散歩に行こう、と一騎から誘われた。その手には何故かスコップとバケツがある。
「あさりでも取りに行くのか?」
「馬鹿。陶芸の土を取りに行くんだよ」
 馬鹿と言われた。確かにあさりはまだシーズンではない。手荷物から連想するのに思考を急きすぎた。
「で、行くのか?」
 行かないのか?と尋ねられ、
「一騎さえよければ」
 と、総士は腰を上げる。わざわざ誘ってくれたものを、無下にする理由はない。
「じゃ、ちょっと行ってくるよ」
「遅くなりすぎるなよ」
 工房に顔を覗かせ、父に一声かけると二人は揃って家の外に出た。


「明るいな」
「ああ」
 今日は満月だ。昼間ほどとは言わないが、青白い光がこの洋上を漂う人工島を照らしている。しかし満月といっても偽装鏡面に上がる映像だ。本物の月は空を覆うシールドの向こう側にある。だが映像と言っても、きちんと月齢に習って満ち欠けし、この島の暦を印す一旦を担っていた。
「散歩、といっていたが宛てはあるのか?」
 揃って月を見上げ、しかし総士の方が先に視線を一騎へと落として尋ねる。陶芸の土を取るスポットが、何箇所か山の中にあると以前教えてもらったことがある。そこに行って帰ってくるだけなら、総士まで誘うことはないだろう。
 すると、
「散歩なんだから、宛てなんてないだろ」
「そういうものか?」
 率先して『散歩』に参加したことがないのでよくわからない。目的地があると散歩とは言わない訳ではないだろうが。
「たまにはいいだろ。二人でぶらぶらしてさ」
 重たくなるから土を取るのは最後にしてさ、と一騎は歩き出す。誘ってくれた、ということは、一緒に行きたいのだと考える。土を取るならば総士より、陶芸の師であり作業に慣れた父親を選ぶべきだろう。だがそうではないこと。
 わざわざ誘ってくれた好意と真意に、総士は自分の好意と真意を重ねた。
「総士ー?」
 少し先を行った一騎が振り返り、呼ぶ。そうして待っていてくれるということに、総士がどれだけの愛おしさを感じるのか、きっと一騎には計り知れないだろう。
 満月に色濃い影を踏みながら、二人海岸沿いの道を歩く。そう遅い時間ではないが、人すれ違うことなく、二人でくだらない話をしながらぶらぶらと歩いた。
「でさ、咲良がそうしたら」
「それは剣司のタイミングが悪いな」
「でも遠見やカノンは」
「そことそれを同列で考えるな。そのうちお前も」
「それだったら総士だって―――…」
 話題や噂話に乏しいこの島では、話すことなどどうしても身近な話題にならざるを得ない。それでも楽しかった。まるで普通の学生にでもなったかのような、そんな穏やかな錯覚。
「あ、ちょっとストップ」
 すると急に一騎は足を止め、総士の行く手を阻んだ。そこは少しだけ道が海へ張り出した場所で、海に向かうように木製のベンチが置かれていた。
「ちょっと休んでいこう」
「疲れたのか?」
「そういうわけじゃないけど」
 自分はともかく、一騎の体力は常人の比ではない。不思議に思いながらも、一騎の隣に総士は誘われるまま腰を下ろした。
 現在の竜宮島の停泊地点を考えると、もうしばらくすれば季節は秋へと下り、肌寒くなってくるだろう。けれども今宵は上着をまだ羽織るまではいかない。まだ夏の名残のある温い風が、丁度海へ突き出したその場所に座る二人の頬や髪を撫でる。
「そういや海ってさ、どこにいても同じ匂いがするんだな」
 すん、と鼻を鳴らしながら一騎が言う。まるで犬だな、と思いつつ、総士も目の前に広がる海へと顔を向けた。
 確かに洋上に浮かぶこの島の上にいて、海の匂いを感じない場所はない。しかし長年嗅ぎ続けていると当たり前になり、あまり意識はしたことはなかった。だがそのように言われると、ふとその当たり前になっていた匂いを意識することができる。
 確か、この匂いは―――…。
「一騎。潮風の匂いは、海に溶け込んだプランクトンの死骸の匂いだ」
「うえ、そうなのか?」
 それを聞いて、露骨に嫌そうな顔をする。確かに死骸、と聞いてはあまりいい思いは浮かばない。だが実際、海の香りはプランクトンが発生させる有毒な物質の匂いであり、匂いが強い場所は海洋汚染が進んでいる、とも言える現象だ。汚染が広がる場所ほど、プランクトンの発生が増えるからである。
 しかし言葉を言い換えれば、
「だがこうして僕たちがここにいるのも、海から発生した原初の生命体から連なる誕生と滅亡の連鎖の結果だ。それを考えると、海は生命のスープとも言える」
