「総士、いいからちょっとそこに座りなさい」
 そう言って操は自分の正面を指差した。
 ここは真壁家の居間だ。畳敷きで、中央には食卓となるべくちゃぶ台がある。つい一時間程前までは、ここを自分と一騎、操、そしてついさっきアルヴィスへ出かけて行った一騎の父親とで囲んで夕食を取っていた。その後一騎と協力して洗い物も済ませ、操も台拭きも終わらせている。
 この後の総士の通常プランとしては風呂に入り、部屋で今日の復習と明日の予習、また放課後アルヴィスでの業務があるのならばその為の準備を済ませ、そして就寝に至るのが基本形だ。
 そこにまあ、気分や家の中の人員によってはイレギュラーなルーチンが加わることもあるが、操が自分同様ここに居候するようになってそのイレギュラーも発生しにくくなっている。その為に昨日は勢い余ってアルヴィスの自室でイレギュラーを起こしてしまったが、就業中のこととは言え後悔はしていない。
 ―――それはともかく。
「何だ?」
「………」
 何故だか自分を呼ぶ操が眉を立てており、身に覚えない総士は放課後からずっと操と一緒にいた筈の一騎を見た。しかし無言で目線を反らされてしまい、今度は総士が眉をひそめる羽目になる。何かが自分の知らない間に起きたらしいが、その状況も何もわからない総士にとっては首を傾げるばかりである。
 となると、
「一体何なんだ」
 聞くべきは、このどこかで見たような光景を操がどこで覚えてきたか、よりも、自分に何の用か、だ。
「いいからそこに座って」
「わかった」
 状況を理解するには、操の言う通りにするしかない。総士がちゃぶ台を挟んで操の正面に腰を下ろすと、その間に一騎がそろそろとやってきて腰を下ろす。何だか妙な図式だ。
「総士、どうしてこんなことになってるかわかってる?」
「いや、まったく身に覚えがない…というより、状況が理解できないんだが」
「あ、しらを切るつもり? でも俺は全部わかってるんだからね!」
 絶対何かに影響されたような言い回し(恐らくアルヴィスのアーカイブズに記録された、古い日本の映像資料だろう)で、ばんばん、と操はちゃぶ台を叩く。何のことだかますますもって意味不明だ。
「………」
「!」
 総士は改めて、ちらりと一騎を見る。するとバチッと視線がまた合ったが、すぐさまあからさまにばっと反らされた。それは自分から怪しんで下さいと言ってるも同然な反応だ。これは勿体振る操の話を聞くより、一騎を部屋の外へ連れ出して問い詰めた方が早いのではないか。
 なんて、一騎からじっと視線を反らさずにそんなことを考えていると、
「―――総士、今話してるのは一騎じゃなくて俺だよ」
 とんとん、と視線を引くように指先でちゃぶ台を叩かれ、仕方なく一騎を問い詰める案を却下して、操に視線を戻す。それからもう、何度目かもわからないため息をついて、
「わかった。わかったから、きちんとした説明を求めたい。訳もわからず責め立てられ、理由もわからないまま謝罪を強要されるのはこちらとしても釈然としないからな」
 と、まっすぐに見据えて告げれば、いいよ、と操は頷いた。
「それじゃあ俺の質問に正直に答えてよ」
「ああ、わかった」
 このような状況に陥る、という現状に身に覚えがない以上、後ろめたいことは何一つない。視線の端に映る一騎が妙にそわそわしだしたのが気になるが、真摯な態度で操に向き合った。
「まず―――総士は昨日、アルヴィスにいたよね?」
「ああ、いたな」
 そう言うが、放課後や休みの日はほぼ100%の確率で総士はアルヴィスにいる。昨日もそうだ。
「しかも自分の部屋に」
「ああ」
 そうだ、いた。データの整理の為にCDCから部屋の端末へと移動した。
 あれは昼過ぎのことだ。整理が終わった頃には楽園のランチタイムも終わる頃になってしまうので、昼抜きか、アルヴィスの食堂に行くか悩んでいて―――…そしたらそこに弁当持参の一騎がやってきて……その後。
「!」
「どうやら自分のしでかしたことに気付いたみたいだね、総士!」
 はっと何かに気付いた総士に対し、にやり、とどこでそんな顔の仕方を覚えたのか(アルヴィスのアーカイブズ…以下略)、してやったりとした小憎らしい顔をした操が立ち上がり、びしっとこちらを指差して言い放った。
