竜宮島の表側はまだ世界地図に日本という国があった頃、おおよそ二百年くらい前の『昭和』時代を模した古きよき木造の住宅が建ち並ぶ。それは坂の途中に位置する真壁家も例外ではない。
 一階に陶芸の工房兼販売の店舗を構え、その奥には居間と各種水回りを配置する。父親の寝床が一番奥まった和室で、二階は一騎と…間借りする総士の部屋しかない。しかも父親が二階に上がってくることは皆無なので、実質二階は今、子供だけの不可侵スペースだった。
 ――――だからと言って、父がいる時間帯にそういうことに及んでいいという理由にはならない。

「一騎」
「っ、そう、し」
 耳朶をくすぐる甘い声に、駄目だとわかりつつもぴくりと反応してしまう体に一騎は戸惑う。
 二年間の喪失感は、そう簡単に埋められやしない。けれども一体いつまでこうなのかと考えて、もしかしていつまでもこうなのではないかと思い至り、少し絶望的にもなったりする。
 だが、今夜はそんな総士にも、総士に飢えた自分にも逆らわなければならない。
「なんだ」
 なんだじゃない。必死に覆い被さろうとする総士を押しやれば、そんなむっとしたような声。
「下に、父さんがいるだろ…!」
 下、というか、今の時間なら工房かもしれない。
 標準的な木造建て日本家屋の真壁家の各部屋にはもちろん鍵なんかない。限りなくオープンな和式引き戸…つまりは襖によって部屋が分けられている。その為か割と音はつつぬけで、居間のテレビの音くらいは二階の部屋まで聞こえるのだ。
 その音が今は聞こえない。けれども夕飯までは三人一緒だった。それから出かけるとも何も言われていないし、言っても来ない。だから確実に父親は下にいる。
 だからこそ、こういうのは駄目なのだ。駄目、とか、なんだ、という時点の話じゃない。
 それなのに、
「…うひゃっ」
 机の下で太ももを膝から上に向かって撫でられ、変な声が上がる。風呂上がりでハーフパンツだったのが災いした。そういえば上もTシャツのみだ。その気になった総士を前にして、極限無防備な格好であることを自覚する。だがこれが風呂上がりのいつもの格好なのだから、回避しようがない。
 思わず声の上がった口を自ら塞げば、ほらみたことか、と実に総士の勝ち誇った顔があった。
「一騎の方が暴れてるだろ」
「それはっ、総士が変なことするから…!」
 怒鳴ってはいるが、あくまで小声だ。しかし咄嗟に口を塞いだせいで、総士の肩を押し退けていた腕が片手になってしまい、徐々に圧されている。半ば押し倒された状態で、辛うじて片腕で浮いた背を支えるのみだ。
「変なこととは心外だ。僕はただ人の極自然な生理欲求に従うべく、ありのままに行動しているだけだ」
「む、むずかしく言うな!」
「ああ。ようするに一騎に触れたいんだ」
「〜〜〜!」
 わざとらしく小難しく言ってはぐらかすのはいつものことだと指摘すれば、直球で投げ返されてど真ん中に決まる。
 その隙にまた少し、総士との距離が狭まる。足の上に跨がって覆い被さられ、その体で電球の明かりが遮られていた。逆光でも、息が触れるほど近いから顔だけはよく見える。
「今日は駄目だって、総士」
 ついさっきまで、学校の宿題を揃ってやっていた筈なのに―――…。
 最近になって学校に通い始めた総士は、二年のブランクをまるで感じさせずにそこにいた。意気込んで総士の勉強を見てやると言っていた一騎も(同級〜だれがため〜参照)、気が付けば以前と同様、宿題のわからないところの教えを請うというスタンスにしっくり落ち着いた。
 それからは二人で取りかかった方が教え合えるし、切磋琢磨できるというもっともらしい総士の理由に賛同し、家での勉強時間はこうしてどちらかの部屋か今に集合し、ノートを広げることが多くなって―――今日は一騎の部屋で、部屋の中央に折り畳みのちゃぶ台を畳の上に用意して始めることしばし……が今だった。
 宿題はあらかた片付いている。だが終わってはいない。いや、終わってる終わってない以前に下にいる父親だ。
 じゃあ課題が終わってなくとも、下の階に父親がいなければいいのか、というわけでもない。
