「一騎! 今日という今日は逃がさないからな!」
 一日の締め括りのHRが終わり、クラスメイトは各々帰り支度や部活へ向かう準備をしている中、最早毎日恒例となった声が響く。
「俺が勝ったら柔道部へ入れ、一騎!」
「やれやれ、またか…」
 今日は委員会のない総士は、帰り支度をしながら思わず口にしていた。周囲の反応もまったく同じだ。
 気にしない者もいれば、今日こそ頑張れよ、と煽る者。または今日も返り討ちにしてやれと一騎に囃し立てる者もいる。
 もうこれで何戦目か。密かに購買のパンが賭けられているらしいこのやりとりに、負けてもめげない剣司の心意気だけは総士も買ってやっていた。
 もちろん―――あの一騎が負ける筈もないのだが。
「だからお前に負けたって俺は柔道部に入るつもりなんか…」
「お前は自分の才能を無駄にしてる!」
 同じく帰る支度をしていた一騎は、前に立ち塞がる剣司に困ったように頭をかく。しかしそんな一騎の毎度の消極的な反応に、そこで諦める剣司ではない。拳を固め、それをふるふると震えさせる演出まで決め、びしっと一騎を指差した。
「お前さえ来てくれれば、我が竜宮高等学校柔道部は地区大会…いや、県大会と言わずインターハイだって夢じゃない!」
「男子は万年弱小だからな」
「女子は咲良がいるから今年も県大会出場安パイかあ?」
「うるせぇ! 外野は黙ってろぉ!」
 何で急に泣きそうなんだよ、とまた誰かが突っ込んだ。
 確かに竜宮高等学校の男子柔道部は万年予選敗退の弱小部だ。しかし剣司の言う通り、一騎が入ればその悪しき伝統も覆るだろう。しかしそれは一騎一人の力であって、一騎が入ることによって剣司たちの力まで飛躍的上がるわけではない。触発されたり、向上はするだろうが、それもすぐではない。精々今年のインターハイで一騎が個人戦の優勝を飾るくらいだろう。
 そう、一騎は強い。しかしそれは柔道に限ったわけではないことを、この中にいて総士だけが知っていた。
 するとふと、ちらちらと一騎がこちらに視線を送ってきていることに気が付く。目を向けるとすぐにその視線を捉えることができた。どうやら総士に助けを求めてきているらしい。一騎一人ではあの状況から抜け出せないのだ。
(力で押し退けようとすればいくらでも、なんとでもできる癖に)
 しかし一騎はけしてそうはしない。
 一騎はこの当たり前の日常、当たり前の学生としての生活を、言葉にはしないものの気に入っているようだった。だからか、ここでは必要以上に波風を立てたがらない。それが時折『協調性がない』と言われがちだが。
 やれやれと、総士は鞄を手に立ち上がった。
 そして、
「一騎」
 ざわつく教室の中にいて、一際よく通る総士の声が一騎を呼ぶ。すると一斉に剣司の決闘騒ぎに注目していた者からいなかった者までもが、総士を見た。
 その中でも一際鋭く、注視、という意味が最も似合う視線がある。
 ―――一騎だ。
 まるで飼い主に呼ばれ命令を待つような…よく躾られた警察犬か、もしくは猟犬のような佇まいで、一騎は総士を見ていた。いや、ような、ではなく、実際そうだった。総士に注目が集まっている今では、誰もそのことには気付かない。
 だがしかし、ここは学校だ。HRも終わって間もないざわついた教室である。
「悪いな、剣司。僕の方が先約だ」
 鞄を持ち、二人の元へ歩み寄る。その時にはもう一騎はいつもの、学校での一騎だった。
「げ、また総士かよ。今日くらいは俺に譲れ!」
「それはできない。今日は諦めてくれ。そのかわり、後日また一騎に時間を作る」
「……と、いうわけだから、ごめん、剣司」
 ぽん、と肩を叩くと、一騎も鞄を肩にかけ帰る支度を済ませる。先約と言われると無下にはできないようで、しかし剣司は唇を尖らせ悔しそうに唸った。
「くそ、今日こそはって思ったのによ…大体、一騎の予定を総士が独占しすぎだ。帰る時もいつも一緒だし。あれ? 来る時もいつも一緒じゃないか?」
 まるで今更のことを今気付いたかのように首を捻る。大して総士の反応も、何を今更と言ったものだった。
「住んでる寮が一緒だ。お前と衛や咲良だって家が近いから登下校一緒だろう? それと同じだ」
「まあ、そういやそうだわな」
 総士の答えにあっさりと剣司は納得した。
 そうだ。そんな理由で学生同士が一緒に登下校するのは当たり前だ。むしろ、同じ場所に住んでいて一緒に行動しない方が、何か確執があるのではないかという、要らぬ詮索を生む。
「………」
 そして総士が剣司と喋っている間、一騎は何も言わない。それは総士の答えを肯定している風に取られるだろう。
 しかしその実は何も考えていない、が正確だ。こういった物事の『口裏合わせ』をする時、一騎は何も言わない。判断はすべて総士に委ねる。それが一騎のスタンス…いや、一騎に求められた人格なのだから。
 もともと一騎が寡黙な為、誰もそんな異常なことには気付かない。だからだろうか。割と学校にいる間は気が楽だと思えるのは、自分を装う日常の方が異常である所為か。
(どこもかしこも全部、ここのように平和だったらどれほどいいか)
「一騎、行こうか」
「ああ」
「あ! 一騎、次こそは覚えてろよ!」
 思い出したように声を上げる剣司に苦笑し、総士は一騎を連れ教室を出た。
 ―――ここは平和だ。学校の中は当然とし、街の中までも。
 日本の、とある地方都市。大都会とまではいかないが、電車が通り、ビルは建ち並び、人は行き交い、繋がり続ける。小さな犯罪はあれど、大きな事件―――例えば殺人事件や誘拐事件など―――なんかは滅多に起きない。ニュースを騒がすのは他の街の事件や、遠い東京などの都会の凄惨な事件ばかり。同じ国の中にいて、それらはまるで他国の出来事のようで。