「そう、昨日、アルヴィスの総士の部屋で、総士、君が一騎をいじめていたのを俺は知っている…!!」
 ビシャアアン!と操の背後で雷が鳴った…ような気がした。残念ながら今夜は無風の快晴なので、風に乗って潮騒すらも届かない。
「…………一騎」
「お、俺は何も言ってない! でも何でか来主に見られてたみたい、で…!」
 指を突き付けたままの操はそのままに、二人の間で小さくなっていた一騎を呼べば、特に聞いてもいないことをべらべらと喋りだした。
 別に一騎を責めた訳ではない。そもそも、一騎が他人にそんなことをべらべらと話すタイプではないことくらい、総士は百も承知だ。むしろあの時の一騎の可愛さを胸の奥にしまって独り占めしたい気持ちと、誰かに話して自慢したい気持ちとの葛藤に悩んでいるのは総士の方だ。まだ今のところ、理性と独り占めしたい独占欲が勝っている為にどうにも至ってはいないが。
「こら、総士! そうやって一騎をいじめちゃメ! だよ!」
「別にいじめていた訳では……」
 それにしても最中に覗かれていて、一騎が気配に気付かないなんて珍しい。そもそも部屋には鍵を…………かけた記憶が曖昧だ。もしかしたら部屋に久しぶりに一騎が一人で訪れたことに舞い上がり、忘れていたかもしれない。
「………」
 総士は己の迂闊さに閉口した。だがここはむしろ、見られたのが操だったことに安堵すべきなのかもしれない。
「黙って言い返せないのは図星?」
「違う。そういう意味じゃない」
「認めないの? だって一騎泣いてたよ? 人間は悲しいと泣くんでしょ? 総士、一騎のこと好きなのに、どうして一騎のこといじめるの?」
 ああ、そういうことか。
 つまり操は誤解していて、そして知らないのだ。―――人が涙を流すのは、その感情が高まり、溢れ出した時。そしてその感情とはけして悲哀だけとは限らないということを。
「来主、人間は悲しい時だけ泣くんじゃない」
 一騎との行為を見られてしまったのは誤算だが、これもいい機会なのかもしれない。
 ミールによって人を学ぶことを課せられた彼にとって、この島で出会うものは何もかも未知のものばかりだ。けれどもそれを知って、理解し、それをまたミールへと伝える。ただ敵対し、同化による同一化することだけを目的としていたフェストウムが、初めて人を知ろうと人の中に送り込んできた彼に、人の感情の多様性を、けして言葉や感情を伝えることは何も無駄ではないことを教えることができれば、いつか操のミールの群れだけではなく、フェストウムそのものとも―――…。
「知ってるよ。君たち人間は悲しくなくても、嬉しくても泣くんでしょ? それは一騎に教えてもらったもん。でも一騎はいじめられて嬉しくて泣いてたわけじゃないって」
「………」
「………だって違うだろ」
 思わず一騎を見てしまうと、逆に拗ねたように睨まれてしまう。確かに一騎は悪くない。悪いのは我慢できなかった自分の理性と、鍵をかけ忘れた(かもしれない)迂闊さだ。というよりこういうものはそもそも一騎に向いていない。
 だがここまできてようやく、総士は現状というものを把握できた。
 つまり操は一騎と総士のセックスを覗いてしまい、行為の意味を知らない操はそれを一騎が泣いていたことから『いじめ』だと誤認している。その為一騎がどうにか説明しようと試みたが、妙な誤解を与えただけで失敗に終わった……といったところか。
 極めて単純で…それでいて複雑な状況だ。やはり、一騎には対処不可能な案件だろう。
 総士は思考を巡らせた。どうすればこの場を切り抜けられるのか。そして操の誤解を解くことができ、これからの活動に支障なくできるのか。
 認めて、一騎に触れられなくなるのは問題外だ。例え離れていても繋がっている、というのは今でも感じている。それはクロッシングによって得られる繋がりではなく、お互いの信頼に因る繋がりであり、間違いなく今の自分と一騎の間にはそれがあると言える。
 けれどもそれだけでは埋められない『空間』がある。だからこそ相手の存在を熱や感触によって直に感じる手段と、そしてそれによって得る安堵もまた必要だった。