「今日が駄目ならいつならいいんだ?」
「そ、それは……」
「それじゃあ今日しかないな」
「っ、ど、してそうなるんだよっ」
 するりとTシャツの裾から中に総士の手の平が入り込んで脇腹を撫でられ、語尾が跳ねた。そうやってどんどん自分の領域に総士が侵食してくる。一騎もわかっている。駄目だとわかっているのに強く力で拒めない自分が悪いのだということを。
「一騎」
「っ…うわわ!?」
 名を呼ぶ声音に、抗いがたい甘さが滲む。それに過剰に反応してしまって思わず力が緩むと、すかさず肩を辛うじて押し返していた腕は畳に縫い付けられた。その反動で背中を浮かせていた一騎の体は背後へと倒れ込む。その時結構な音がして一騎は慌てた。
「ば、馬鹿! 大きな音立てたら父さんが…!」
 しかし体を起こそうにも、真上に総士にのしかかられ、片手までも捕われ、畳の上で身じろぎすることしかできない。なのに総士は何も言わない。しかも何も言わず、組み敷いた一騎にキスをした。
「ん、う…っ」
(馬鹿馬鹿馬鹿総士! 父さんが来る…!)
 一騎は必死に逃げ出そうと暴れるが、さっきと同様、大した抵抗にはならなかった。
「んく、そ、し…っふあ、はぁ…んっ」
 抗議の声は、入り込んできた舌に絡め取られて敢なく却下だ。舌だけじゃない。Tシャツの裾に潜り込んだ手が、スルスルと手首で引っ掛けるように捲り上げ、同時に肉の薄い脇腹や胸を、風呂上がりのせいかそれとも興奮のせいか、しっとりと汗ばんだ手の平が撫でていく。そのぞわぞわとはい上がってくる感覚は、確実に一騎の理性を奪っていく。
 けれども頭の隅ではずっと襖の向こう、階段からの音を気にしていた。少しでも何か物音がしたら咄嗟にどう行動するか、一騎の頭の中でめまぐるしくその情報が飛び交う。
 誰か…と言っても一人しかいないが…来たら、ひとまず総士だって止める筈だ。止めなかったら……渾身の力でひっくり返して、プロレスごっこだと言い訳するか。17にもなってプロレスごっこはツライか…そもそも総士と自分でプロレスごっことはいかがなものか―――…。
「………」
 ぐるぐると思考が回る。
 その間にも総士の進攻は止まらない―――かと思いきや、唐突にぴたり、とその動きが止まった。
「ふぇ?」
 そしてぬる、と一騎の口内に差し込んでいた舌は抜け出ていって、胸や腹を撫でていた手もTシャツの中から抜け出していく。
「そう、し?」
 何が起こったのかわからず、一騎は離れていく総士を見上げた。その顔に浮かんでいるのは、あからさまに何かを残念がる表情だ。けれども一騎はまだ何も察知していない。
 あれだけ派手な音を立てているにも関わらず様子を見に来ないなんて、まるで一階には誰もいないような……。
「一騎の集中力を甘く見ていた、な」
「な、何が?」
 思わず問い返した。キスをされていたせいか、舌がうまく回らず、妙に甘えた声になるのが恥ずかしかった。
「父親がもしかして2階の様子を見に来るかもしれない。その緊張感に反し、体は過剰に反応して…というのを期待していたのだが」
「??」
 小難しい言葉はよくわからない。するとそれが顔に出ていたのか、総士は軽く肩を竦めて、
「誰かに見られるかもっていうのが、逆に興奮するってことだ」
「!? お、俺はそんな変態じゃない!? ………あっ」
 とんでもないことを言い出す総士に、思わずしんと静まり返った家中に響く大きな声を上げてしまった。がばっと口を塞ぐがもう遅い。
「……!?……」
「………」
 声の余韻にひたすら響く静寂に聴き入り、息を詰める。それなのに自分の鼓動だけはうるさいくらい耳に付いた。
 ―――しかしいつまでも経っても、誰か上がってくる気配がない。
 それどころか、相変わらずまるで誰もいないかのように家の中は静まり返っていて……。
「誰もいないんだから、誰も来る筈がない」
「え?」
 そんな一騎にまるで手品の種明かしでもするかのように総士は言った。しかしそれでも一騎の頭はすぐにはそれを理解できない。さっきからこんなことばかりのような気がする。そして案の定、総士は軽く肩を竦め、