 人間もまた、最初はただのプランクトンにすぎなかった。それを考えれば、海は生命誕生の源であり、今でもそういった可能性が溶け込んでいると言えるだろう。
 それを総士は『生命のスープ』だと例える。しかし一騎は、
「スープかぁ……俺は味噌汁の方が好きだな」
 そう言って相変わらずあまりいい顔をしない一騎に、総士は苦笑し、そうだな、と答えた。
 ―――そう、可能性の連鎖はいまだ続いている。
 自分も一度は体を砕き、無へと下った。再構成した今の体も人に近いが、厳密に人と同じではない。
 けれどもこれも、そんな連鎖の先にあるものだ。
 乙姫によって生命のサイクルを理解し、総士によって痛みを理解させられたフェストゥムが生み出した、彼らの中では認められなかった筈の『個』という存在。それよりずっと昔、生命は『古代ミール』と呼ばれるものに影響を受けていたとさえ言う。
 すべてが生み出された連鎖の先にある。人だけではない。彼ら―――フェストゥムさえ巻き込んで、これからこの先、連鎖はまだまだ続いていく。いや、いかなければならない。だからこそ自分たちは、確実な明日を求めて生きようとするのだ。
 この指先すら見えぬ、不確かな霧の海を泳ぎながら―――…。
「……総士?」
「!」
 どうやら深い思考に落ち過ぎていたようだ。気が付けば隣に座る一騎に顔を覗き込まれており、総士ははっと我に返る。
「…ああ、すまない」
「考え事か?」
「いや、単なる物思いだ」
 そう言ってごまかすようにこちらを心配しているような一騎の顔に手を伸ばし、海風に揺られる髪を撫で、頬に触れる。指先から伝わるぬくもりもまた、連鎖の先にあるものだ。
 頤に指先をかけ、親指の腹で柔らかなそれを撫でる。すると一騎はくすぐったそうに肩を竦めるから、ほんの少しだった距離を更に詰めて、無防備な唇を啄んだ。
「―――っ、馬鹿、いきなり」
 吐息を奪うまでもなくすぐに解放すれば、一騎の顔は月明かりでもわかる程赤かった。だから総士は肩を揺らして笑い、そっと、ベンチについた一騎の手に手を重ねる。
「デートなら、手を繋いでキスをすべきだろう?」
 手を繋ぐのが後になってしまったけれど。そう悪戯に言えば、赤い顔が更に赤くなった。
「な、な、な、何を」
「散歩に誘ってくれたのは、二人きりになりたかったから、じゃあないのか?」
「そ、そ、そ、そんなこと……」
 ない、とは言わないのが一騎の可愛いところだ。
 重ねた手の平の下で握る拳をそっと撫でて促すと、怖ず怖ずと塊が解れていく。そこを今度は指を絡めて握って、軽く、総士は自分の方にと引いた。すると思ったよりも素直に肩にこてん、と重さがかかり、その温もりに総士も体を寄せて互いの体を支え合うような形になる。
 多くの奇跡的な連鎖の後にこうして得た温もりを、今は何より大切に思う。それを与えてくれものすべてがいつしか同じ場所に立つこともまた、この連鎖の先にあるのだろうか?
(進んでいくさ。一騎と一緒なら、もう何も僕が畏れるものはない)
「……さて」
「総士?」
 ひょいっと体を離したのは総士からだ。名残惜しいのは当然だが、呼んだ一騎の声も同じようなニュアンスが含まれていることで今回は満足することにする。
「さあ、そろそろ行こう。遅くなるとおじさんが迎えに来るかもな」
「そんなことはないと思うけど…」
 俺だってそこまで子供じゃないし、と一騎は笑う。
 いや、それはわからない。この島の大人たちは皆、誰もが子供を大切に思ってくれる。血の繋がった親子も、そうでない親子も。例え親子でなくとも、誰もが見守ってくれているように。
 すると総士が言うように、帰りが遅いと迎えにきた父親を想像したのだろう。何とも微妙な、けれども嬉しそうな顔を一騎はした。
「一騎」
「!」
 その手を、指を絡めて繋いだままの手を総士は引く。恥ずかしがって離せというかと思えば何も言わず、一騎は少し歩を早め、引っ張る総士の隣について歩き始めた。繋いだ手の反対、ぶらぶらとスコップの入ったバケツを持つ手は揺られ、機嫌がいいのがわかる。
 心配をかけない為にも、目的を達して早く帰らなければならない。
 けれどももう少しこうしていたい。
 その葛藤を考慮して少しだけ歩調を緩めれば、何も言わず一騎もそれに合わせた。


帰ってきた総士は人間なのか、フェストゥムなのか、それともハイブリッドな新人類なのか、今だ設定を決めかねている…。

[2011年 2月 1日]