目が見えない時、手が、指が、自分の目だった。触れたもの形が、見えていた頃の記憶を呼び覚ますように。
 けれどもこの目はもう見えている。去っていった彼が青い空を見られるようにとくれたもの。けれどもそれは一騎に青い空以上の幸福をくれた。
 それなのに―――この手はいつまでも触れるものを探している。

「一騎、今終わりか?」
『楽園』の看板を閉店に書き直しにきた一騎にかかる、優しい声。
 時刻は空がもう夕暮れかかる頃。竜宮島の風景を赤く照らし、空の端っこからだんだんと夜の藍色が混ざっていく。
 声に顔を上げれば、道の向こうに総士がいた。
「総士も終わったのか?」
「ああ。そんな時間だろうと思って迎えにきた」
 そう言う総士はアルヴィス帰りではあるが、普段着だ。誰もがそうだが、地下での現実を地上に持ち出したくないと、制服のまま出てくる者は少ない。それは総士も同じらしく、帰ってきて成長した体に合わせて新調した服は、何だかちょっと見慣れなくて新鮮だった。
「一緒に帰れるか? 片付けがあるなら待っているが」
「大丈夫だ。これでもう終わりだから、ちょっと待っててくれ。荷物をとってくる」
 先に帰る、とは言わない総士に、一騎はものがよく見えなかった時は真矢の仕事だったそれをこなし、ぱたぱたと店内へと戻っていく。そうして途中カウンターを覗いて溝口さんに帰ることを告げ、2階に荷物を取りに駆け上がった。
 以前こんなことをすれば、真矢にすぐさま危ないよ、と声をかけられたものだ。けれども上がる段数を知っていれば足を踏み違えることもなく、むしろ何もない平坦な道より規則正しくわかりやすくて楽だった。
 けれどももう目は見えている。だから以前のように段数を数えなくていい筈なのに、二年間で体に刻み込まれた癖というのはなかなか抜けないらしく、いまだついつい段を数えながら上がってしまっていた。
「お待たせ!」
 荷物と言っても、学校帰りにそのままやってきたので通学用の荷物の詰まったバッグと、野菜が入ったエコバッグを一つだけだった。エプロンはバッグに突っ込んだので、昼間学校に行っていた時と同じような格好になる。これだけ見ると、今学校から揃って帰宅するような様子にも見えるだろう。
「一騎、あまり慌てると転ぶぞ」
「今はちゃんと見えてるから転ばないさ」
 総士を待たせてはいけないと思って勢いよく店から飛び出してきた一騎に、総士が苦笑する。けれども心配は無用だ。階段同様、ここからだったら目をつぶっていたって家まで帰れる自信がある。
 大体そんな自分の心配より、まだフェストゥムの側より戻ってきたばかりだと言うのに、いなくなった二年前と同じようにアルヴィスで仕事をしている総士の方が一騎は心配だった。いくら島を守りたいという気持ちが強いとは言え、無理をしてほしくないし、その無理が祟って倒れでもしたら本末転倒だ。
 だからせめて体調管理だけは自分がしっかりしようと、半ば無理矢理一騎は総士を自分の家に住まわせた。父と二人暮らしで部屋は余っているし、こうすれば放っておけばまともな食生活をしない総士の食事管理もできる。
 自分と総士と父という三人揃っての食事は何だか奇妙な光景だったが、その内慣れるだろう。特に相談もせず勝手に決めた一騎のこの案にも、父は今の所不平を言って来ないことであるし。
「あ、そうそう。今日は店で余った野菜をもらってきたから、それと鶏肉煮て筑前煮にしような。肉は今から買いに行くから、他に何か食べたいものあるか?」
 今日は父がアルヴィスから帰ってくるのが遅いので、冷めても温め直せて味もしみて一石二鳥なメニューだ。後は定番の汁物とご飯だが、育ちざかりの自分たちはそれだけじゃあ足りないので、他に何かないかと聞けば、
「一騎が作ってくれるのならなんでもいいさ」
 その答えはいつも決まったものだ。そしてその答えに一騎が呆れるのも、もはや決まったものだ。
「総士も父さんもいつもそればっかじゃないか。あのさあ、食いたいもんがあったらちゃんと言えよ? 大体、毎日献立考えるのも結構大変なんだから」
 作るのは割と好きだが、献立を考えるのは億劫だ。でもせっかく作るんだからなるべく色んなものを作って食べさせてやりたいし、いつも同じような、でもいずれは飽きてしまう。父も食べたいものがあるかと聞けば、大抵何でもいいと答えるタイプだった。
 一緒に住むんだから、どっちも協力して少しは考えてほし―――…。
「一騎」
「ん、何だ?」
 夕暮れの赤に沈む帰り道。
 優しい総士の声が一騎を呼ぶ。

