「一騎! 総士! 聞いてよ聞いて!」
 喫茶楽園の扉をばたーん!と勢いよく開けて飛び込んできたのは、最早すっかり竜宮島に慣れきった来主操だ。
 店内には一騎の他、総士、生徒会メンバーが集まっている。飛び込んできた操は、今日はアルヴィスにいた筈だが、何かを目撃したのか、酷く興奮した様子で一騎のいるカウンターに飛び込まん勢いで身を乗り出してきた。
 だがそんな操に対し、一騎の対応はあくまでいつも通りだ。
「こら来主、扉は静かに開けろって言ってるだろ。それに、もし扉の向こうに誰かいたら危ないじゃないか」
「はーい、ごめんなさーい」
 とうとうと注意する一騎に、素直に謝る操。よく見る光景だ。
 するとそのやり取りを眺める背後の面々は……。
「あれって完全に母親と子供の会話だよなあ」
「操君はともかく、一騎先輩も、あれを素でやっているのがすごいですね」
「母親が一騎なら、父親は総士?」
「いや、どちらも手のかかる子供みたいなものだろう」
 などと好き放題言い合っているのが聞こえて来る。誰が子供だ、誰が、と総士は思ったが、それを口にしたらますます彼らを増長させそうで、今は黙ってコーヒーをすすることにした。
「…それで、今度は一体何だ?」
「あ、そうだった! 聞いてよ二人とも!」
 話が元に戻るらしい。
「えーっとね、空にね、でっかい魚が泳いでたんだ! 魚だよ、魚! 俺、魚が空を飛ぶなんて初めて見た!」
 でっかい、というところで大きく両腕を広げてそれを表現してみせる。だが実際はそれよりも大きいのだろう。ばたばたと手を振る様に、しかし一騎は、
「空飛ぶ魚?」
 意味がわからないぞ、と首を傾げている。確かに意味がわからない。
 空飛ぶ魚―――確かに実在したら、新な進化の過程を目撃できた記念すべき日となるだろう。あくまで実在したら、だが。
「一騎、たぶん鯉のぼりのことだ」
 だが総士にはすぐに思い辺り、体を傾けてほら、と楽園のガラス張りの向こう側を指し示す。そこには抜けるような青空と、そして―――操の言う通り空飛ぶ魚が。
「あ、あれだよ、あれ!」
「ああ、鯉のぼりか。もうそんな時期だっけ」
「え、何、一騎知ってるの? こいのぼり? 何それ?」
 空飛ぶ魚は一つだけではなかった。楽園から見えるだけでもいくつも上っているのが確認できる。その姿は風にたなびいて、本当に空を泳いでいるかのようだ。
「朝はいなかったのに、アルヴィスから出てきたら、いっぱい空を泳いでたんだよ」
「鯉のぼりは夜の内はしまうからな」
「来主、まさかあれが生きてるとか思ってないよな?」
「え、死んでるの? 死んだ魚は空を飛べるの?」
「まあ捕食され魂になれば空を飛んでいる、と言えなくもないが…」
「来主、鯉のぼりは服と同じで布でできているんだ」
「え、そうなの?」
 何て言いながら、自分の着ている服を摘んだりしている。
 まあ操が驚くのも無理はなかった。竜宮島に住む自分たちにとっては毎年見慣れた光景も、外部からきた、ましてやフェストゥムにしてみれば何もかもが珍しい物ばかりなのだ。それに去年のこの景色を彼は見ていない。
 もっともそれは総士自身にも言えることだ。だから総士も久しぶりに見る当たり前のこの光景を、酷く懐かしい気持ちで眺めた。
「なーんだ、つくりものかぁ。俺、てっきり魚も空が綺麗だから飛びたくなったのかと思っちゃった」
 空が綺麗だという操らしい発想だ。
「人間…いや、日本人は生まれた子供が男の子の場合、その成長を願って鯉のぼりを贈るんだ」
「えーっと、確か鯉は滝を登る習性があって、それが天に昇る龍に擬えられてるんだっけ?」
「龍?」
「龍、ドラゴン…縁起がいいと言われる空想上の動物だ」
「へー」
「ちなみに大きさが違うのは、上から洵に、父親、母親、子供…と家族を表しているからだ」
「ほー」
 操は説明を聞いているのかいないのか、生返事を上げながら磨き上げられて曇り一つない窓ガラスに張り付き、キョロキョロと外を眺めている。
「そう言えばウチも昔は鯉のぼり上げてたな」
「僕の家もだ。鯉のぼりだけじゃなくて兜も飾ってたな」
「だんだん上げなくなるんだよな、毎日出し入れしたりするのも面倒臭いし」
 大抵の家はそういった理由だろうが、皆城の家の場合は総士がアルヴィスに出入りするようになった頃からこどもの日はなくなった。恐らくもう鯉のぼりも兜も、処分されて家には何も残されていないだろう。総士は、誰よりも早く大人と同じになることを求められていた。だから、そうした父親を批難する気はない。
 それにたまに懐かしく思い出したとしても、寂しいことなんてない。
 この島には毎年当然のように鯉のぼりは空に上がるだろう。生命の循環をミールが理解した今、日野美羽だけじゃない。これからも自然受胎で生まれる新な子供達の為に、島の大人たちは鯉のぼりを上げるのだ。
「そういやまだ、庭の押し入れにあるかな…」
「え、一騎鯉のぼり持ってるの? じゃあ出そうよ!」
 ぼそり、と一騎が呟くと、それを聞き逃す操ではない。窓から駆け戻ってきてカウンターにまた身を乗り出すが、一騎は露骨に嫌そうな顔をした。
「嫌だよ、面倒臭い」
 にべもなく却下された。だがそこで諦める操ではない。
「えー、出そうよ、出そうよー」
