高齢者福祉論
2年夏休みの課題(2382文字)

「死」についての私の考え

 私が、家族と「死」について初めて話し合ったのは16歳のときでした。当時、高校2年生だっ
た私は16歳になり、念願だった原付きの免許を取得しました。免許試験合格の帰り道、たまた
ま立ち寄ったコンビニの店頭で当時テレビなどで話題を呼んでいた臓器提供意思表示カード
(通称ドナーカード)を見つけ、何気なくそのカードを家に持ち帰りました。

 家に帰り、免許取得の報告を両親にして、さりげなくドナーカードのことも話してみました。当
時の私の考えは"免許も取得したし、社会的マナーも守らなくてはいけない、これから原付を運
転するんだから常に危険と隣り合わせになる、自分の身体が明日には事故でなくなっているか
もしれない、自分の命は自分で考えよう!"というのが心底にありました。ドナーカードに臓器
提供意思を示し自筆で署名しました。その隣には家族署名欄があり、ちょうど良い機会だった
ので家族とこのカードについて話し合ってみました。

 私の両親は、私が脳死の判定に伴い脳死後、または心臓停止後、移植のために自分の臓
器を提供することに賛成し、カードに署名してくれました。父親から「お前も、このような事を考
え、自分の意思で判断できるようになったのか。」と笑顔で応えてくれました。母親も、「私も、
脳死や心臓が停止したら多分臓器を提供すると思うわ。」と、言っていた。姉も同じ事を言って
いた。

 つまり、私の家族は死について(ここでは脳死・心停止)、とても積極的な意見をもっていたと
いうことに気付きました。特に今でも印象に残っているのは姉の言葉である。「もし私が、自分
の力で生きていけなくなったら(おそらく脳死や植物状態)、私の臓器を、移植を望んでいる人
に提供して欲しい。家族は悲しむかもしれないけど、このまま私の意志(精神)がないまま生き
続けたくない。残された私の身体(臓器)で生きたいと願う人々を救えるんだから、私はその人
の身体の中で生きていられるからね!」と言っていた。当時の私から見ると、とても意味の深
い、重い言葉だった印象を受けたのを覚えている。

 もし、本当に家族の誰かが脳死や心停止の陥ったとき、本人の意思により臓器を提供するこ
とをその日、家族みんなが承諾した。真剣な話なのにそんなに重い雰囲気にならず、みんな冗
談のように笑いも混じりながら家族で話し合ったことが今でも強く印象に残っている。考えてい
ないようで真剣に考えている、私の家族はそういう家族なのだ。
 家族みんなが、健康ではっきりとした意思を持っているときにお互いに自分の意思を表明し
あった家族にとってとても重要な一日だった。1999年7月22日、私が原付免許を取得した記念
すべき日だった。その日から私は、ドナーカードを免許と一緒に必ず持ち歩いている。高校2
年生の時、知らず知らずのうちにリビング・ウィルを表明していた。
 
 私の家族は、脳死になり死を宣告されたら臓器を提供することに同意することを承諾してい
るので、もしものときは本人の意思尊重ということで素直に状況を受けいれると思う。前もって
心の準備ができているからだ。しかし、このような家族同士の話し合いを持たない場合は、い
ろいろと大変だと思う。たとえドナーカードを持っていたにしろ家族全員の承諾が得られないな
ど、本人とまわりの人との関係上のトラブルが起こると思う。日ごろから、脳死になってしまった
ときのことなどのことを家族や身の回りの人と話し合っておくことが大切だと感じました。
上記は脳死についての意思表明でしたが、今回、末期がんについてのリビング・ウィルについ
て家族と話し合ってきました。

 私がもし、末期がんだと宣告されたら、そのことを話して欲しいということと、延命治療を一切
行わないで欲しいということを話しました。消極的安楽死を望むということだ。残された時間を
家族と一緒に過ごしたい、やり残した事をできる範囲でやりたい、決して自分の意思がなくなる
ようなスパゲッティー症候群だけにはなりたくない、自然の成り行きの中で人生を全うしたいと
家族に告げた。家族は賛成してくれた。両親は、昔から自分でやると決めたことには、それが
間違っていない限り積極的に協力してくれた。個人として私の意見を尊重してくれるのだ。
しかし、実際に両親が、私や姉が脳死や末期がんになり、死を宣告されたら本当にリビング・
ウィルを尊重し、それに従ってくれるかはその状況になるまでわからない。

 先日、24時間テレビのチャリティードラマ『お父さんの夏祭り』で、実話に基づいた末期がんの
父親とその家族を取り巻く家族のあり方をめぐるドラマで、自分の家族とドラマの家族がだぶっ
て見えてしまった。
夫が末期がんだと宣告された看護婦である妻と2人の娘、夫の意思により延命治療を一切行
わず、残された父・夫の時間を家族と一緒に、夫のやり残した事を娘たちが一生懸命かなえよ
うとするが、その夢がかなう直前に病状が悪化し亡くなってしまうというドラマだった。このドラマ
で、夢はかなわなかったが死ぬ寸前まで生き生きとした父親の姿が印象的だった。末期がん
により残された時間を宣告されることにより、悔いのない人生を送ろうとする患者の意思や心
理がとてもよくわかるドラマであった。

 自分の意識がないまま延命治療により死んでいくより、残された時間を悔いのないように死
んでいくほうが、いろいろな意味で人権の尊重になると私は思う。医学の進歩により機械や薬
により生命を維持できる時代になった。死のイメージも変わりつつあると思う。「死」というもの
は人によってそれぞれ考え方が違う。私は、「死」というものを自然の状態から来るものだと考
えている。運命ということだ。死の瞬間まで自分の意志でいきたい。それが今回のレポートで確
認することができたよい機会になった。





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