弥勒寺

東京都黒田区立川


聖観音像

焼き締め
昭和23年(1948)制作
2m42cm

弥勒菩薩はふつう手を合わせていません。
この観音像は戦争で亡くなった多くの方のために制作依頼され、
その方達の上に建立されているため、両手を合わせているのです。


堅川南部各町繊細殉難者十三回忌を迎えて          弥勒寺第五十六代住職 岩堀 至道
 広島の原爆投下を日本人が永遠に忘れることが出来ないとしたら、昭和二十年三月九日の夜間大空襲による東京都の、この辺りの惨状も亦記憶に留まることでありましよう。却火の中の焦熱地獄は、たしかに経験しない人々にとつては唯だ恐ろしい夢物語りにしか過ぎないかもしれません。
 この火の中で私は母を失いました。そうして他の親しい町の人たらは父を、母を、子を、妻を、天を夜の明ける前になくしてしまいました。まつ黒に焼けた屍を越えて、戦后生きてきた人達の心の中には拭うことの出来ない非常な悲しみと戦争に対する憤りとを、ひたすらに復興の仕事の中に燃焼させてきたに相違ありません。
 こうして迎えた十三回忌に、亡き人々の悲願を写した聖観音像の御前に合掌し、戦災殉難者のみ魂よ安かれと拝する私共の赤誠は、常に少しも変ることなく続けられてきたるのであります。
この尊像(片岡静観作)の建立も、いや、ここに安置した遺骨の数々も、すべてみな私共町中の住民が手に手にシャベルを持ら、口に念仏を唱えながら竪川に添つて横川に至る十数ケ町の辻々からひろい集め、ダビに附し、そうして昭和二十四年烈風の中に除幕開眼したものでありました。
まことにこの土地に任するものの覚悟は之ら先亡のみ魂を忘れては有り得ない筈であり、又この観音の御利益を受けて、この町々の幸福と繁栄を約束して下さると思います。
 冥利の力と言いますが、目に見えない仏の慈悲に導かれて、私共はお互に生かし生かされて、日日を送つているのではないでしようか。
 弥勒寺は真言宗触頭(ふれがしら)寺院として元担冗年に創設されていますが特定の壇徒を持たないことが反つて無線の遺骨をお預りする因縁を持つようになつたのかも判りません。何れにしても江東の、遠く江戸時代から災禍の多い地域に住む人々の心情の底には、こうしたみ仏への奉仕によって一抹の温い人情が共通に芽吹くものかと思われます。
ここに十三回忌法要厳修するに当つて常に先達としてお世話頂いた安藤米太郎氏を始め三橋一郎田中牛造、中沢信蓮、梅沢芳男、高橋清一、木村善蔵、渡辺幸守、中村幸治、宇津野和彦、堀内小平、碓井安之助、佐藤万次郎、長田治男、新藤一六、種村嘉一、蓮池数実氏その他町の幹部各位の御尽力を併記して香語といたします。
  昭和三十二年三月十日
写真説明 写真は戦災殉難老慰霊のために建てられた観音聖像 (みろく寺境内安置)

堅川南部各町繊細殉難者十三回忌のパンフレットより


建立時の写真です。
昭和24年頃の写真です。



手前一番右端が静観です。
真ん中にいる当時の住職の前にいる幼い子が、現在の住職でしょうか。
軍服姿の方もまだみえます。
この観音像は、戦後の東京を見つめてきたと思います。
現在、風景は観音像が別の場所へ移築されたかの様に変っています。