「鯉のぼりなんてウチで上げなくたって、その辺であちこち上がってるだろ。それで我慢しろ」
「えー、あーげーたーいー」
「しつこい!」
「………」
「………」
 またもにわかに背後が騒がしくなる。一騎は自覚を持ってやっているのだろうか。操の場合は完全に素だが。
「上げようよ!」
「駄目だ!」
 しかし誰しも弱い操のおねだり攻撃も、慣れた一騎には通用しなかった。総士なら逆に面倒くさくなって折れるところだが、そういうところはしっかりしているので頼もしい。
「ぶー」
 むくれてカウンターに突っ伏す操に、気持ちがわからないまでもない総士は苦笑する。仕方なくちらりと一騎を見てやると、目が合うので、言葉にはしないが物いいたげな視線を送ってやった。
 すると一騎は返事の代わりにはあ、とため息と共に肩を竦めて。
「わかった。鯉のぼりは諦めてもらう―――けどその代わり柏餅作ってやるよ」
「……かしわもち?」
 何か譲歩してやってくれ、というのは伝わったようだが、しかしその譲歩の内容に驚いた。
「一騎、柏餅なんか作れるのか?」
「西尾のばーちゃんが教えてくれたんだ」
「総士、かしわもちって何?」
「餡を包んで蒸し上げ、柏の葉を塩漬けにしたもので包んだ食べ物だ。端午の節句に特別な意味のあるものとして食される」
「ふーん、特別な意味って?」
「餅を包んだ葉の木が、『古い葉が落ちないと新芽を出さない』という特性を持っているんだ。それが『子供が生まれるまで親は死なない』、すなわち『跡継ぎが途絶えない』『子孫繁栄』などに結び付く為、縁起のいい食べ物としてされている」
 尋ねられ、すらすらと自然と口から説明がついて出る。するとそれに何故かカウンターの向こうの一騎が感心したような顔をして、
「何か総士って、たまにどうでもいいことにすごく詳しいよな」
 などと言うので。
「どうでもよくないだろう。竜宮島は古くからの日本文化を保存すべく存在している。その島の住人として、これくらい知っておくのも当然だ」
 その為のアーカディアン・プロジェクトなんだ、と言うが、操に至っては、
「ふーん、何だかわかんないけど……一騎が作るものならおいしいに決まってるよね!」
 まあその程度の認識だ。
「初めてなんだからあんまりプレッシャーかけるなよ。あ、総士も食べるか?」
「和菓子ならあまり甘くないから、もらおうか」
 すると、
「はいはーい! 一騎先輩わたしも食べます!」
「俺も!」
 その話を聞いていたらしい後輩が、次々と元気よく挙手しだした。
「どうせならこどもの日限定メニューで、番茶と一騎柏餅でセットなんてどうだ? 売れるぞ〜」
「…溝口さんいつの間に…」
 するといつの間に出前から帰ってきたのか、紛れ込んだ溝口が同じく挙手して主張している。
「何でもかんでも俺の名前をつけないでくださいって何度も…」
「お前がこの店の看板なんだよって、何度も言ってるだろ♪」
 あの様子では、一騎の切望が叶うことはなさそうだ。一騎の名前を冠したメニューが、ことごとく客の受けがいいことを常々溝口は自分の功績のように自慢してくる。ほぼ毎日それを有り難く味わっている総士にとって、そう言いたい溝口の気持ちはわからないでもない。
 もっとも、時折そういう幸せは自分一人で独り占めしたいという気持ちがないわけではないが。
「と、いう訳だ、一騎」
 ここは敢えて寛容なところを見せつけるつもりで、周囲の意見を尊重してみた。だが言うのは簡単であって、実行する一騎にしてみれば、
「……何だか鯉のぼりを出すより、数倍面倒臭いことになったんじゃないのか……?」
 まあ、そう言えなくもない。じろりと睨まれて総士は苦笑し、肩を竦めて見せた。
「悪かった。手伝うから許してくれ」
 なんて言えば、はあ、とまたため息をつかれてしまった。そして今度は一騎まで仕方ないなぁと苦笑を浮かべて、
「別にいいよ、もう……いつものことだし。その代わり絶対食べてもらうからな」
「―――ああ、心得た」
 一騎にはそうやって色々許されてばかりいるような気がする。しかしも悪いとは思いつつもそんな一騎に甘えたいと思っている自分は、やはり島に帰って来てからずっと気が緩んでいるのだろうか。もっとも、そうやって一騎が甘やかしてくれるものだから、こちらも図に乗ってしまうのだけれども。
「俺も食べるー!」
「来主はちょっとは手伝えよ」
「えー、総士ばっか食べるだけなんてずるーい」
「総士は忙しいからいいんだ。そのかわり一番に味見させてやるから」
「ホント? んじゃ手伝うー!」
「………」
「………」
 また背後でまったく潜んでいないひそひそ話に花が咲いているようだが、放置しておこう。一騎は早速支度を始めるのか、冷蔵庫を覗き込んだりして材料の確認と、買い物のリストを作り始めている。操はそれを待ちきれない様子で眺めていて、総士はそんな様子を酷く穏やかな気持ちで眺める。
 竜宮島は、今日も平和だ。
 何せ、窓の外には大きな魚が悠々と空を泳ぐくらいなのだから。


端午の節句に間に合わなかった…!まあ要するに「俺がやる。お前が望むなら」という一騎の基本スタンスは相変わらずという話。そしてそれに甘える総士と、いつも可愛いアホの子(褒め言葉)操のほのぼの家族でした。

[2011年 5月 6日]