 ここは竜宮市。街の郊外に大きな会社の工業団地があり、この街の経済はその工場で働く人々の生活の循環によって成り立っている。実質街に住むほとんどの者がその工場に何らかの関係を得ており、学校に通う子供たちの大半の親がその工場に何らかの形で関わっている者か、そんな人々の生活を支えるべく街にて商業を営む家庭の者がほとんどだ。
 街の公共施設のほとんども、その企業の寄付金によって建造されたと言っても過言ではない。その為か、今では一つの企業都市、とまで言われる程である。実質その企業がこの一地方都市でしかない竜宮市に工場を誘致した為に、この街は数年で一気に栄えたと言っても過言ではなかった。
 急激な街の発展に貢献した企業の名は―――アルヴィス。国内最大手、そして世界中に尚も規模を拡大し続ける製薬会社である。

「総士」
 昇降口で靴を履き代えていると、それまで黙ってついて来ていた一騎が呼ぶ。
「その、時間は大丈夫か?」
「ああ、問題ない。許容範囲内だ」
 さっき剣司に絡まれたことでロスした時間を気にしていたのだろう。しかし時計を見て、一騎の顔を見て、総士は大丈夫だと答えた。するとあまり表情の変化の乏しい彼が、ほっと珍しく安堵したような顔をするので、
「本当は剣司に付き合ってやるだけの時間もあった」
 と、今更そんなことを言ってやる。もう靴を履き代え、正門に向かって歩き出しているというのに。すると一騎は緩く首を振った。
「何度やっても結果は同じだ」
「その台詞、剣司に聞かせられないな」
 きっと憤慨して、馬鹿にするなと更なる挑戦状を叩きつけてくるだろう。しかし一騎の一見傲慢ともとれる台詞も、総士はけして否定はしない。否定できるわけがない。
「けれどもお前に勝ちたいと思う執念が、剣司をうまい具合に成長させているとも思うがな」
 万年予選敗退と言われ続けていた男子柔道部が、実は最近、地区大会や学校間の交流試合でなかなかいい成績を見せていると聞く。少なからず、一騎に負けては挑戦を繰り返すことや、一騎に勝ちたい一心で練習に励むことが好を奏しているのではないだろうか。
「スポーツと、実戦は違う」
 一騎はぽつり、とそう零し、そして正門を出たところですっと総士の隣に立った。総士を学校の塀側にし、自分は車道側へ。いつものことだ。総士は気にしない。
「一騎、別に僕はお前が部活に入ることを禁止していないぞ」
 だからこそ、言ってやる。すると隣をぴたりとついて歩く一騎は、視線を総士には向けず、総士の行く先に目を、そしてまるで全神経を二人が歩く周辺に張り巡らすかのように気配を尖らせて、
「それじゃあ、俺のするべきことができない。だからいい」
 そう、極当たり前のように即答した。
「そうか」
 それに対して総士の答えはそれだけだった。それ以上答えようがない。
 そんな歳相応の、『当たり前の生活』への憧れが一騎には一切ない。ここでの生活を悪くは思っていないようだが、それもあくまでそこにいる必然性からだ。総士ですら、あの場所にいて、剣司たちのようにいられたら、どれほどこの平和の中にいて息がしやすいかと時折考えるというのに。
 一騎にあるのは、ただ―――…。
(僕がそうした…けれども、僕はそうであることを望んではいない)
「一騎」
「?」
 総士が呼ぶ。しかしその呼び声が、学校の中とも、今こうして『守られながら』家路へと向かう道すがらとも違っていた。
 だからこそ、ぴくりと反応した一騎が総士を見た。そんな時だけは、まるで歳相応の少年に見える顔をしていて、総士は顔には出さずに内心で安堵を覚える。
 けれどもそれは同時に、まだ一騎にも心があると、まるで確かめているかのような罪悪感も付き纏った。
「今日は久しぶりにお前の作ったカレーが食べたい」
 言えば、ぱちりと一騎が瞬きをした。それからその顔は、まるで幼い子供のように微笑んで、それから小さく拗ねたように唇を尖らせる。 
「……昨日聞いた時は何でもいいって言った癖に。でも今日はもうグラタンの材料を用意しちゃったから、また明日、な」
「そうか」
 頷けば、またいつも通り。
 日本は以前いた所よりも安全だとわかっていても、一騎の行動は以前のものと何一つ変わらない。いや、以前より酷くなっている。総士の知る最初の一騎はもっと、ちゃんとした、普通の年相応の子供だった。よく笑い、時折泣いたり怒ったりして、ちゃんと子供らしかった。
 けれどもそんな一騎にこんな風にしたのは自分だ。
 一騎の運命を普通ではなく捻じ曲げてしまったのは総士に一騎を与えた大人たちではなく、間違いなく総士自身だった。

 一騎と総士が出会ったのは今から10年前。
 そこはけして出られない、しかし子供にとっては広く大きな箱庭の中の出来事だった。


このままずっと総士視点でいきそうな感じ…たぶん現代(やや未来?)です

[2011年 2月 7日]