「総士!」
 アルヴィスの廊下でかけられた声に、総士は足を止める。聞き逃すことも、聞き間違えることもしない。立ち止まって振り返る総士の傍に、軽やかに走り寄る足音さえも記憶に留めた存在がそこにいる。
「一騎」
 本来ならばそのすべてに歓喜すべきだが、総士の顔にそれは出ない。しかし無視して立ち去ることはせず、自分の元に一騎がたどり着くまで待った。
 さっきまでファフナーの訓練で一緒だったが、着替えが必要な一騎より先に総士は戻ってきている。アルヴィスで生活し、仕事と私生活がほぼここで済まされている総士がここにいるのは自然だが、島の表面部に父と暮らす一騎はそのまま着替えて家に帰るだろうと思っていた。
 だからここにいて、総士を呼び止めること自体、総士には予想していなかった事態なのだが……。
「総士、やっぱり、ここにいた、のか」
 どこから走ってきたのか。息を切らしながらたどり着いた一騎は、嬉しそうに笑う。ああ、その愛らしさと言ったら、表現に値する言葉が見当たらないくらい……なのだが、もちろん思いは秘めるばかりで、総士の表情にはかけらも出ない。
「今日の訓練は終わった筈だろう。帰らなかったのか?」
「総士を探してたんだよ。そしたら先に司令部に戻ったって先生が」
 この僕を探していた、だと?
 ファフナーに乗ればクロッシングにより、一騎とは誰よりも近くに在れる。けれどもファフナーに乗ること自体がパイロットにとっては負担だ。いつも断腸の思いで離れ、仕事に支障をきたさない為にも先に出る、というのに。
「たまには待ってくれててもいいだろ」
 そんな総士の葛藤なんぞ露知らず、一騎は小さく唇を尖らせる。ああ、そんな可愛く拗ねて見せるな。僕の自制心もわかってくれ、と内心総士は嘆くが、やっぱり顔には出さない。
「僕はまだ仕事が残っているからな。帰れない…それより一騎、アルヴィス内ではきちんとした格好でいろ」
「あ、ごめん」
 慌てて来たのが丸わかりで、一騎のスカーフは首から下げただけの状態だった。総士が手を伸ばして結んでやろうとすると、一騎は、ん、と軽く顎を上げて総士を見上げるようにする。まるでキスしてくれと言わんばかりのその体勢に、総士の心の中では脳内を駆け巡るシナプスの信号よりも早く激しい葛藤が駆け抜けたが、しかしわずかに頬が引き攣っただけで表情には出なかった。
 そうしてどうにか一騎のスカーフを結んでやることに成功する。
「ほら」
「あ、ありがとう」
「それで?」
「え?」
「どうして僕を探していたんだ、一騎」
「あ、ああ、実はさ…ちょっとお願いがあって」
「お願い?」
 一騎からのお願い。珍しいことだ。どちらかと言えば控えめで、あまり何かを頼まれたことも多くはない。それにわりと一騎は一人でなんでもできてしまうので、非常に珍しいシチュエーションだ。
「実は」
「?」
 なんて言いながら、きょろりと辺りを見回す。まるで誰かの視線を気にしているように。誰かに見られたり聞かれたりしてはまずいお願いなのか。どんなお願いだったらそんな状況になる?他人に聞かれては気まずく、しかし総士に頼まないと駄目なこと……それは。
(そうか、そういうことか一騎!)
 すぐさま総士の中で一つの解答がピコーンと浮かび上がった。今に到るシチュエーションと、そして今の一騎の反応を考慮して考えれば、そこから答えを導き出すのは簡単だった。
「いや、いい一騎。言わなくてもわかった」
「え」
 周りに誰もいないことを確認した一騎が口を開こうとしたところを、総士は手の平を突き付けて押し止めた。
「長い付き合いだ。一騎の言いたいことなんて、僕にはお見通しだ」
 そう、お見通しだ。わからいでか。
「そ、そうか。それなら頼むよ。場所はお前の部屋でいいからさ」
 当確だ。そんな大胆なことを言う困ったような、けれども嬉しそうな顔に、任せておけばいいと抱き締めたい衝動を堪えるのが辛かった。握り締めた拳がふるふると震えているのを一騎に見せぬよう、総士はさりげなく、手を後ろに組む。
「どうしようもなくてさ、本当に困ってたんだけど…やっぱり総士はすごいな」
 いや、すごいのはおまえだ一騎、と口に出さずに総士は思う。自分ができないことを、やりたくても抑えてしまうことを素直に言える。総士はそんな一騎の素直さが時に羨ましくあった。そんな自分にはないものを持っている一騎だからこそ、こんなにも惹かれるのだろう。
「それじゃあ早速行こう」
「仕事はもういいのか?」
「ああ」
 一騎を伴い、総士は自分の部屋に向かう。こういう時、アルヴィスの中に自分の部屋があってよかったと心の底から思う。もちろん以前は、そこに一騎を招き入れる未来なんて、想像もしていなかったのだが。
「でも、よかった」
 背後から聞こえるほっとした声。
「俺一人じゃあどうしようもなくって、すごく困ってたんだ」
 そして何やらがさがさと鞄を漁る音。
(鞄を漁る音?)

