぱちくり、と大きな目が瞬きをした。その時に溜まっていた涙がぼろりと零れたが、もうそれ以上溢れ出ることはなかった。
「……うん。俺は総士をまもる。まもるよ―――絶対」
 言葉が胸にずん、と落ちる。
 一騎がただ、意味もわからずに『守る』と言っているのではないと伝わる。それが具体的に何を意味するのか、この監視された箱庭の中ではわからない。ただ、その為に一騎はここにきて、総士と出会った。
 今はまだ、その事実だけで十分だ。
「ああ。よろしく、一騎」
「へへ…よろしく、総士」
 手を差し出せば、ごし、と服で一度擦った手でその手を握り返す。それが生まれて初めて、誰かの手が温かいのだと知った時だった。

 しかしこの時総士はまだ、父親がどういう意図で自分と一騎を引き合わせたのか、また一騎がやってきたことで自分の前に示される道が何であるのか、何も知らなかった。
 何もかもわかっているようで、何もわかっていなかったのだ。


まだ色々伏せてますが、原作とは違い総士はこの頃から大分もう総士な感じで。

[2011年 2月 12日]