 ――-なんて言い訳はまず操には通用しないだろう。
 まあぶっちゃけ欲求とは説明しがたいものだ。ただ一騎に触れたい。同化するのとはまた違うその欲求は、総士でも詳細を求められても説明するのが難しいものだ。そういうのは『感覚』だ。染色体を持たず、性交で繁殖を行わないフェストゥムの操には理解しがたい人間の行動原理だろうが。
「さあ、これで納得がいった? じゃあこれ以上一騎をいじめないって俺の前で一騎に誓って」
「それは―――誓えない」
「ええ、どうして!? そ、そんなに総士は一騎のこといじめたいの…?」
「ああ、そうだ」
「!?」
「僕が己の感情を認める以上、一騎へのいじめはやめない」
「そ、総士!?」
 操が行為をいじめだと認識している以上、総士が大前提として言えるのはそれだ。傍から聞いているととても誤解されるような会話(一騎はたぶん混乱しているが今は放置)だが、総士は頭の中で言葉を変換しながら会話をしている。
「そんな…俺はただ、総士も一騎も大好きだから、二人にはずっと仲良くしてほしいだけなのに」
 言いながら、その目にじわり、と涙が滲む。流石に隣の一騎が慌て、おろおろと総士と操を交互に見やる。だがお前は何も言うな、と目だけでそれを制し、総士は操をまっすぐに見つめた。
「来主、お前が一騎と僕のことをそうやって思ってくれて考えてくれるのは嬉しい」
「だって俺、もっと君たちのことが知りたいんだ。知って、もっと仲良くなりたい」
「ああ、僕たちもだ。だから来主、もっと僕たちを理解してくれ。人間には…日本人には太古よりこんな言葉があるんだ」
「言葉?」
「言葉?」
 零れる涙を袖で拭った操が、きょとん、と顔を上げる。何故だか一騎もきょとんとした顔をこちらに向けていたが、そこは敢えて何も言わず、総士は操にだけ向けるつもりで言った。

「いやよいやよも好きのうち、という言葉だ」

「!!!?」
「いやよいやよもすきのうち?」
 がたた、と合わせて腰を浮かせた一騎が膝をちゃぶ台の縁で強打した。彼にしては珍しい。しかしその痛みに悶絶する一騎を放って、尚もきょとんとして首を傾げる操に対し、総士は説明を続ける。
「これは人間の中でも特に謙虚な日本人のみが有する感覚で、好きなのに好きじゃない、その好きという感情を表に出すことが恥ずかしくて、ついつい嫌がったふりをしてしまう、という極めて不器用な様を表した言葉だ」
「好きなのに嫌がるの?」
「ああ、最近は俗に『ツンデレ』と表記されることもある」
「つんでれ…一騎はその『つんでれ』なの?」
「ああ。ただし、僕に対してのみだ」
 物は言いようだ。しかし一騎との行為を正当化するには、今の操に理解させるにはこれが一番適当だと―――思った。単に考えるのが面倒くさかった訳ではない。
 操はまだ人間のことをよく知らない。もっと彼が学び、理解を深めた時、人同士の愛情や行為も自然とわかるようになるだろう。まるで子供を育てるみたいだな、と総士は思ってしまう。子供と言うには随分でかい子供だが。
「それじゃあやっぱり、一騎は総士にいじめられて嬉しかったんだね」
「………」
 納得する操とは裏腹に、何も言わなくなった一騎が睨んでいる。今は気付かないふりをした。
「でもそれじゃあ、総士は一騎をいじめて嬉しいの?」
「好きだからな。好きな奴ほどいじめたくなるのも人間の心理だ」
「えー、じゃあ僕のこともいじめてよー」
「断る。僕は多数を相手するほど不誠実な人間ではない」
「ぶー」
 頬を膨らませる操が、それでも総士の言っている内容を総士の思惑通り理解できたことに満足する。元はと言えば自分の鍵のかけ忘れが原因だが、操に人間の感情の一部を理解させることに成功したことは僥倖である。いや、そもそもアルヴィスの扉は圧縮空気を入れたり抜いたりで開閉する自動ドアだというのに、どうやって操はこっそり覗けることができたのだろうか?
 まあ、方法はともかくとして、見られていたことは間違いないのだから、
(今度から鍵の確認は二度行おう)
 と心に誓う総士であった。


いい訳編。総士は一騎専門のいじめっ子の称号を手に入れた!そしてまだ微妙に続きます。

[2011年 4月 16日]