「一騎」
「総士?」
 アルヴィス内水中展望室。ファフナーの訓練も終わり、一人ここでぼんやりしていたら気が付けば誰もいなくなってしまっていた。それでも帰る気になかなかなれずに居れば、不意に背後のエスカレーターが動き出して―――やってきたのは、思いも寄らず皆城総士だった。
「まだアルヴィスの中にいたのか。訓練は随分前に終わったのに」
「うん。何となく……それより総士こそ、こんな所に何の用だ?」
「僕がここに来てはおかしいか?」
「おかしくないけど、一人でここにくるようなキャラじゃあないよな」
「それはおかしいと思ってるんじゃないのか?」
 なんて言い合っても、どちらかが立ち去ることはない。総士はベンチに座る一騎の右側に腰を下ろし、同じく耐圧ガラスの向こう側、暗い、夜の水底に視線を投げた。
「暗いな」
「夜だからな。昼間はもうちょっと光が差し込んで、魚が見える」
 展望室自体もそう明るい場所ではない。けれども間接照明のほの明るい淡い光に照らされ、すぐ隣に座るお互いの姿はよくわかる。それでも視線は直接交わさず、お互いとも耐圧ガラスの向こう側を見つめる。
「体は大丈夫か?」
「お前こそ。俺達が帰っても遅くまで頑張ってるって父さんに聞いたぞ」
「それが僕の仕事だからだ。お前たちパイロットを生かす戦い方のシミュレーションは、いくらやっても無駄にはならない」
「そっか。ありがとな」
「ファフナーに乗れない僕にしか出来ないことだ」
「……明日は、学校来るのか?」
「行くよ。フェストゥムの襲撃がない限り」
「そっか」
「………」
「………」
 そこで会話が途切れてしまう。けれども以前のような居心地の悪さは今では感じない。すぐ傍に、体温が触れる程近くに総士がいる。まるでファフナーの中にいるようだ。一人でファフナーに乗った時、初めて総士がいないあの空間の寂しさを知った。だからだろうか。総士のいる今が、酷く心地好かった。
「………」
「………」
 ふと、ガラスの向こう側から視線を動かし、隣に座る総士を見た。すると総士も同じくして一騎を見た所で、随分近い場所で二人の視線が重なる。
「一騎」
「…総士」
 気が付くと、こうやって名前を呼び合うことが増えた。
 総士の声で名前を呼ばれるのが好きだ。昔からそうだ。あの時からつい最近までは、少し恐ろしくもあった。けれども好きなことには変わりがなかった。
 これだけ距離が近いとよりわかる、もう大分薄くなった総士の左目の傷。恐れの象徴。
「一騎?」
「なあ傷、触ってもいいか?」
 我ながら突拍子がないなと思う。けれども、
「……ああ」
 総士はあっさりと頷いて、一騎の為に目を閉じた。目を閉じると、瞳で分断されていた上下の傷が一本に結ばれる。痛々しい、なんて思うのは自分勝手か。理由はどうあれ、この傷を付けてしまったのは自分だと言うのに。
 一騎は手を伸ばし、そっと指の腹でその傷を辿った。するとぴくりとまぶたが震え、長い睫毛が指に触れたような気がした。
「あ……平気か?」
 思わず痛かったのかと思い、手を引こうとする。けれども総士はそうじゃないと緩く首を振り、離れようとした一騎の手首を掴んで再びその傷跡に触れさせた。
「ああ、もう昔の事だ。痛みはない」
「―――俺が触っても平気か?」
「お前だから平気だ」
「そっか……」
 ずっと、言葉でも触れる事を恐れていた。それなのに触ってしまえば意外とあっさり触れてしまえて、少しだけ拍子抜けしてしまう。
「えっと…総士?」
 しかしいくら痛くないとは言っても、そうやっていつまでも触っているわけにはいかない。しかし手首を掴まれたままいつまでたっても離してもらえない手に、一騎は手の向こうにある総士の顔を伺った。すると閉じていた目が開き、そこに触れていた手をぐいっと降ろされる。
 そして、
「僕もお前に触れていいか?」
「俺に? 別に構わないけ、ど―――…!?」
 いいと言った時には既に総士は行動していた。瞬き程の時間の後、眼前、視界いっぱいの総士の顔と、唇に重なった唇の感触。
 あまりに唐突すぎて、思考はほぼフラットだ。ただ目の前にあるぼやけた総士の顔を綺麗だな、とぼんやりと思ったくらい。
「―――一騎、キスをする時は目を閉じるもんだぞ」
「あ、ごめん…」
 やがて離れたのも総士からだった。思わずその離れていく顔をじっと眺めていると、その顔がふと珍しい苦笑を浮かべた。
「嫌がらないんだな」
「え、別に嫌だって思わなかったから…おかしいか?」
「いや」
「それに、」
 いつからだろうか。総士とはよくこうやって唇と唇を付けることをしていた。別に総士とそうする事は嫌じゃなかった。これはいちばん好きな人とする事だから、自分とするのはおかしな事じゃないと教えてくれたのも総士だった。それに納得したから、一騎も拒まなかった。
 けれどもいつしかしなくなって、まだし出したのは最近――-ファフナーに乗って総士と近くなった頃からだ。けれどもそれはただ、総士が求めてくるから自分にはそれを受け入れる義務があるという、半ば脅迫観念からだった。そうすることによって、一度は逃げた総士の傍に自分がいてもいいと思えたからだ。この行為が、また昔と同じように思えるようになったのは一度竜宮島を出て、帰ってきてからのこと。
 いちばん好きな人とすること。
 それは一騎にとって、総士とすることに何の疑問も見出せない理由だった。
「一騎」
「え、おい、ちょっ…総士?」
 不意にずい、と総士が体を押し付けてきて、一騎はバランスを崩す。けれどもその背中を支えられ、優しくベンチに横たえられた。するとすぐに総士がそこへ覆い被さってきて、その時肩からカーテンのように零れ落ちる淡い栗色の髪が一騎の視界を総士だけでいっぱいにする。
 やがてゆっくりと、総士は一騎との距離を詰めるように身をかがめてきて―――…。