「手、繋ごうか」

「は?」
 少しだけ先行して歩いていた総士は振り返り、唐突に言い放った。まったくもって予想だにしない、今の会話の流れから出てくるなんて思いもしない言葉に、一騎は逆に心配して総士の顔を覗き込んだ。
「いきなり何言い出すんだよ。大丈夫か?」
「どういう意味だ」
「だってお前が」
「それは僕の言い分だ」
「え?」
 やっぱり仕事のし過ぎなんじゃないかと、不安に思った時。ふと、総士の視線が一騎から下へ落ちる。思わずその視線を一騎も辿って……そうして見たのは総士の服の裾―――を掴む荷物を持ってない方の自分の手だった。
「!? あ、いや、これは……!」
 現実に一番驚いたのは総士ではなく、当の一騎だ。慌て、ぱっと掴んでいた手を離す。
 それは無意識だった。
 まったく気付いていなかった。
 いつから掴んでいたのだろうか?
 ていうかそんな覚え、自分にはまったくない!
 動揺し、夕焼けの赤さよりも顔の熱を意識して、一騎はいたたまれなくなった。
 すると、
「確かめなくても、僕はここにいる」
 一度は離した手を、総士が掴んだ。今度は服の裾ではなく、しっかりと指と指を絡めて握られ、総士の少し低い体温と、自分の最高潮に上がった(ような気がする)体温とが混ざる。
「いや、そういうのじゃなくて、これは、その、癖って言うか…」
 誰かに見られてはいないかと、一騎は辺りを見回した。しかし周囲に人の気配はなく、家先からは夕餉を作る匂いが辺りに漂うばかりだ。
 段数で覚えた階段の長さ、手に触れる形で理解する物。目がほとんど見えなくなった代わりに、指や足などの触感が一騎の目の代わりだった。それはたった二年で無意識の動作になる程、一騎の中に根付いた。
 何でも触って確かめる。そこに何があるのか、目の見えない一騎の代わりに世界を知る為に、世界と関わる為にもっとも信用していた手段。
 けれども今、目は見えている。
 触れて確かめる必要もなく、総士は目の前にいる。
「目が見えてるって状況に慣れれば、たぶんこんな癖、治る、と思うから」
「別にあやまる必要はない。むしろずっと一騎と触れ合っていたい僕としては大歓迎だ」
「っ」
 するり、と握った手の甲を指の腹で撫でられ、びくりとした。
「馬鹿っ」
 真っ赤な顔をしてからかうな、と怒る一騎を、総士は穏やかな目で見つめていた。
「――-ということは、一騎は『あのこと』にも気付いていないんだな」
「え、何が?」
 これ以上何があるのかと、一騎はどきっとした。するとそんな一騎に、総士はうっすらと笑って、
「言わない方が面白そうだな」
 さあ帰ろう、と繋いだままの手を引く。肉を買いに行くと伝えたからか、まっすぐ家に帰る道ではなく商店街へと足が向かっている。
「ちょ、何だよそれ! 気になるだろ」
「他愛もないことだ。気にするな」
「気にするよ! こら、総士!」
 夕暮れの帰り道。妙に慌てた一騎の声が夕餉の支度に忙しい竜宮島に響いていた。というかこのままだと男二人で手を繋いだまま商店街に突入、だということに一騎が気付くのは、もう少し先の話である。


劇場版の後、しばらくこの癖は抜けなさそうです。もちろんそれは総士相手だけじゃない訳ですが…さりげに続きます。

[2011年 1月 21日]