「見てくれよ、この大量の数学の宿題」

 ぴた、と先行する総士の足が止まった。
「近藤先生も酷いよな。パイロット組はただでさえ授業が他の皆より遅れてるからって、こんなに宿題出すことないのに」
「……………」
「総士?」
 皆城総士は天に舞い上がる階段から、一瞬で現実という地獄に舞い降りた。そんなに優雅なものではないが、気分的にはそんな感じだった。
 ああ、そういうことか。そうだ、そうだよな。一騎はそうだったな。
 少しでも一騎にそういうのを期待した自分を思い出し、何て道化だと思う。
「――-一騎、言っておくが」
「?」
 足をとめた総士は振り返らず、そっと額を押さえた。そしてそれまで浮き足立っていた自分を思考の隅に追いやり、極めて冷静な自分を表へと引っ張り出す。
 そこに立っていたのはさっきまでの浮ついた皆城総士ではなく、酷く真面目で面白味のない皆城総士だった。
「その宿題が出たのは一週間も前だ。そして期日は明日までだった筈だ」
「っ、だ、だって訓練とか襲撃で忙しくて」
「僕はその日の内に終わらせたぞ」
「そ、総士と一緒にするなよ! だ、だから困ってるって言ったじゃないか…」
 いや、その日の内ではなくたって、一週間あった。まったく触れない筈はないし、流石にそこまで無理な量を先生も出さないだろう。完全に一騎の怠慢だ。
 これはパイロットを管理している自分にとっても由々しき事態である。島を守るべきファフナーのパイロットが、宿題一つもきちんとできないなんて―――…。
「これは僕の監督責任だ。来い、一騎。何が何でも今日中に終わらせるぞ」
「手伝ってくれるのか!?」
 期待に満ちた声に、しかしそこで総士は心を鬼にした。
「やるのはお前自身だ。僕はお前がきちんと終わらせられるよう、監視する立場にある」
「ちょ、え、この量は一人じゃ無理だって」
「それは今日の今日まで先送りにしていた自分が原因だろう。自業自得というんだ」
 サービスでにこりと微笑んでやれば、さあっと一騎の顔が青ざめたような気がした。純粋な男心を弄んだ罰だ…もっとも、一騎本人はそんなこと、微塵も気付いてはいないだろう。そういう男だ―――まあ、知っていた訳だが。
 一騎のこととなると必要以上に期待をしてしまう自分もまた、浅はかなのだと自嘲して。
「まあしかし終わるまで僕も付き合ってやる。わからないところも教えてやる。だから安心して励め」
「ううう」


ギャグだとわりと総士の性格はこんな感じだと思ってしまう…いや、真面目にちょっと抜けてて可愛いと思ってます。そして一騎は天然鈍感フラグクラッシャー。

[2011年 1月 19日]