『(S.E:ピンポンパンポーン)業務連絡、業務連絡……皆城総士は至急CDCまで出頭ください―――繰り返します、皆城総士は………』

「総士、呼ばれてるぞ?」
「………」
 スピーカーから聞こえてくる弓子先生の声に、総士の動きがぴたりと止まる。至急だなんて、何か問題でもあったのだろうか?
「総士?」
「ああわかってる…すぐ行く」
 やがて一騎が促してようやく、のろのろと総士が体を起こした。それに引っ張り上げられるように一騎も体を起こす。しかしその後も総士はすぐ行くと言ったわりには額を押さえ、ため息なんぞついたりしてなかなか動こうとはしない。
「あのさ」
「わかってる。すぐ行くから」
 いや、急かしてるわけじゃなくて。
 ふう、とため息をついて、一騎は隣の総士の顔を覗き込む。するとその視線に気が付いた総士がこちらを向くので、
「……俺、待ってようか?」
「!」
 ぴく、と総士の体が揺れた…ような気がした。額を覆っていた手をゆるゆると離し、酷く驚いたような顔をこちらに向ける。
「いいのか?」
「いいも何もないだろ。どこか…あ、お前の部屋入ってていいって言うなら、部屋で待ってるよ」
 何もない部屋だが、今日出た宿題くらいしていれば待つ時間も潰れるだろう、と思ったけれど言わなかった。何もない部屋、と言われるのを何となく総士が気にしていたっぽいからだ。
「それは構わない。しかし、いいのか?」
 何だこのしつこさは。
「だからいいって言ってるだろ。今日は父さんも家に帰って来ないって言ってたし」
「!」
 家に帰ってもどの道一人だ。一人分の食事を作るのは面倒なので、美味しいというアルヴィスの食堂とやらにも行ってみたかった。それに一度、総士が好きだと言う三色カレーとやらも食べてみたかったし。
 それはまた総士が帰ってきてから提案すればいいだろう。何だか様子がおかしいのは、わりといつものことのような気もする。
「――-すぐに行ってくる」
「ああ。じゃあ先に行ってる」
 すくっと立ち上がった総士の動きは今度は早かった。いつもより機敏な動きでスタスタとエスカレーターの向こうへ消えて行く総士を見送り、それじゃあ俺も、と一騎も腰を上げる。
「……あ、そうだ。宿題、わからないとこがあったら後で総士に教えてもらおう」
 総士もいるしちょうどいいよな、と独り呟いて、一騎は総士が向かったのとは逆の方向のエスカレーターへと向かったのだった。


ギャグなのかシリアスなのか。この場合わるいおとこは天然な一騎なのか。

[2011年 1月 13日]