「まあつまり…おじさんは出かけた、ということだ。僕が風呂から上がった時、溝口さんに呼び出されて出かけて行ったよ。一騎にもそう伝えてくれ、と頼まれている」

 それは手品の種明かしというより、ドッキリのネタバラしのようであった。
「え……ええ……ええー!?」
 ああ、それなら俺だって意味がわかるよ。
 わかるが―――…わかるけど。
「な、なんでそのこと黙ってたんだよ! 俺ばっか、一人ずっと知らないで…!!」
 かーっと顔がこれ以上ないというほど赤くなったのがわかった。どういう意味で恥ずかしくなったのかわからないが、一人でオタオタしていた自分に対してとか、そういう状況を思い出してだとか、とにかくそういうものが一気に噴き出した感じだ。
 しかし対して未だ半ば覆い被さったままの総士は涼しい顔で、
「だから、『誰かに見られるかも、ばれるかも』という緊張感に余計に神経が高ぶり、気持ち良くなれるかもしれない…とそう考えてみたんだ。だが少しばかり一騎の集中力を甘く見ていた。下の気配ばかり気にして、逆に僕に集中できてない」
「………!!」
 まるで状況を整理するかのように並べ立てられる。しかし一騎は気付いてしまった。総士はそう言っているが、それでも確かに体が反応はしていた、ということを。
「そ、そりゃあ下のが気になるにきまってるだろ…っ!」
 それを総士に気付かれたくなくて、一騎は精一杯主張した。
 自分はそんな変態じゃない。これは総士が悪いんだ。総士がそういうふうにするから、自分の体が反応するだけであって、総士が言うようにこれは人間の生理的で正しい反応がなんたらかんたら……なのだと。
 ―――と、そこへ。
「そうだな。やはり一騎には変化球より、直球の方が効果覿面だ」
「変化球? 何が? ―――あっ」
 とん、と肩を押され、半ば起き上がっていたところを再び畳の上に転がされる。はっと見上げた時には既に総士が真上に覆い被さっていた。
「つまりは下手な小細工を労するより真っ向勝負を挑んだ方が、一騎もこちらに集中できる…ということだな。ほら、ここも……」
「ア…っ」
 急に、服の上から触られて声が喉を突いて出る。そこは総士の跨る少し上あたり、足の付け根の奥まった場所。男ならそこに触られて反応しないわけにいかない場所だ。
「まだ少し勃ってる…中途半端で苦しいだろ」
「〜〜〜〜っ!!!」
 気付かれてた。
 一騎は今度こそ、耳の端っこまで血が駆け巡ったのを感じた。しかし総士の手はそれだけじゃ収まらず、さっさと一騎のTシャツの中に潜り込み、さっきしたのと同じよう、手の平や指先を使って上へ上へとくすぐっていく。
「ア、ん…そ、ぉし」
「一騎」
「んんっ」
 おかしい。さっきしたのと同じ行為なのに、せり上がってくる衝動が違う。気にするものがないせいか、総士の指を、声を、さっきよりも鮮明に感じ取れる。
 そして体は素直に反応を返して、熱を上げていく。腰の奥がじぃんと痺れるような感覚に、焦れて、自ら腰を揺らしてしまうことに一騎は気付いていなかった。
「んく、…はあ…」
「…ん…一騎」
 やがて舌の根が痺れるほどたっぷりと吸われ、息も絶え絶えにさせられて。うっすらと滲んだ視界の向こうには、覆い被さる総士の顔がある。よく見えないがきっと、蕩けるような優しい顔をしているのだろう。
「さあ、一騎。続き…しようか?」
 さっきとは打って変わって、自分の意識が総士にだけ向けられているのを感じる。その手を、その体温を、その視線を、体全部がまるで感覚器になったみたいに感じていた。


一騎の集中力はハンパなさそう。けど小細工は通用しなさそうなので(鈍感だから)やはり直球が一番、という話。総士の部屋ですればいいと思うよ。

[2011年 2月 24日]